身代わり不動尊墓地 川口市東川口1-25
東川口駅北にあるロータリーから西に歩いて行くと右手角に二つの墓地がある。
西の方の墓地の奥に二基の庚申塔が並んでいた。
左 庚申塔
宝暦12(1762)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持六臂。白カビが
多く、風化も進み像の一部が細くなっている。下部には邪鬼と三猿を彫る。
塔の右側面
中央に「奉造立庚申」その右に年号。左に戸塚村一本木と刻む。
左側面には上に講中とあり、その下にカタカナで10名の名前が刻まれていた。
たぶん女講中なのだろう。
右 庚申塔
延宝4(1676)板碑型だが最上部に笠状の飾りを施しているのは珍しい。
続いて日月雲。その下に文字などは読み取れない。右脇に年号が薄く見える。
下部に三猿を彫る。その下に菩提という文字が二つ見え、さらに十名程の名前が
刻まれていた。
平沼町会会館前 川口市東川口5-21
東川口駅出口の東の道を北へ歩き一本木坂下交差点を右折する。伝右川を越えて
その先の東川口五丁目交差点を左折。5本目の細い道を右に入ると左手の奥に
平沼町会会館がある。その前は弁天社で入口の左側に石塔が並んでいた。
手前にはまず二基の石祠。左 辨才天
文政2(1819)正面に「邑社 辨才天」と彫る。
右側面に年号。左側面には戸塚村 平沼組中。
右 水天宮 寛政5(1793)右に年号。
左側面には平沼新田
講中と刻まれていた。
その次に詳細不明の石祠があり、さらにその右には地蔵菩薩立像
正徳2(1712)
光背左に年号。右に「六十六部供養」下の方に願主
個人名が刻まれていた。
その奥 庚申塔
天明2(1782)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。
右側面「奉建立庚申」その下に敬白。右脇に平間新田と刻まれている。
左側面には年号。その下に講中。左右で平間新田講中敬白となるのだろうか。
足の下に邪鬼と三猿。邪鬼はふてぶてしく、三猿は女性的な仕草をしている。
妙柳院墓地 川口市東川口6-13
東川口駅から武蔵野線沿いに東に歩き、伝右川を越え綾瀬川に突き当たって
左折すると左手に稲荷神社がある。さらにその先、二本目の路地を左に入ると
左手に小さな妙柳院墓地。その一角に古い石塔が三列に並んでいた。
中央
一番高い所に地蔵菩薩立像 元禄16(1703)宝珠と杖の一部を欠く。
左脇に年号。右脇「念佛供養結衆為二世安樂乃至法界平等利益」輪光背を背に
丸顔のお地蔵様。その厳かな佇まいが印象的だ。
その前に板碑型の庚申塔
寛文8(1668)彫りは薄くなっていて状態は良くない。
中央
梵字の下「奉供養庚申待二世安樂所」右脇に年号。左脇に武州と見えるが
その下の文字ははっきりしない。もっさりとした三猿の下の部分には施主名が
刻まれているようだ。
後ろの列の左から二番目 庚申塔
宝永6(1709)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。
右脇「奉造立庚申供養安樂所」左脇に年号。その下に村名がある。調べてみると
この地域は以前は、一本木、佐藤、平沼の3つの組、村に分かれていたとのこと。
そうやって見るとこれは佐藤村のようだ。上の板碑型のほうの庚申塔の地名も
やはり佐藤村ということだろうか。
ぬらりひょん?のような邪鬼。かなり珍しい形だと思う。その下に三猿を彫り、
さらにその下の部分には十数名の名前が刻まれていた。
西光院 川口市戸塚2-6
