中央区八王子

小林家共同墓地 中央区八王子2-9[地図]


新大宮バイパス、与野公園のすぐ北の白鍬通り交差点を左折して西へ進むと、600mほど先の道路右側に墓地があった。近くの信号を挟んで筋向いは、かつて「八王寺庚申堂」あった場所である。


墓地に入るとすぐ左手に小堂があり、中には四基の石塔と小さな板碑が並んでいた。小堂の左脇にもいくつか石塔がみえる。


左から名号塔 明治13(1880)四角い台の上の角柱型の石塔の正面「南無阿弥陀佛」下部に蓮華が彫られていた。塔の右側面に造立年月日。左側面には武蔵國大泊安國寺二拾五世 發起 宿村観音寺拾六世 碩譽。安国寺は越谷にある浄土宗寺院。観音寺は桜区宿にある浄土宗寺院。いずれも江戸時代は御朱印を拝領した古寺である。


その隣 地蔵菩薩立像 弘化4(1847)四角い台の上の角柱型の石塔の上、丸彫りのお地蔵様は錫杖の先を欠く。


石塔の正面に「老觀行者念佛万人」銘の意味はよく分からないが、念仏供養のための造立ということだろうか。


右側面中央に、興立主日昌。右脇に武州足立郡八王寺村、左脇に造立年月日。


左側面に同 講中志願とあり、小林氏、稲葉氏ふたつの名前が刻まれていた。


続いて念佛供養塔 明和5(1768)四角い台の上の角柱型の石塔の上に丸彫りの地蔵菩薩立像。よく見ると蓮台から上と敷茄子以下の石の色が違い、また蓮台右前に再興主日昌とある。隣の地蔵塔と同じ名前が刻まれていて、敷茄子以下が明和5年創建の時から残った部分、蓮台と地蔵菩薩像は弘化年間に補修されたものだろう。


塔の正面中央「南無阿弥陀佛」両脇に造立年月日。


右側面に武州足立郡植田谷領八王寺村。


左側面 講中 十六家、願主 小林氏二名の名前が刻まれていた。


右端 観世音菩薩塔 寛政8(1796)四角い台の上に反り花付きの台を重ね、その上に蓮台付きの角柱型の石塔、正面に大きく「南無觀世音菩薩」


塔の右側面に造立年月日。左側面にこちらも大きく「奉讀誦普門品供養塔」


反花付き台の右側面奥に八王寺村 普門品講中とあり、ぐるりと三面合わせて32名、左側面の一番奥には世話人の名前が刻まれていた。


小堂の左脇にも多くの石塔が並んでいた。右端から丸彫りの地蔵菩薩塔。明は見当たらず造立年など詳細不明。続く四基は馬頭観音の文字塔。明治・大正の紀年銘と個人名が刻まれている。


さらにブロック塀の前に、多くの角柱型の石塔の残欠が並ぶ。いずれも銘は確認できずその詳細はわからなかった。

 

八王寺公園東墓地 中央区八王子4-8[地図]


白鍬通りの小林家共同墓地の真向かいにある道を南に進むと、150mほど先の道路左手に墓地があった。白鍬通りから南へ進む道はすぐ近くに三本あって迷いそうになるが、その中でもっとも細い道になる。

入口右脇のブロック塀の前 地蔵菩薩立像 宝永2(1705)六角形の反花付き台に分厚い敷茄子、その上に重厚な蓮台に立つ丸彫りの地蔵菩薩像。全体に薄く白カビがこびりつく。


六角の台の正面 右から 供養一結衆 八王子村 善男善女。


その左隣の面に「大菩薩」さらに次の面に造立年月日。脇に本願□□沙門。その上の敷茄子に「□□立地蔵」と銘が刻まれているが、敷茄子と台の間につないだ跡があり、その際に位置がずれたのか、下の台の銘と合わせて「奉造立地蔵大菩薩」だろう。

八王寺三丁目アパート駐車場 中央区八王子3-15[地図]


新大宮バイパスから白鍬通りにはいって二つ目の信号交差点を左折、南へ350mほど進むと、交差点左手のアパートの前の駐車場の隅に小堂が立っていた。


小堂の中 庚申塔 享保13(1728)唐破風笠付き角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。


塔上部に「青面金剛」と刻まれるのは珍しい。頭上にうずたかく蛇がとぐろを巻く。持物は三叉戟・法輪・鏑矢・弓。


足元にどんぐりまなこの大きな邪鬼が横たわり、その下に三猿。両脇の猿は内を向き、片手に蓮の花?を持っていた。


台の正面前には立派な線香立てが設置されていて、銘の全体を取ることはできなかったが、上のほうに講中とあり、下に多くの名前が刻まれている。


台の正面に18名、左側面には6名、なぜか右側面には銘が無く講中24名になる。


塔の左側面に造立年月日。右側面には八王寺邑と刻まれていた。

浅間神社北交差点 中央区八王子1-7[地図]


新大宮バイパスから白鍬通りに入ってすぐ先の信号交差点を右折、しばらく行くと右手に浅間神社があり、その北の信号交差点の角、老人ホームの敷地の入口の植え込みの中に「この奥不動明王様 ご自由に参拝ください」という案内の看板が立っていた。


こちらは明治初年に廃寺になった足立百不動尊第六十番東覚院の跡地らしい。案内に従って奥に行くと不動明王と石塔、さらに奥に板碑が祀られている。


不動明王坐像 造立年不明。大きな火焔の光背に忿怒相の不動明王。台はなく磐座に座る。脇に立っている解説板によると、東覚院火難の際ご本尊に火焔が迫ったが急に火勢が変わり難を免れた。その際この不動明王はその両腕を失ったという。銘は見当たらず詳細は不明だが、彫りは細かく丁寧で像は力強くダイナミック。像容から考えると江戸時代後期の作品だろうか。


左奥に護摩二千座供養塔。角柱型の石塔の正面 「奉修 護摩二千座成就攸 護摩二千座供養塔」右脇に享保5(1720)の紀年銘と行者 寛清第五世。左脇に寛政8(1796)の紀年銘と行者 寛舩第八世。享保5年に東覚院第五世が護摩修行二千回をやり遂げ、76年後同じく第八世が護摩修行二千回成就、記念にこの供養塔を造立したということか。もしかしたら、石塔の上に不動明王像が乗っていた可能性も考えられると思う。
 

塔の右側面 開眼道師中尾山大先達玉林院。玉林院は足立百不動第1番、明治4年に廃寺になった緑区中尾の玉林院のことだろうか。10年ほど前にその歴代住職の墓地で延宝3年の美しい華見堂地蔵を見た記憶がある。


左側面上部に大きく村々施主、その下に荒川左岸の北は並木村、側海斗村から南は西堀村、田嶋村まで、また荒川右岸の下内間木、南畑檀中まで、合わせて22の村の名前が刻まれていた。幕末当時の不動尊信仰の広がりを示すものと言えるだろう。