船渡の石仏

 

平方工業団地入口交差点東 県道102号線路傍 越谷市船渡2118北


国道4号線越谷春日部バイパスの平方工業団地入口交差点から東に向かい、その先で県道102号線に出て右折する。少し南に進むと左側路傍に小堂が立っていた。


小堂の中 馬頭観音塔 寛政8(1796)上部に二臂の馬頭観音立像を浮き彫り。


下部中央に「馬頭觀世音」両脇に造立年月日。その下には舟戸村とあり四名の名前が刻まれている。現在の地名は「船渡」だが本来は「舟戸」だったのだろうか。

上組集会所 越谷市船渡2054-2


国道4号線越谷春日部バイパスの大泊交差点から東に向かう道は、途中から県道102号線と合流して古利根川右岸の船渡、大松、大杉、川崎、向畑の各村を通り、やがて古利根川の蛇行に合わせるように南西に方向を変えて、大吉のキャンベルタウン方面に向かうことになる。この街道沿いに多くの石仏ゾーンがあった。さて、県道102号線と合流してから東に200mほど行くと左側路傍に集会所の案内板が立っている。ここから細い道を北に入ってゆくと、左手に上組集会所があった。集会所の前は墓地。奥には六地蔵が見える。


六地蔵は右の二基が新しいもので、六基とも蓮台が直接コンクリートの床面に置かれていて、本来の台を欠き紀年銘などは見当たらなかった。六地蔵の脇には四基の石塔が南向きに並んでいる。


右から如意輪観音坐像 寛文11(1671)寛文期らしく美しい舟形光背を持つ二臂の如意輪観音。光背右脇に念佛結衆同行六十五人。左脇に造立年月日が刻まれていた。月待念仏信仰の中で十九夜講、二十二夜講などが如意輪観音を本尊とするようだが、加藤氏は資料の中で「越谷市など千葉県に隣接した地域で十九夜念仏の信仰が盛んであった」としてこれを十九夜念仏塔と断定している。いずれにしても安産を祈願する女人講によるもののようだ。


その隣 念仏供養塔 明和9(1772)駒形の石塔の正面中央 梵字「キリーク」の下「奉唱百万遍十五億供養為二世安樂」上部両脇に造立年月日。中程右脇に舟戸村 願主忍性、左脇に同行男女百六十人、下部両脇に男女二名の戒名が刻まれている。


続いて十三仏供養塔 安永7(1778)隅丸型の石塔の正面中央「奉造立十三佛供養塔」上部両脇に造立年月日。下部右脇に船戸村同行、左脇に四十人と刻まれていた。


左端 順礼供養塔 宝暦9(1759)駒形の石塔の正面中央上部に阿弥陀三尊を梵字であらわし、その下に「奉順禮十三佛尊供養」上部両脇に造立年月日。下部右脇に舟戸上組講中、左脇に男女五十人と刻まれている。

 

船渡香取神社 越谷市船渡1869


上組集会所の入口から東へ200mほど進み、左の道に入るとその先に香取神社がある。鳥居の手前右側に四基の石塔が並んでいた。


右端 雨除けの下、不動明王坐像 慶応2(1866)正面に「中組連中」と彫られた台の上にやはり正面に「成田山」と大きく刻まれた角柱型の石塔。その上に不動三尊像が乗る。


炎の光背の前に剣と羂索を持つ不動明王坐像。その下には中央の滝をはさんで制吒迦童子と矜羯羅童子。平方などこの近辺でよく見るおなじみの構図の三尊像である。


塔の右側面に造立年月日。左側面には世話人とあり、八名の名前。下の台の側面にも文字らしいものが見えるがよくわからない。


その隣 庚申塔 正徳4(1714)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。駒形の石塔全体を白カビがまんべんなくおおいつくしていた。


足下に邪鬼と三猿。いずれも風化が著しい。台の正面右に造立年月日。左には舟渡村同(行)三拾七(人)と刻まれている。


続いて庚申塔 慶応元年(1865)角柱型の石塔の正面に大きく「青面金剛」下部に五名の名前。


塔の左側面に造立年月日。両側面の下部にはそれぞれ三名の名前が刻まれていた。


左端 庚申塔 享保14(1729)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。頭部は損傷があり顔もはっきりしない。


光背下部右脇に船渡村同行三拾五人。左に造立年月日。塔の下部は土に埋まり、線刻された二鶏と邪鬼はかろうじて確認できたが三猿は土に中だろうか?


