天沼新田・吉田の石仏

稲荷神社 川越市天沼新田144[地図]


東武東上線の鶴ヶ島駅南の踏切から100mほど南西に進むと、道路右側に稲荷神社がある。広い境内の右奥には天沼新田自治会館が立っていて、道路に向いた一角に石仏が並んでいた。


左から地蔵菩薩立像 安永7(1778)像は欠損なくきれいで彫りも細かい。角柱型の石塔の上、重厚な敷茄子・蓮台に立つ姿は堂々としていて美しい。


石塔の正面中央「奉造立延命地蔵尊念佛講中」上部両脇に造立年月日。右下に武州高麗郡 天沼村、左下に願主とあり一名の名前。右側面下部には十数名の名前。


塔の左側面の下部には講中 世話人とあり、こちらにも十名ほどの名前が刻まれていた。


その隣 馬頭観音塔 安永7(1778)大きな駒型の石塔の正面に三面六臂の馬頭観音立像を浮き彫り。


頭上の馬頭は明快。三面ともに三眼忿怒相。彫りも細かく丁寧で、このあたりなかなか迫力がある。上の手には矛と法輪を持つ。像の右脇「衆怨悉退散」左脇「福聚海無量」こちらは観音経の一節らしい。


下の手には斧と羂索。左下の部分に講中 上廣谷村中、五味ヶ谷村中、當村中と刻まれている。


塔の右側面に造立年月日。さらに武州高麗郡天沼村。


左側面下部に廣谷前原講中、小堤同所講中、小坂同所講中。こちらの三つの地名はいずれも名細地区のものだった。


続いて 地蔵菩薩立像 明治36(1903)こちらは再建されたものらしく、元のお地蔵さまは江戸時代後期に創建されたのではないだろうか。隅丸角柱型の石塔の正面に合掌型の地蔵菩薩立像を浮き彫り。耳が大きくちょっと変わった顔立ちのお地蔵様。


塔の右側面に造立年月日。左側面には入間郡名細村 大字天沼信者中と刻まれている。名細村(なぐわしむら)について調べてみた。名細村は明治22年町村制施行によって鯨井、上戸、小堤、下小坂、平塚、平塚新田、下広谷、吉田、天沼新田の九ヶ村が合併して「高麗郡名細村」として成立。明治29年に高麗郡が入間郡に編入し、「入間郡名細村」に。その後昭和30年に川越市に編入されて「名細村」は消滅。鯨井以下の旧村名は現在も町名として残っているということらしい。


最後は地蔵菩薩立像。風化が進み舟形光背もその縁がギザギザになっていた。ちょうど型のあたりで断裂したあとがあり、きちんと補修できなかったのだろうか、頭部はとってつけたような形で、まるでしっくりしない。光背右脇に銘があって「地蔵・・・」と読めるが、紀年銘などは見当たらず。詳細は分からなかった。


天沼新田自治会館の手前、塚の上に大きな石塔が立っていた。


馬頭観音塔 明治10(1877)二段の台の上、大きな自然石の正面に「馬頭觀世音」上の台の正面「當□中」下の台の正面には多くの村の名前が刻まれている。


塔の裏面に紀年銘。光線の加減ではっきり見えなかったりするが、明治十はなんとか確認できた。それにしても、これだけ大きな石を切り出してくるのは大変だったろう。

 

天沼新田県道114号線路傍 川越市天沼新田67[地図]


県道114号線を吉田方面から西に向かい、鶴ヶ島市に入る少し手前、道路左側のほどの脇に小堂が立っていた。


七観音塔 文化5(1808)四角い台の上、駒型の石塔の正面に七観音の坐像を浮き彫り。新しい飲料やお花が供えられている。


最上部 ひときわ大きく千手観音。その下、右に馬頭観音、左は如意輪観音、中央は」十一面観音か?


