大相模東地区の石仏

 

観音堂墓地 越谷市相模町6-566南


大聖寺の入口から旧吉川県道を東に進む。不動橋の南の信号交差点を越えて100mほど先、道路左側に観音堂の墓地の入り口があった。奥に番場自治会館の建物が見える。


入口右側に平成23年に修繕された真新しい六地蔵菩薩像の小堂があり、その脇に角柱型の石塔が立っていた。


馬頭観音塔 文政5(1770)角柱型の石塔。正面は全面的に剥落、銘は全く読めず、資料によって馬頭観音塔とさせていただく。塔の左側面は無銘。右側面に造立年月日。下の台の正面に「講中」両側面に合わせて30名ほどの名前が刻まれている。


奥に進むと左右に墓地が分かれている。左側の墓地の入り口近くに普門品供養塔 安永3(1774)二段の台の上の角柱型の石塔の正面梵字「ア」の下に「奉讀誦普門品八萬四千巻」下部に法名が刻まれ、その脇の紀年銘は命日だろうか。


同じ左側の墓地のブロック塀の前に三基の石塔が立っていた。


左 六地蔵供養塔 享保元年(1716)こびりついたカビがまだら模様のようになっていて遠目には文字らしいものは全く見えない状態だが、近づいてみると意外としっかり読み取ることができた。正面 梵字「カ」の下「奉造立六地蔵菩薩□諸衆二世安樂祈所」右脇に八条領西方邑同行五十五人。左下に観音堂願主 了恩禅門。塔の右側面には造立年月日が刻まれている。


中央 庚申塔 文政6(1823)駒型の石塔の正面 梵字「ウン」の下「青面金剛」塔の左側面は無銘。右側面に造立年月日。


下の台の正面、右端に當所西方とあり、続いて11名の名前。左側面にも9名の名前が刻まれている。


右 普門品供養塔 寛政10(1798)大きな台の上、角柱型の石塔の正面に「普門品供養塔」両脇に造立年月日。台の正面 右端に観音講中とあり、続いて16名の名前が刻まれていた。


塔の右側面 武州八条領大相模 西方村 是より廿九ばん 六町。新四国霊場29番はここから800mほど東、大成町1丁目の観音寺。一町=110mとすると7町ということになる。塔の裏面にも観音講中と刻まれている。


塔の左側面 梵字「サ」の下に「正觀世音」下部両脇に新四國 廿八番。台の左側面には13名の名前が刻まれていた。

地蔵堂 越谷市相模町6-494南


観音堂墓地の入り口からさらに東へ進む。100ほど先で斜め左に入り、北へ200mほど行くと正面の住宅の脇にお堂が立っていた。今は住宅街になっているが、このお堂から元荒川の土手道までは明治5年に廃寺となった金剛寺というお寺があったという。


地蔵菩薩立像 承応2(1653)錫杖が長く頭の上まで来ているのは江戸時代初期の地蔵像の特色といえるだろう。堂内は薄暗く文字は見にくい。


光背右脇、お地蔵様の左肩の横あたりに「本願金剛寺」その下に文字は薄くなっているが造立年月日が見える。光背左脇、お地蔵様の右手の横に施主十九人 女十一人 敬白と刻まれていた。

 

田向自治会館南墓地 越谷市相模町5-448


不動橋南交差点から旧吉川県道を東に進み、500mほど先の信号交差点の一つ前のT字路交差点を右折して南へ200mほど行くと右手に田向自治会館があった。その南は墓地になっているが、その入り口わきに石の祠のようなものが見える。


ブロックで守られるように二基の石塔が並んでいた。中は薄暗く、ゆっくりと見ることは難しい。


左 庚申塔。駒型の石塔の正面 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂?塔の上部は青面金剛の顔も含めて大きく剥落。紀年銘なども確認できず詳細は不明。


足元の邪鬼は頭が左にあるが全体に摩耗していて大きな塊にしか見えない。その下に三猿。一部は土に埋まっている。


右 庚申塔 文政4(1821)駒型の石塔の正面 日月雲「庚申供養」両脇に造立年月日。側面は確認できなかった。


入口右脇にも同じようなブロックの祠があり、中には六地蔵菩薩立像とやや大きな丸彫りの地蔵菩薩立像が並んでいるが、こちらも紀年銘は確認できず詳細はわからない。

桜堂墓地 越谷市相模町5-384付近


田向自治会館のある所はT字路の突き当りになっていて、そのT字路交差点から東に進み、すぐ先の十字路交差点を右折すると、道路右側に桜堂墓地があった。入口から左側が一般の墓地、右側は生け垣で囲まれて古い石塔が集められている。

生け垣から中に入ると入り口付近は両側に大型の五輪塔などが並ぶ。右側の一番手前の五輪塔には享保年間の紀年銘が刻まれていた。


その奥には様々な石塔、石仏が整然と並んでいる。手前には舟形光背を持つ如意輪観音坐像、地蔵菩薩立像など、その奥左側に小型の宝篋印塔などが集められていた。


右側の2列目、隅飾型の笠を持つ宝篋印塔の向こうに同じようなサイズの二基の板碑型の石塔が並ぶ。右は個人の墓石のようだが寛文7(1667)?の銘がある古いものだ。


左 六字名号塔 寛文10(1670)江戸時代初期に典型的な板碑型石塔。下部に大きな蓮が彫られていた。


阿弥陀三尊種子の下「南無阿弥陀佛 逆襲」右脇に造立年月日。左脇に逆襲供養の施主名が刻まれるが、こちらは彫りが薄くはっきりとは読み取れない。□譽□鑑だろうか?


その奥の列に板碑型庚申塔 延宝元年(1673)ややこぶりだが江戸時代初期によく見られる文字庚申塔。阿弥陀三尊種子の下「奉造立庚申石仏一宇供養攸」上部両脇に造立年月日。右下に「敬白」左下に中村伝右衛門さらに同道三人。


一番奥の竹垣の前には大小さまざまな7基の板碑が並んでいた。


左端 六字名号板碑 文和3(1354)越谷市の有形文化財に指定されている。経年のために彫りは薄くなっていた。下部に蓮台を彫り、その上に一遍流という独特の書体で「南無阿弥陀佛」両脇に造立年月日。実際の銘は「文和二年」となっているが、資料によると干支が「午」となっていることから、文和二年は間違いで文和三年だろうとしている。墓地入口に越谷市教育委員会の解説板が立っているが、そこでも「文和三年六字名号板碑と紹介されていた。