和光市白子の石仏

吹上観音下交差点南路傍 和光市白子3-19

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吹上観音下交差点のすぐ南、三園通りを成増方面から来て白子川を渡り、
和光市に入ったところ、右側の路傍に二基の石塔が立っていた。

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右 庚申塔 宝暦10(1760)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。
立派な唐破風笠を持つ。多少彫りは甘くなっているが、腰の脇に二鶏、
足下に邪鬼・三猿とそろい、にぎやかな庚申塔だ。

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腰を高く上げうずくまる邪鬼。どこかで見た覚えがあるのだが・・・
その下の三猿は技巧的ではないがバランスよく彫られている。

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塔の左側面に 武州新座郡下新倉邑吹上。吹上は今は白子3丁目というような
住所になるが、古くは下新倉村だったようだ。右側面「奉建立庚申講中拾七人」
その両脇に造立年月日が刻まれていた。

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左 庚申塔 享保19(1734)梵字「ウン」の下「青面金剛庚申講中」右上に
「橋供養」庚申塔であるが橋供養塔をも兼ねている。白子川の付近にあり、
享保年間にはすでにここに橋が架かっていて成増、吹上両地域の交流が
あったということだろう。右脇に武州豊嶋郡上赤塚成増村。左脇に発起人
青蓮寺隠居者宥尊と刻まれていた。

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塔の左側面、左脇に大きく年号。右は金弐朱、同壱分などと寄付金が刻まれ
その下に成増村道休、吹上東明寺など個人名も含め八つの寄付者名が見える。

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右側面には上部に成増村庚申講拾?人、同村自在講中 拾壱人と並び、
それぞれ講親としてひとりの名前が刻まれていた。さらにその下部には
助力之村方とあり、當邑中、上新倉村、下新倉村、田柄村、上赤塚村、
下赤塚村、四葉村、徳丸村と八つの村名が刻まれる。裏面にも石成村
庚申講中 十人、講親二名の名前が刻まれている。この石塔に見られる
多くの村々の助力はおそらくこの庚申塔のためではなくて「橋」建立の
ための助力・寄付なのだろう。いずれにしてもこの石塔の出自は成増村で
地域の住宅化に伴い現在地に移されたものではないだろうか。

市場稲荷神社 和光市白子3-27

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吹上観音から市城通りを南へ5分ほど歩くと右手の高台に赤い鳥居が見えてくる。
街道から右後に入る急な坂道を登ってゆくと、途中左手に豊川稲荷神社があった。
参道の右脇に二基の石塔が並んでいる。

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右 庚申塔 天和4(1684)正面を彫り窪めた中に「奉修庚申供養為現世後世」
両脇に造立年月日を刻む。その下をもう一段彫り窪めて三猿を彫る。

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塔の下部には本願とあり続いて12名の名前が刻まれていた。塔の前に小さい
石柱があり、昭和5年とあるがこれは何だろう?ちょっとわからない。

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隣 坂石供養塔 明治25(1892)中央「坂石拾本」右脇に年号。左脇 納主として
白子 富澤権次郎。階段の石を奉納したものだろうか。

市場大日堂 和光市白子3-11

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稲荷神社の北、道を隔てて向かいに石階段があり、その先は墓地になっている。
入口左側に大日堂が立っていた

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堂の中、左側に地蔵菩薩立像 文政3(1820)下の台の正面「奉造立延命地蔵大菩薩」
さらに願主として3名の名前が刻まれている。

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台の右側面に年号。続いて4名の世話人の名前を刻む。左側面には市場城山講中。

稲荷坂上住宅前 和光市白子3-21

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稲荷坂を登りきりさらに北へ歩くと道は左に折れる。その先の右手の住宅の前に
二基の庚申塔が寄り添うように並んでいた。

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近くに寄ってみると不思議なことになっている。三猿が彫られた大きな台の上に
二基の庚申塔が並ぶ。この形は初めて見た。


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左 庚申塔 天保8(1837)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。足をハスに
構えた存在感のある青面金剛。大きなショケラをつるしている。このショケラも
足元の邪鬼も相当ユニークだ。こちらの石塔では二鶏・三猿が確認できなかった。

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塔の右側面に年号。その脇に明治三十二年二月再建とある。そうするとこの石塔は
天保8年の庚申塔の破損を受けて、それを模してつくられたものだろうか?