鳥居の先、拝殿の左の植え込みの陰に石塔が並んでいる。


左から庚申塔 文化3(1806)角柱型の石塔の正面 日月雲「庚申塔」台の正面、半分土に埋もれて三猿が彫られていた。


塔の右側面に造立年月日。左側面の下部に舟渡村 中組講中と刻まれている。


その隣 庚申塔 寛政12(1800)角柱型の石塔の正面 日月雲「青面金剛」塔の右側面に造立年月日。左側面 武州崎玉郡新方領舟渡村 大鳥。


台の正面に三猿。その下の部分に願主とあり十三名の名前が刻まれていた。


続いて庚申塔 延享2(1745)駒形の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。右脇に造立年月日。


足の両脇に比較的はっきりとした二鶏。四角い顔の邪鬼。その下に三猿。三猿は中央は正面向き、両側はともに左向きというあまり見ない構図。下の台の正面には薄く十数名の名前が刻まれている。


右端 庚申塔 宝暦10(1760)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。塔の左側面に造立年月日。右側面「奉供養庚講中」


足下は邪鬼だろうか?三猿ともに風化が著しい。台の正面右から 船戸(村) 大鳥 施主 十九人と刻まれていた。

 

無量院 越谷市船渡1804


香取神社の東、少し歩くと左手に無量院がある。入口手前のブロック塀の前に石塔が立っていた。香取神社のほうから来ると電柱の陰になっていて、はじめて訪ねた時は気が付かないで通り過ぎた。


石橋供養塔 安永7(1778)駒型の石塔の上部正面を削って薄くし、地蔵菩薩半跏坐像を浮き彫り。その下、中央「石橋供養塔」両脇に造立年月日。右脇下に村々勧化、左脇下に願主中組と刻まれている。


入口の左側、ブロック塀のすぐ近くに三基の六地蔵塔が並んでいた。


左 笠付きの六面六地蔵石幢  享保3(1718)六面にそれぞれ蓮台付の地蔵菩薩立像を浮き彫り。笠付のためか欠損もなく比較的美しい。


地蔵像の下の部分正面 無量院五世空譽代、時計回りに左に回って次の面は無銘、次の面に造立年月日。さらに百萬遍講中。続いて船戸村同行 三拾五人 願主個人名、最後の面には外七人と刻まれていた。


その奥 一石六地蔵塔 享保3(1718)駒型の石塔の正面に蓮台付の六地蔵菩薩立像を浮き彫り。下部右に造立年月日。続いて「三界萬霊 乃至 有縁無縁」左に願主 空譽大円和尚とある。上の六面幢と同じ年の造立で願主も同一人物のようだ。


右 一石六地蔵塔 享保15(1730)やはり駒型の石塔の正面に蓮台付の六地蔵菩薩立像を浮き彫り。六体の地蔵像のすきまの空間に戒名と命日、右下に造立年月日。中央下部に施主個人名が刻まれていた。


墓地の間を本堂に向かって歩いてゆくと右手に地蔵菩薩立像 延宝4(1676)舟形の光背に静かな表情の地蔵菩薩立像を浮き彫り。光背右脇「念佛供養為菩提也」左脇に造立年月日。下部両脇に施主 敬白と刻まれている。


