桜区白鍬

 

慶福寺 桜区白鍬68[地図]


鴨川に架かる在家橋東詰の信号交差点から50mほど東、右折して細い道に入るとすぐ左手に慶福寺の入口があった。敷地内に入ると正面に六地蔵の小堂が立ち、その左に二基の地蔵菩薩塔が並んでいる。


小堂の中 六地蔵菩薩立像 寛政8(1796)丸彫りの六体のお地蔵様はサイズも揃い、蓮台と石塔の様子も統一感がある。


右の三基の石塔の正面に「念佛講中」右端の両脇に造立年月日が刻まれていた。


左の三基の石塔、右は僧侶の名前、その隣には「光明真言一百万遍供養塔」左端には三つの戒名が刻まれている。


六地蔵の小堂の隣に大小二基の丸彫りの地蔵菩薩塔が並んでいた。


右 地蔵菩薩立像 宝永2(1705)全身白カビに覆われている。


蓮台の花弁に銘。右に造立年月日、中央に武刕足立郡植田谷領、左に施主 白鍬村。


敷茄子の正面に多くの名前が刻まれていた。


左 地蔵菩薩立像 元禄15(1702)こちらも白カビが多い。


蓮台の中央の花弁に白鍬邑施主。さらに敷茄子の正面に銘が見えるがこちらは読めなかった。


背面中央 権大僧都法印宥□不生位。その両脇に造立年月日が刻まれている。


二基の地蔵菩薩塔から北を見ると右手に寺標、左に敷石供養塔が立ち、その間の参道の先、右手に本堂、左手にも四角いお堂が立っていた。参道の脇に墓石がまったくなく、空き地のようになっているのはふしぎだ。


瓦屋根のお堂の脇、ブロック塀の前に四基の石塔が東向きに並んでいる。


左から 題目塔。白カビがこびりつき、銘は薄くなっている。


駒型の石塔の正面、中央に薄くヒゲ文字で「南無妙法蓮華経」その両脇にも銘があるようだがうまく読めなかった。


ヒゲ文字の下に「馬鳴大□」と刻まれている。「馬鳴」を調べてみると古代インドの仏教僧侶で馬鳴菩薩=衆生に衣服を与える菩薩、また養蚕織物の神ということだが、法華経との関連となるとよくわからない。


塔の左側面に施主 個人名が刻まれていた。右側面にも文字らしきものが見えるが読み取ることは難しい。造立年月日が確認できず詳細はわからない。


その隣 庚申塔 元禄6(1693)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。こちらも白カビが目立つ。


カビが厚くはっきりしないが、頭上はまるで馬頭のように見える。持物は刃渡りの長い矛?法輪、弓矢。像の両脇に造立年月日。


足元には正面向きの三猿が彫られていた。その下の部分に武刕 白鍬村とあり、十数人の名前が刻まれている。


続いて馬頭観音塔 天保9(1839)大きな四角い台の上、角柱型の石塔の正面に「馬頭觀世音菩薩」白カビの中、銘はごく薄くライトをあてても一部読み取れない。右脇に造立年月日。左脇には□□□道。下部に講中とあり、数人の名前が刻まれていた。


塔の左側面 あきば? 川こへ 松山 ミち。下部に世話人 数名の名前。


右側面も難読。よの 大ミや 道か?三面に地名が刻まれていて、道標の役割が大きかったのだろう。


下部に馬持とあり、四名の名前が刻まれていた。


右端 三十三番供養塔 天明6(1786)凝った細工の施された台の上、蓮台の上の角柱型の石塔の正面、阿弥陀三尊種子の下「奉納 秩父 西國 坂東 三十三番供養塔」この場合三十三番は真ん中の西國観音霊場三十三箇所のことだろうか?34+33+33で百番供養塔というのが普通かと思うのだが・・・


塔の右側面 梵字「アーンク」の下、月山 湯殿山 羽黒山。その下に天下泰平 國土安穏。


左側面に「南無大慈大悲觀世音菩薩」


さらに裏面に四國八十八箇所阿波国一之宮移。十三番 慶福寺。導師 林光寺住 覚譽上人。全部の面の銘を合わせると、観音霊場、出羽三山、四國移霊場の順礼供養塔ということになるだろうか。