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塔の左側面には下新倉 吹上中と刻まれていた。現在の住所は白子3丁目になるが、
当時の吹上は白子村ではなく下新倉村だったようだ。

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右 庚申塔 天保8(1837)顔を含む多くの部分を欠いていてはっきりわからないが
日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち?六臂だろう。青面金剛の足の構えは
左の庚申塔と似ている。同じ天保8年の銘を持ち、二つの庚申塔はペアでここに
並んでいたと考えるのが自然だろう。

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こちらの青面金剛の足の両脇には二鶏が見える。ネコのようにうずくまる邪鬼。
その下の部分もあまりはっきりしないが両脇に猿が彫られているような気がする。
どうだろうか?

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塔の右側面に年号。左側面に下新倉村吹上講中拾六人と刻まれていた。

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下の台の三猿もなかなか味わい深い。上の二基の庚申塔の青面金剛と比べると
この三猿はかなり大きい。台のサイズも二基の庚申塔を並べるとぴったりだ。
やはりはじめからこの組み合わせでここに建立されたものと思われる。


地福寺 和光市白子2-18-1

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市場から白子川沿いに10分ほど歩き、東上線を越えたあたりが「白子宿」になる。
江戸と川越を結ぶ街道が通り、この地域では最もにぎやかな町場だったらしい。
線路を越えてすぐ細い道を右に入り、線路に沿って少し歩くと地福寺の前に出る。
山門の左手前に石塔が並んでいた。

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右端に大きな寺導。右側面に「関東百八地蔵第七番札所」と彫られている。
平成17年、宿の石材店が寄贈したもの。

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その隣 地蔵菩薩立像 宝永5(1708)右手に錫杖、左手に宝珠をもっている。
台の正面 武州新倉郡白子村とあり12人の名前を刻む。その左脇に年号。

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蓮台の下にはっきりと三猿が彫られていた。銘文こそ見当たらないものの
やはり地蔵菩薩を主尊とした庚申塔ということになるのだろう。

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その左 阿弥陀如来立像 元文5(1740)上部に梵字「キリーク」を彫る。像の表面は
風化が見られ、また手の先が欠けていて印の様子などは確認できなかった。

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塔の左側面に年号。その脇に新座郡白子村。右側面に「為惣御祈祷」と刻む。

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続いて 舗石供養塔 嘉永4(1851)全面に白カビが広がっている。

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塔の右側面に長い銘文。全体は読み解けないが、その中に「舗石」「敷石」などの
文字が見える。「舗石供養塔」は敷石を奉納した記念に立てたものと思われる。
左側面には年号。続いて願主 個人名が刻まれていた。

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左端 馬頭観音立像 合掌 二臂。風化が進み顔のあたりは一部崩落が見られる。
頭上には立派な馬頭を頂いているようだ。

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塔の右側面 願主 金五郎。左側面は隙間が狭く写真は撮れなかったが、武州新座郡
白子宿 馬持連中と刻まれていた。

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山門の右手前にはかなり大きな馬頭観音塔の文字塔が立っている。

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馬頭観音塔 嘉永3(1850)二段の台の上、正面に美しい字で「馬頭観世音」と彫る。
圧倒的なボリューム感だ。下の台の平らな部分にはたくさんの穴が穿たれていた。

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塔の両側面には文字は見当たらない。裏面には大きな字で年号が刻まれている。

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下の台の右側面 寄進とあり、當宿中 牛房 向山 新田 市場 城山 中と刻まれる。
さらに観音講とあり、六村の講員名、最後に惣連中と刻まれていた。

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左側面にも寄進とあり、下新倉村中、上新倉村中、膝折宿馬持中、大和田宿馬持中
中野宿馬持中、引又町馬持中、舘村馬持中、大井宿中、川越石原馬持中、橋戸村中
後安村中、成増村中と刻まれている。裏面はいい写真は撮れなかったが、下新倉村
石工名、當所馬持世話人として8名の名前、最後に願主名。白子宿の馬持世話人を
中心に近在の多くの村の人たちがこの馬頭観音塔の建立に関わったことがわかる。
川越街道によってこういった多くの村とのネットワークができていた、白子宿の
当時のそんな様子が見えてくるような気がした。


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山門を入ると参道左手に六地蔵と五基の石塔が並んでいた。

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左端 庚申塔 日月雲の下に「庚申塔」二段になった台の上の台正面に「講中」
塔の側面裏面、上の台の側面、下の台の正面、右側面いずれも文字が見えない。
下の台の左側面にかすかに文字があるが、これも薄くて判読できなかった。

