川柳町の石仏

 

八幡神社 越谷市川柳町3-193北


県道380号線を蒲生方面から東に進み、天神橋で葛西用水を越え100mほど先の交差点を右折すると、すぐ左手に八幡神社がある。入口近く、参道右側に石塔が立っていた。


鉄の檻に囲まれるように三基の石仏が並ぶ。


右 丸彫りの地蔵菩薩立像。銘は確認できず詳細不明。顔が大きくアンバランスなのは後から補われたものだろう。


中央 庚申塔 文政9(1826)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。顔など一部は剥落、全体に風化が進む。足元は頭を左にうつぶせの邪鬼。塔の右側面に造立年月日。左側面に草加六丁目 青木宗義 これは石工名か?台の正面に「講中」とあるが、像と台の付き方が不自然で資料では本来の台ではないとされていた。


逆巻く髪形の青面金剛。ショケラが足にすがりつく。衣装の端が波打ち、法輪などの細密な彫りの様子は江戸時代後期によく見られる特徴と言えるだろう。


左 庚申塔?元禄9(1696)古い石仏で白カビが厚くこびりつく部分も多く今一つはっきりしない。下の台の正面に大きな三猿が見えるが、写真で見る通り、像と台の付き方がやはり不自然で、こちらも資料では本来のものではないとされている。


台の三猿が庚申塔である根拠にならないとしたら、像の様子と銘で判断するしかない。近寄って見るが、頭の上のかたまりが馬の頭なのか、青面金剛に特有の髪形なのかよくわからない。合掌した手もふっくらした馬口印なのか、普通に合掌型の青面金剛なのか、判断するには決め手を欠く。後ろの手は法輪と長い鉾のようなものを持ち、合掌手と合わせて四臂。珍しい構成である。自信はないのだが、馬頭観音にしては衣装が少し地味のような気がするのだがどうだろう。光背右脇に結衆とあり、男十二人 女五人。左脇に造立年月日。銘もここでは判断材料にはならないようだ。

成就院 越谷市川柳町2-267


天神橋の東、右折して八幡神社に向かう交差点から斜め左に入る道がある。この道を道なりに進むと道路左側に成就院の入口があった。山門の正面に本堂が見える。


山門の右、塀の前に三基の石塔が並んでいた。


右 湯殿山供養塔 寛政13(1801)角柱型の石塔、上部に仏像を彫り、その下に「湯殿山講中」両脇に天下泰平 國家安全。塔の両側面に造立年月日。台の両側面にそれぞれ5名、合わせて10名の名前が刻まれている。


上部の仏は大日如来坐像。円形の光背を背に智拳印を結び蓮台に座る姿は、小さいながらも神々しい。


中央 普門品供養塔 弘化2(1845)角柱型の石塔の正面 梵字「サ」の下に「普門品二万巻供養塔」塔の両側面に造立年月日。台の正面には「講中」とあり、台の両側面に合わせて24名の名前が刻まれていた。

 
左 地蔵菩薩立像 寛文13(1673)舟形の光背に気品のある地蔵菩薩像を浮き彫り。古い石仏だが太い錫杖も宝珠も健在。光背上部、首のあたりに見えるのは断裂跡だろうか、幸いなことに銘も像も大きな影響は受けていないようだ。光背右脇「奉造立念佛結衆」とあり、その下に菩提三人 逆修廿一人。左脇には造立年月日が刻まれている。


参道の右側に鐘楼があり、その奥が墓地になっている。入口付近に宝篋印塔と石地蔵が並んでいた。


右 宝篋印塔 延享5(1748)屋根型の笠を持つ。塔身部四面に梵字を彫る。


基礎部に願文。最後の面に造立年月日。さらに武蔵國崎玉郡伊原村 伊光山成就院第十七世 供養導師 法印永順 願主 邑中男女 敬白と刻まれている。


小堂の中 地蔵菩薩立像 明和元年(1764)四角い台の上に美しい彫りを施した敷茄子、蓮台、さらに丸彫りの地蔵菩薩立像。


台の正面「奉建立地蔵尊講中」両脇に造立年月日。下部に願主敬白。両側面には六つの僧名とともに おいく、おさん などひらがなで30名ほどの名前が刻まれていた。

 

伊原久伊豆神社 越谷市川柳町2-196


成就院の250mほど北に伊原久伊豆神社がある。その入口の道路を挟んだ向かいの住宅の塀の前に三基の石塔が並んでいた。


右 庚申塔 元禄9(1696)上部の欠けた駒形の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ?持ち六臂。