本堂の左手前に歴代住職の墓石や無縁仏など多くの石塔がが集められていた。


前列右端 六臂の馬頭観音立像。光背右脇「奉安置 男女菩提」左脇に同行 二十人。下部両脇に 施主 敬白。紀年銘は見当たらない。 


馬頭観音像になかば寄りかかるように薬師如来立像。光背の両脇に文字が見えるが読み取ることはできなかった。


前列左 開山塔。反花座の上に六角柱の石塔。正面に佛説山無量院開山 心蓮社三譽大和尚。その両脇の面に命日(天正2年=1574年)が刻まれていた。さらに蓮台の上には、舟形の光背を持った阿弥陀如来坐像が乗っている。造立年月日は定かではないが江戸時代初期のものと思われる。


右端二段目、馬頭観音の後ろに千手観音立像。横顔が美しい。光背に銘は見えない。下部の蓮台正面には「三界萬霊」などと刻まれている


二段目中程に阿弥陀如来立像。舟形の光背の上部に「奉安置」顔の右脇に弥陀三尊像、六觀世音像、左脇に浄土三部経、一千部供養と刻まれ、その下に増林村 同行二百四十四人、小林村同行十人、平方村同行二百人、以下、近隣の多くの村の名前が刻まれていた。資料によると裏面に元禄6(1693)の紀年銘があるということだが確認は難しい。


三段目右端、千手観音の後、浄土三部経供養塔 元禄9(1696)唐破風笠付きの角柱型石塔。正面中央「奉讀誦浄土三部妙典五千部」右脇 當院四代厭蓮社□譽貞悦和尚。左脇に紀年銘が見える。


最後列の左端 十一面観音立像。頭上の阿弥陀如来の化仏まできれいに彫られていて、その横顔もまた美しい。光背左脇に戒名と敬白という文字が見えるが、あとは確認できず詳細は不明。その他、狭い所に聖観音菩薩立像や如意輪観音坐像などが見られるが、隙間なく並んでいるため近づいて写真を撮ることも、また銘を確認することもできなかった。

大鳥集会所前の墓地 越谷市船渡1746付近


無量院から東に向かい県道102号線に出る。ここから300mほど先、ゴルフ練習場のある辺りで左に入ってしばらく進むと左手に船渡自治会大鳥集会所があり、その前は墓地になっていた。


入口付近の墓地の中 一石六地蔵塔 享保3(1718)駒型の石塔の正面に六地蔵菩薩立像を浮き彫り。塔の上部の一部に欠損が見られるが銘は完全な形で残っている。右脇に念佛講人数 船渡村二十人。左脇に造立年月日。その下に龍正寺七世千譽代と刻まれていた。

 

船渡新田集会所 越谷市船渡246西


荻島方面から国道4号線越谷春日部バイパスを北に進み、下間久里(北)交差点のあたりで斜め右に入り間久里新田橋で新方川を渡って東に向かう。橋から200mほど行くと左手の畑の向こうに船渡新田集会所があった。入口から集会所までは狭い砂利道で、集会所は一般住宅のようでもあり、初めて訪ねた時にはうまく見つけられなかった。


集会所の端に大きな丸彫りの釈迦如来坐像。蓮台の下の台はあとから付けられたものらしく、本来の台を欠いているため、造立年など詳細についてはわからない。


コンテナの裏、西側のブロック塀の前にいくつか石塔が並んでいた。手前に首のもげた地蔵菩薩像が見える。


その奥 普門品供養塔 天明5(1785)角柱型の石塔の正面 梵字「サ」の下「奉供養普門品一萬巻」両脇に造立年月日。


塔の両側面、下部にそれぞれ五名の名前が刻まれていた。


一番奥 庚申塔 正徳4(1714)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。蛇を頭にいただく三眼の青面金剛。全体に彫りは丁寧だが、光背には白カビが目立つ。


足の両脇に二鶏を線刻。邪鬼は踏みつぶされている。その下に正面向きの三猿。


塔の右側面「奉造立庚申供養所願成辨結衆」


左側面に造立年月日。その下には五名の名前が刻まれていた。