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隣 普門品供養塔 文化9(1812)台の正面に當宿中と刻む。両脇に 右 川越道
左 大山道とあった。

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台の右側面に年号。続いて武州新座郡白子宿。左側面に3名の世話人の名前、
さらに講中とあり11名の名前が刻まれていた。

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ここから三基の馬頭観音文字塔が続く。左 馬頭観音塔 慶應3(1867)施主 個人名。

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中央 馬頭観音塔 嘉永4(1851)左上が欠け、右側も一部が削れていた。

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右 馬頭観音塔 文化15(1818)正面に力強い彫りで「馬頭觀世音」右脇に年号。
塔の左側面に施主として個人名が刻まれている。

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小堂の中に六地蔵菩薩立像。六体の地蔵像は同じような大きさで表情も似ている。
下の台の大きさも揃っていて、造立当時のままの可能性が高いものと思われる。
残念ながら六基とも下の台の表面が剥がれていて、造立年などは確認できないが
江戸時代後期の可能性が高いのではないだろうか。

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縦長のお顔の真ん中に大きめな鼻が特徴的。どこか素朴な印象を受けた。

 

水元稲荷 和光市白子2-15-18

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地福寺から街道に出て少し歩くと右手に「滝坂通り」があって、急な坂道に
なっている。道際の排水溝からは水の流れる音がかなり大きく聞こえていた。

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左手に建つ大きなマンションの敷地の隅に赤い鳥居が見える。うっかりすると
見逃してしまいそうな場所だ。

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左側に「水元稲荷」このあたり、滝坂という名の通り、清水が湧き出し滝と
なっていたところなのだろう。奥には不動明王坐像が祀られ、右端の石には
「水神宮」と刻まれていた。

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造立年などを示す銘は見当たらない。光背の一部と左手の先を欠いているが
間近に見ると彫りも力強く迫力がある。

 

熊野神社 和光市白子2-15

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白子宿通りと旧川越街道の交差点の少し手前、右手に 熊野神社の入口があった。

細い道を入った先に鳥居が立ち、その奥に熊野神社の 立派な拝殿が見える。

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参道右手一帯に白子富士。志木、朝霞、和光、この地域は富士信仰が盛んらしく
いろいろな富士塚を見てきたが、これほど大きな規模のものはなかなか無い。

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参道右手にある入口。塚全体で30基ほどの石塔が立っているらしいが、鳥居が立つ
この付近には鳥居両脇の石灯籠を初め、多くの石塔・石碑が集まっていた。

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登山道の最初、合掌する猿を線刻した一対の石塔が立っている。志木でも狛猿を
見たが、申(さる)の日に富士山が現れたとの故事から猿が神使とされたらしい。

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その先、塚のふもとに大きな石碑が立っていた。自然石の上部に富士山が線刻され
その下、右左に「富士登山三拾三度大願成就」右のほうは文化2(1805)の銘があり
御中道修行、南雲切開闢、その下に冨澤繁右ェ門と刻まれている。また左のほうは
文久2(1862)の銘があり、御中道修行、内外八海修行、下に二代目 同 繁右ェ門と
なっている。さらに左脇に三代目 同 繁右ェ門建之と刻まれていた。資料によると
この三代目が白子の富士講の創始者である祖父の遺志を継ぎ、近隣の多数の人々の
協力を得て明治3年にこの富士塚を築きあげたものだという。また、三代目自らも
明治12年に大願を果たし、自身のための石碑を建立しているという。

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登山道を登ってゆくと石祠や石碑、雲切不動像などが立っていた。

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石祠の祀られた山頂からは、森の中に熊野神社の勇壮な姿を見ることができる。

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拝殿、社殿の裏はうっそうとした森。地形としては段丘になっていて、崖下からは
今も湧き水が見られるという。古くから白子宿の人々の信仰を集め、江戸時代には
白子村の鎮守社であったらしい。

清龍寺不動院 和光市白子2-15

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熊野神社左手の崖上には清龍寺不動院。急な石段の先に狛犬が見えている。

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石段を登り切った正面に不動院があった。滝行場は今も健在で、行者、山伏が
出入りしているという。

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本堂右手前の手水場。小型の不動明王立像が祀られているが銘は確認できない。

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不動院の右手にも石段があり、神社のほうに降りてゆくと「乃木大将修行の瀧」が
あった。滝行場は「南無大師遍照金剛」の旗が立てられ全体を塀で囲まれているが
奥の崖のところに小さく不動明王像の姿が見えた。