塔の正面は右半分が特に白カビが厚く、文字なども甚だ読みにくい。像の右脇「奉造立庚申供養衆二世安樂所」左脇に造立年月日。青面金剛の足元は邪鬼ではなく磐座のようだ


塔の下部に三猿。青面金剛の立つ磐座と三猿の間の部分に8名の名前が刻まれていた。


中央 庚申塔 安永2(1773)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。白カビは像の周りに集中的に多い。塔の右側面に造立年月日。左側面に施主1名の名前が刻まれている。


愛の両脇に二鶏を半浮彫。足元に不気味な邪鬼が横たわり、その下に三猿が彫られていた。


左 庚申塔 天明3(1783)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。これも白カビが多く、ここの三基はいずれも道端に立つ野仏だったのだろう。


足の両脇に二鶏。怖い顔をした青面金剛に頭を踏まれているのに、二匹の邪鬼は悲壮感もなくリラックスムード。その下の三猿は小型で、三角形に配置されている。


塔の右側面「天下泰平 國土安穏」その下に造立年月日。左側面には14名の名前が刻まれていた。

稲荷神社 越谷市川柳町5-27北


久伊豆神社から150mほど東の五差路交差点を左折し、100mほど先を右折すると、その奥に稲荷神社がある。鳥居の向こう、参道左に石塔が並んでいた。


左 庚申塔 元禄8(1695)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。右脇に造立年月日。その下に山谷村。左脇に同行二十八人。青面金剛の顔がつぶされているが、その周りもやすりでもかけられたように見える。


近寄って見ると塔上部右の月輪の下に「塞神」と刻まれている。これについては資料に詳しく説明が書かれていた。明治初年の神仏分離が実施された時期に、この地域では庚申塔の表面を削り「塞神」と改刻する政策が進められたということらしい。廃仏毀釈のために多くの石仏が破壊されたり、棄却されたりした、それと同じような意味合いのようだ。元禄期の古い庚申塔だけになおさら惜しい気がしてならない。


足元には白カビにまみれて邪鬼と三猿が彫られている。


中央 庚申塔 宝暦3(1753)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。


これも改刻された庚申塔だった。青面金剛の頭の真上に「塞神」像の両脇に造立年月日が刻まれている。合掌した青面金剛は瞑目して一心に祈りをささげているようにも見えた。


足の両脇に二鶏。頭を左にしてうずくまる邪鬼。その下に三猿が彫られている。


右 塞神塔 天明5(1785)彫りも薄く、白カビも広がり文字は著しく読みにくい。駒型の石塔の正面中央に大きく「塞神」その両脇に造立年月日。下部には 女中講中 八人敬白。これも「庚申」の文字を削って改刻されたものかもしれない。

 

 智泉院 越谷市川柳町5-282


県道380号線、天神橋で葛西用水を越えて東へ1kmほど進むと草加市に入る。そのすぐ手前の信号交差点の近くに智泉院の入口があった。山門手前右側に墓地が広がる。山門内にも本堂の右から裏にかけて墓地があった。


山門手前の墓地の入り口付近、小堂の中に地蔵菩薩立像 寛保2(1742)丸彫りの延命地蔵。錫杖・宝珠など欠損もなく彫りもきれいな状態を保つ。


蓮台の下の台の正面 上部に梵字「カ」右に「大乗妙典六十六部日本回國供養佛」脇に願主寂湛。左側に念佛講女中。続いて造立年月日が刻まれている。


墓地に入ってすぐ右を見ると、道路側の塀の前に無縁仏など、多くの石塔が集められていた。一番後ろの列に庚申塔をはじめ貴重な石仏が多く並んでいる。


右端からいくつか墓石が並び、そのあと、庚申塔 元禄年間。舟形の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。前の列の石塔が邪魔になっていて全体を見ることが難しい。風化も進み文字も不鮮明。像の右脇「奉供養庚申講二世安樂」左脇は破損のためほぼ読めないが元禄の「禄」だけが見えた。


脇からのぞき込んで下部を確認する。足の両脇に二鶏を線刻。邪鬼は頭を左にしてうつぶせ。その下にしっかりとした三猿が彫られていた。


その隣 庚申塔 宝永2(1705)駒型の石塔の正面 剣・羂索持ち六臂。こちらも風化が著しく白カビも多く様子が分かりにくい。頭上には蛇がとぐろを巻いているが、顔のあたりはつぶされているようだ。右下に「奉供養庚申講中」左脇に同行三十五人。さらに造立年月日が刻まれている。