東川口駅から南に歩き、戸塚支所交差点を左折するとすぐ左手に西光院がある。
山門を入って左側、六地蔵の小堂の脇に石仏が並んでいた。うち三基が庚申塔。
白衣観音像の右隣。庚申塔
宝永6(1709)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。
左上手に蛇を持つ。光背右脇に「奉造立庚申供養二世安全所」と刻まれていた。
左脇に年号。青面金剛はムッとした顔をしている。
足元に邪鬼と三猿。邪鬼が青面金剛とそっくりな表情をしているのが面白い。
三猿の下には庚申講結衆とあり、平仮名で10名程の名前が刻まれていた。
隣 庚申塔
文政13(1830)正面 日月雲「庚申塔」下の台に三猿が彫られている。
塔の左側面には武州足立郡上戸塚村と刻まれていた。
その右 庚申塔
寛永20(1643)板碑型。中央を彫り窪めた中、全体に彫りが薄い。
日月雲の下、三列に山王二十一仏の梵字を刻み、その間に「奉庚申待供養」と
見える。下部には薄く、十名程の名前が刻まれていた。
東福寺 川口市戸塚4152
東川口駅を出てすぐ目の前の道路を南に15分ほど歩く。戸塚農協交差点を越えて
その先の戸塚体育館バス停付近で右に曲がり坂道を登ったあたりに東福寺がある。
山門の前には一対の金剛力士像が、山門の真下には子育て地蔵尊像が立っていた。
入口中央をふさぐようにして立っているのはあまり見たことがない。
山門の左側 中央に地蔵菩薩坐像、その両脇には六地蔵が立っていた。
六地蔵の銘は確認できないが中央の地蔵菩薩坐像の下の台 享保11(1726)とある。
中央に「奉参詣千地蔵供養佛」その脇には戸塚村下百人立山五十人と刻まれる。
山門を入って右側を見ると、庭木の中、大きな大日如来坐像を中心にいくつかの
観音像・不動明王・地蔵像など、多くの仏像が並んでいた。
山門の右手、塀の前には宝筐印塔の横に地蔵菩薩立像 延宝8(1680)が立っている。
こちらは個人の供養塔のようだ。
山門を入って左側、塀の前には二基の宝筐印塔。奥の方は墓地になっていて
その入口付近には庚申塔などの石塔が並んでいるのが見える。
左から 庚申塔 元禄5(1692)日月雲 中央を深く彫り窪め、その中に青面金剛立像
合掌型六臂。立派な唐破風笠を持つ。足の両脇には薄く二鶏が線刻されていた。
足の下には目を剥いた邪鬼・三猿と続き、その下に十数名の名前が刻まれる。
塔の左側面 年号の下に武藏國下足立郡戸塚村とあり、さらに十数名の名前、
こちらは特に女性の名前が多いようだ。
右側面「奉造立庚申為二世安樂也」こちらもやはり下に十数名の名前が見える。
三面合わせると講中は50名近いことになる。
隣 庚申塔 宝暦11(1761)日月雲 青面金剛立像 六臂。右手に鈴、左手にショケラ。
青面金剛は平らな頭頂部。直角に折れた後ろの二組の腕。川口らしいと言えよう。
ショケラのポーズが妙になまめかしい。これは女人で間違いないだろう。衣装等
彫りは細かい。邪鬼・三猿と続くが、二鶏は見当たらなかった。
塔の左側面に年号。その下には下戸塚村 施主講中と刻まれている。
右側面には上から下までびっしりと、こちらも50名近い名前が刻まれていた。
その奥に庚申塔 天保4(1833)正面 日月雲の下大きく「庚申塔」その左側面には
年号。右側面に「天下泰平國土安穏」下の台はかなり凝った作りになっていて
正面に講中と彫られている。
その下の台、正面を彫り窪めてその中に松の絵をバックに見事な三猿を彫る。
脇には南 江戸道 西 大門道と刻まれていた。