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燃え盛る炎の光背。右手に剣左手に索を持つ不動明王坐像。遠目にも迫力がある。
資料によると天保15(1844)の建立らしいが近寄ることはできず残念ながらこれも
はっきりしたことはわからなかった。

並木石材店前 和光市白子2-23-29

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宿通りと旧川越街道の交差点の南西角、石材店の前に馬頭観音塔が立っていた。

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馬頭観音塔 大正5(1916)自然石の中央に「馬頭觀世音」と刻む。

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裏面に年号。施主は柴崎氏とある。親戚筋だろうか?店の前を通るこの道は
このあと「大阪通り」の急な坂道を登り、笹目通りを越えて「浅久保通り」、
和光市駅を経て志木方面へ向かう。江戸時代の川越街道は今の旧川越街道でも
現在の国道246号線でもなく、こちらの大坂通りのほうのルートだったらしい。
白子宿はいろいろなムラを結ぶ交通の要のようなところだったのかもしれない。

 

観音寺 和光市白子2-28

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吹上から白子宿まで白子川に沿って南に向かう道は、西に和光市の台地が広がり
その崖の縁に沿って歩くことになる。川越街道を横切りさらに進むと午房地区。
白子川が西に向けてゆるくカーブするあたりに観音寺の入り口があった。左には
コミュニティーセンター。後ろは八雲神社の森になっている。

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正面に比較的新しい堂が立ち、右の小堂の中には五基の石塔が並んでいた。
堂に向かう階段の脇に手水石と一対の石灯籠が立っている。

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小堂の中 左から 庚申塔 安永元年(1772)合掌型六臂。風化のために像容は
はっきりしない。足のあたりもやせ細り頼りないが、それでもうっすらと
邪鬼、二鶏、三猿らしいかげが見うけられた。

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塔の右側面 上部に 右 ひきまた かわご江 道。下部に年号。脇に白子村と刻む。
左側面は手前が剥落しているが 左 ところざわ。発主 円信法師と刻まれていた。

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隣 かなり大きな地蔵菩薩立像。全体に美しくバランスもよい。

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右手に錫杖、左手に宝珠を持ち、ゆったりとしたお姿に確かな安心感を覚える。

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台の正面にはっきりと三猿が彫られていた。先日紹介した地福寺門前の地蔵像と
よく似ている。台の両側面に銘が見られるが彫りが薄くなっていて判読が難しい。
右側面の中央下部に薄く三月(?)と見えるが、その上の年号が読めなかった。
左側面に、かすかに午房村、白子村、□□□拾壱人。残念ながら詳細は不明だが
庚申信仰にかかわりがあることは確かだろう。

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その隣 地蔵菩薩立像 宝暦4(1754)頭部は後から補ったものだろうが、ただ石を
乗せただけのような状態で顔などはうかがえない。

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台の正面 武州新座郡白子村向山。右側面 願主個人名。左側面中央に 講中廿人。
両脇に造立年月日が刻まれていた。

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一番奥 地蔵菩薩立像 享保11(1726)光背右脇に祐西法師。左わきに年号を刻む。
顔がはっきりしない。人為的に削られたものだろうか。

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右手前 順礼供養塔 文政3(1820)正面中央に「奉順禮壱千箇寺供養塔」上部両脇に
神社 佛各、下部に造立年月日が刻まれている。

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塔の右側面 天下泰平 子孫長久。左側面 白子村後安□坂下 施主 個人名を刻む。
さらに 八十六才 而是立也と刻まれていた。

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小堂の裏、ブロック塀の前に二基の石塔が並んでいる。

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右 普門品供養塔 明治4(1871)塔の正面に「普門品供養塔」裏面に年号。
台の正面には大きく「連経中」と刻まれていた。

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台の側面はカメラが入りにくい。かろうじて両側面合わせて十数名の名前が
刻まれているのが確認できる。

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左の石塔 正面に見える文字がことごとく読みにくい。素直に読めるのは
供養塔の供の字くらいだ。ちょうど真ん中あたりに断裂した跡があるが、
その下は「供養塔」だろう。上の文字はその内容から手水石、石灯籠、
石坂ぐらいだろうか。

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右側面の文字は「檀徒中」の当て字か?裏面に明治13年の銘が見える。

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本堂前に戻って手水石を見ると明治13年の銘があった。

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さらに両側の石灯籠の竿部にも明治13年と刻まれている。石灯籠と手水石、
文字も同じに見える。石階段も含めて一緒に奉納されたものだろう。