下部をのぞいてみるが隙間が狭くて苦しい。どうやら二鶏は無く、邪鬼と三猿が彫られているようだ。


続いて光明真言供養塔 天和2(1682)石塔の間に上半分だけが顔を出す。上部には笠が付いていた跡がある。


角柱型の石塔の正面中央、梵字「ア」の下に「光明真言供養為二世安樂也」両脇に造立年月日。右下に八条領之内麦塚村とあり、左下に施主廿八人ときざまれていた。


その隣 題目塔 延宝3(1675)板碑型の石塔の正面「南無妙法蓮華経」個人の墓石らしい。下部両脇に造立年月日。


続いて舟形光背を持つ地蔵菩薩立像。銘は見当たらず、資料にも取り上げられていないため詳細は不明。やはり個人の墓石だろうか。


その奥 百観音供養塔 享和3(1803)角柱型の石塔の正面を彫りくぼめて、その上部に舟形の光背を背に蓮台に立つ美しい聖観音菩薩立像を浮き彫り。


下部には梵字「サ」の下に「奉納百観世音供養塔」両脇に造立年月日が刻まれていた。


その隣 庚申塔 享保7(1722)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。青面金剛の顔はつぶれている。塔の両側面に造立年月日。左側面下部には結衆女三十二人。この辺りでは女人講中が多いのだろうか?


足元にはブルドッグのような面相の邪鬼。その下に小さな三猿が見える。


最後は 庚申塔 明和9(1772)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。比較的きれいな状態を保っている。


跳ね上がった衣装の裾の上にチョコンと二鶏。邪鬼もこの角度から見ると滑稽だ。その下には三猿が彫られていた。塔の右側面「奉造立男女五十人」左側面には造立年月日が刻まれている。

本堂の東側の墓地、本堂の近くの一角に大きな宝塔を中心にして卵塔や五輪塔をはじめ様々な石塔が集められていた。


その中に馬頭観音塔 文化4(1807)駒型の石塔の正面上部に馬頭観音坐像を浮き彫り。その下、中央に「奉供養馬頭觀世音」右脇に江戸 三リ、左脇に そうか 一リ。側面は白カビが多く銘が読み取れなかったが、資料によると、右側面に よし川 一リ、左側面に こしがや 一リと刻まれているという。


蓮台に座る馬口印を結ぶ三面六臂の馬頭観世音。正面頭上にはっきりと馬頭が見える。その三つの顔はどれも忿怒の相を見せず、どこか寂し気な表情をしていた。

 

 女体神社 越谷市川柳町5-282


智泉院の東隣に旧麦塚村の鎮守である女体神社がある。入り口近くに消防団分団の倉庫がたっていて、その裏に割れた石片が無造作に置かれていた。


参道よりに塞神塔が中央付近で割れたまま倒れている。紀年銘は確認できず造立年月日は不明。塔の中央正面に大きな字で「塞神」右下に 草加 江 一り。左下に麦塚村。右側面は未確認だが、資料によると なりたみち かきのきわたし十八丁。左側面には大さかみみち 廿八丁、よし川みち一りと刻まれていた。


参道を進むと左側に池があり、その中の島の中央に祠が立っている。写真左に見えているのは智泉院の本堂になる。


祠の脇に石灯籠供養塔 寛政5(1793)大きな笠付きの角柱型の石塔の正面に「奉納辯財天燈籠講中」弁財天を祀った祠のために石灯籠を寄進したものだろう。右側面に造立年月日。左側面に八条領麦塚村と刻まれていた。

古綾瀬川ほとり 越谷市伊原2-8


古綾瀬川はかつての綾瀬川の本流で、目まぐるしく蛇行を繰り返すその流れを、江戸時代に改修され、日光街道付近の支流を拡張してそちらが本流となった。現在の古綾瀬川は以前と同じように蛇行しながら越谷市と草加市の境を流れ、この伊原2丁目のあたりで一度葛西用水に近づく。この古綾瀬川の左岸のほとり、住宅の前に二基の石塔が並んでいた。左は新しい馬頭観音の文字塔である。現地は現在伊原2丁目であるが、もともと麦塚村だったということで川柳村のほうで一緒に紹介することにした。


右 馬頭観音立像 寛政2(1790)舟形の石塔の正面、梵字「カン」の下に八臂の馬頭観音立像を浮き彫り。頭上にははっきりとした馬頭が見える。足元の部分には當村中と刻まれていた。


塔の右側面に造立年月日。その下に山谷とあるが、麦塚村のすぐ北、古くは東方村に属していたが明治期になって川柳村に含まれるようになった地区である。