側面は左右とも隣との隙間が狭すぎてまともには読めないが、どちらも数名の
名前が刻まれているようだ。
隣 出羽三山供養塔 寛政12(1800)正面 柔らかいタッチで「月山・湯殿山・羽黒山
供養塔」脇に天下泰平 五穀成就。下の台の正面には講中と刻まれていた。
塔の右側面 羽黒山大先達 大乗院法師廣賢 敬白。左側面には年号に続いて足立郡
戸塚邑と刻まれている。
台の側面は左右ともに講中十数名の名前が刻まれていた。
観音堂墓地 川口市戸塚4020
戸塚の東福寺の西の道を南に下ってゆくとやがてT字路に出る。ここを左折して
少し先の左手の路地に入って行くと墓地の門があった。
墓地に入るとその一角に六地蔵とともに庚申塔などの石塔が並んでいる。
庚申塔
元禄5(1692)板碑型。花立、線香立てを兼ねた台の上に立っている。
彫り窪めた正面には梵字の下「庚申供養二世安樂之所」上部両脇に年号、
下部には下戸塚村と刻まれていた。
その下に20名の名前を刻む。さらに下の台の正面には三猿が彫られていた。
隣
普門品供養塔 嘉永5(1852)下の台の正面に大きく講中と彫られている。
塔の右側面に年号。左側面に武州足立郡戸塚村と刻まれている。
その奥
出羽三山供養塔 嘉永6(1853)正面 月山・湯殿山・羽黒山供養塔と彫る。
その脇に天下泰平
五穀成就。下の台の正面、こちらも大きく「講中」
塔の左側面
年号の横に戸塚村。右側面には羽黒山 大先達 大乗院とあった。
先日東福寺で見た出羽三山供養塔と同じ内容である。
台の両側面には講頭を筆頭に合わせて15名の名前が刻まれていた。
戸塚藤谷公園北東 川口市戸塚東4-11
伝右川の左岸を南に向かい、武蔵野線を越えて歩いて行くと左手に公園がある。
公園の北東、フェンスの前に小堂が立っていた。
馬頭観音菩薩立像 造立年不明
劣化が激しく、像の様子ははっきりしない。
藤兵衛新田町会集会所 川口市藤兵衛新田290
東川口駅から武蔵野線沿いに東に歩き、綾瀬川まで突き当たったら川沿いに
南に下ってゆくと、やがて戸塚綾瀬小学校が見えてくる。学校から西へ向かう
道の右手角に稲荷社があり、その横の町会集会所の脇に石塔が並んでいた。
左から庚申塔
文政3(1820)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持六臂。塔の右側面
藤兵衛新田
女人講中。左側面には年号が彫られ、脇に草加宿の石工名を刻む。
小型の石塔ながら彫りは細かく精巧で、また立体感もある。
青面金剛の足元、邪鬼が足をばたつかせてもがいている。その頭の巻き毛の先まで
丁寧に彫られていた。三猿の間に小さく見えているのは二鶏だろうか。
隣
普門品供養塔 明治3(1870)右側面に年号。左側面に藤兵衛新田観音講中と刻む。
その奥
三界万霊塔 安永8(1779)塔の上 地蔵菩薩坐像。塔の正面に「三界萬霊」と
あり、4名の戒名が刻まれていた。
塔の右側面には「南無阿弥陀佛」脇に「天下和順」「日月清明」と刻まれている。
その下の台のほうに當所講中、続いて江戸浅草田原町講中と刻まれていた。
塔の後ろは空間に余裕がなく写真は撮れなかったが、年号が彫られ、さらに
「六十六部供養」とあった。
塔の上の地蔵菩薩坐像。カビや苔は目立たず、年代を感じさせない状態だ。
隣
地蔵菩薩立像 明和5(1768)光背左に年号。光背右「奉供養地蔵尊」その下に
念佛講中とあり、お地蔵様の足の下の部分には願主名を刻む。
一つ個人の供養塔をはさみ、一番右には疱瘡神石祠
文政10(1827)が立っていた。
右側面に年号。左側面には當所と刻まれている。