さらにその下に三尊。右は聖観音、中央は准胝観音?左は不空羂索観音か、このあたりの区別は難しい。その下の部分に10名の名前が刻まれていた。


塔の左側面、右に造立年月日。中央に大きく 左 こまミち。左脇に武州高麗郡天沼村。さらに下部に小さな字で数名の名前が刻まれているが、隙間が狭すぎて写真は撮れなかった。


塔の右側面 中央に大きく「奉造立」その下、右に観音講中、左に右 於ごせ道。こちらも下部に小さな字で数名の名前が刻まれている。

萬久院 川越市吉田191[地図]


県道114号線、東洋大学川越キャンパスの南を通り東武東上線の踏切を越えて400mほど西の交差点を左折、しばらく進むと右手に萬久院の入口があった。


入口右脇、小さな石塔の隣に七観音塔 文政2(1819)二段の四角い台の上、重量感のある角柱型の石塔が載る。


石塔の正面、上から千手観音、聖観音、馬頭観音、如意輪観音、十一面観音、不空羂索観音、准胝観音か。彫りは丁寧で細かい。雨除けもないロケーションだが、白カビも少なく、それほど目立つ風化も見られない。


塔の右側面に「奉造立観音講中」両脇に薄い彫りで造立年月日。塔の左側面、武州高麗郡吉田村。


上のほうの台の右側面、助力 惣村中とあり4名の名前、正面に9名、さらに左側面に5名の名前が刻まれていた。


入口左脇、道路近くに馬頭観音塔 宝暦12(1762)四角い台の上、舟形光背に三面六臂の馬頭観音立像を浮き彫り。


頭上の馬頭はくっきり。馬口印を結び、剣、未敷蓮華、斧、羂索を持つ。正面の顔は口をへの字にした忿怒相。光背右脇、上部に「奉造立」続いて造立年月日。下部に講中二十二人。左脇に武州高麗郡川越領吉田村 助力 惣村中と刻まれている。


三面のうち両側面の顔は横を向くタイプで、三面ともに忿怒相。馬頭も立体的で迫力がある。笠幡では三面とも正面向きということが多かったが、このあと名細地区の馬頭観音はどうだろう?

 

吉田俱利伽羅不動尊 川越市吉田1232西[地図]


萬久院から南へ進み、突き当りを右折すると右手に白髭神社の入口がある。その前を通りすぎて少し行くと道路左手、吉田白髭緑地と書かれた標識があって、その脇の階段を降りきった右手に湧き水が出ていた。この水路と階段の間の一角に倶利伽羅不動が立っている。


倶利伽羅不動尊 宝暦9(1759)炎の光背に倶利伽羅龍王を浮き彫り。石塔自体は小型だが、剣に巻き付いた龍王は胴体が厚く迫力がある。彫りも細かく丁寧で美しい。光背右下に造立年月日。続いて吉田村。左下に願主 西光寺と刻まれていた。


こうやって横から見てみると、厚く浮き彫りされた倶利伽羅龍王は今にも動き出しそうだ。

吉田T字路 川越市吉田108[地図]


萬久院の東の住宅街の中のT字路の角に石塔が立っていた。


馬頭観音塔 文政6(1823)小型の舟形光背に一面二臂の馬頭観音像を浮き彫り。塔全体に風化が進み白カビも厚い。


頭上の馬頭はあいまい。馬頭観音の尊顔もはっきりしない。像の右脇に造立年月日。風化のために判読は簡単ではない。


足元にも銘が見えるのだが、残念ながらこちらも読み取ることはできなかった。

坂上地蔵尊 川越市吉田82前[地図]


上の馬頭観音の右の道を東に進むと、突き当りの交差点の角に小堂が立っていて、中には二基の地蔵菩薩塔が並んでいた。


右 地蔵菩薩立像 享保4(1719)丸彫りのお地蔵さまは、厚く着物を着せられていて像容は不明。四角い台の上に台形の敷茄子・蓮台を持つ。


資料では造立年不明となっていたが、敷茄子に紀年銘が刻まれていた。右隅に享保四 □亥□、続いて施主 當村中、左隅に四月吉日と見える。他に銘は確認できなかったが、造立年も古く貴重なお地蔵様だと思う。


その隣 地蔵菩薩立像。こちらは台に銘が見当たらず詳細は不明。像の背面に銘があるのかもしれないが、これだけしっかり着込んでいるとちょっと手が出せない