下福岡の石仏

福岡橋東詰 ふじみ野市福岡571[地図]


中丸交差点からけやき通りを東へ向かい、旧富士見有料道路を越えてさらに進むと、新河岸川の福岡橋に出る。橋を渡り切ってすぐ左手、空き地のブロック塀の前に石塔が並んでいた。


三基の石塔はいずれも馬頭観音塔。それぞれタイプが違っている。


右 馬頭観音塔 文化9(1812)角柱型の石塔の正面「馬頭觀世音」


塔の右側面に造立年月日。左側面には下福岡村とあり、個人名。さらに馬持中と刻まれていた。


中央 馬頭観音塔 享保20(1735)舟形光背に一面六臂の馬頭観音立像を浮き彫り。光背は風化のために縁が一部欠けている。



頭上に馬頭。尊顔はつぶれていた。馬口印を結び、上の手に剣と法輪、下の手に矢と弓を持つ。光背右脇「奉(造)立馬頭觀世音菩薩 爲□□善畜男菩提也」左脇に造立年月日。足元の部分、右に施主 福岡村、左に個人名が刻まれていた。


左 馬頭観音塔 万延元年(1860)自然石の正面に「馬頭觀世音」裏面に長い銘文があり、その冒頭に万延元年とあるが、ブロックとの隙間が狭く写真は撮れなかった。

下福岡墓地 ふじみ野市福岡492隣[地図]


福岡橋から200mほど先の信号っ交差点を右折すると、すぐその先、道路左側に下福岡墓地があった。入口から六地蔵の小堂が見える。


六地蔵菩薩立像 安永10(1781)丸彫りの六地蔵は像、蓮台、石塔ともによくそろっている。


石塔の正面には中央に各地蔵名が刻まれ、その両脇の銘は、左端 念佛 講中、2番目 福岡村施主 個人名、3番目 施主 個人名。


4番目 武刕入間郡 下福岡村中、5番目 施主 個人名、右端には造立年月日が刻まれていた。


墓地の北東の一角に多くの無縁仏が集められていた。主に墓石で文字塔が多いが、一部像塔が見受けられる。


前から2列目、右のほうに小型の馬頭観音塔 天明4(1784)駒型の石塔の正面に一面二臂の馬頭観音立像。白カビも多く銘は読みにくいが、像の右脇に天明四とかすかに銘を確認できた。


一番奥のほうに鋭角的な舟形光背を持った地蔵菩薩像や阿弥陀如来像など、かなり古そうな石仏が並んでいる。近づくにはかなりの石塔を越えていかなければならない。東隣にある下福岡集会所の駐車場からブロック塀越に撮影を試みたが、銘を確認できるような写真はとれず、今回はあきらめることにした。

天満宮 富士見市福岡262[地図]


下福岡墓地の一本東の通りを400mほど南へ進んだあたりを左折すると左側に天満宮があった。鳥居は東向きに立っていて、その奥の社殿はこじんまりとしている。


社殿の南側に天満宮の解説板が立っていた。社殿の裏に力石と二基の石塔が並んでいるのが見える。


手前 猿田彦大神塔 明和5(1768)笠付きの角柱型の石塔の正面を深く彫りくぼめた中に「猿田彦大神」


枠の部分、両脇に造立年月日。続いて福岡村中。下部に願主とあり、二名の名前が刻まれていた。


奥に三猿塔 延宝4(1676)江戸時代初期に多く見られる板碑型三猿庚申塔と思われたが・・・三猿は大きく存在感がある。


中央に「長昌院大姉」と戒名が刻まれ、両脇の紀年銘は命日か?庚申供養などの銘は見当たらず、こちらは墓石だろうか?三猿塔の墓石となると私は初見で、相当珍しいのではないだろうか。風化のために三猿の顔はのっぺらぼうだった。