岩槻区尾ヶ崎

勝軍寺 岩槻区尾ヶ崎1844


県道214号線の笹久保交差点から南に進み、道なりに大きく右へカーブするあたり、カーブを曲がるとすぐ右手に地蔵堂の墓地があったが、そのカーブのところからやや狭い道をそのまま直進して500mほど行くと、左手に八幡神社と勝軍寺があった。勝軍寺の入口から本堂へ向かう参道の左側、墓地の前に数基の石塔が並んでいる。


左から阿弥陀三尊像 延宝6(1678)大型の舟形光背に阿弥陀如来坐像と聖観音菩薩と勢至菩薩の立像を浮き彫り。均整の取れた構図。塔全体に目立った風化もなく美しい。


光背右脇に権大僧都法印□□霊位。左脇に造立年月日。高僧の墓石のようだ。


その隣 地蔵菩薩坐像。像、台ともに銘は見当たらなかった。首がもげたものらしく補修されているが、なんとなくしっくりしない。


続いて 光明真言供養塔 宝永2(1705)塔の左上を欠く。上部に梵字で光明真言をあらわす。


中央に「奉読誦?光明真言三百万遍為滅罪生善也」両脇に造立年月日。下部両脇に乃至法界・平等利益と刻まれていた。


その隣 庚申塔 享保8(1723)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。風化が著しく白カビも目立つ。邪鬼は正面向きM字型。両脇に二鶏を薄く線刻。その下の三猿も正面向き。


後の二組の腕、下の手には弓矢だが上の手の持物がはっきりしない。左手はショケラか?光背両脇に造立年月日。右下に尾ヶ崎村、左下に施主六人と刻まれていた。


その隣に庚申塔 元禄5(1692)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。古いわりには美しい状態を保っている。足の下に邪鬼、二鶏の姿は無く、正面向きの三猿だけが彫られていた。


三眼の青面金剛が首にかけているのはドクロの首輪だろうか?光背両脇に造立年月日。左下に尾ヶ崎村 施主、右下に都合十九人と刻まれている。


続いて笠付j角柱型の庚申塔 明和5(1768)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。大きな笠のおかげだろう、カビなども見られず細部までとても美しい。


足の両脇に二鶏。邪鬼は大きな猿のような恰好で正面をにらみつけ、その下のかわいい三猿を守るボス猿のようなポーズをとっている。


塔の右側面に造立年月日。左側面には尾ヶ崎村施主講中廿八人と刻まれていた。



参道左側の九基の石仏群、右から3番目 庚申塔 宝永3(1706)舟形の光背に日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。


頭上に蛇の頭がのぞく。光背右「奉造立庚申供養為二世安樂」左脇に造立年月日。その下に施主八人と刻まれていた。


足下に丸みのある正面向きの邪鬼。M字に腕を張りキッとにらみつけている。その下に三猿。両脇に二鶏が線刻されている。


その隣 庚申塔 天明6(1786)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。駒形の石塔だが、正面に浮き彫りされた像は比較的小さく、一見してバランスが悪い印象を受ける。


石の材質もあまりよくないためか、像の様子も今一つはっきりしない。


邪鬼、三猿とも彫りはおおざっぱで貧弱な印象は否めない。


塔の右側面に造立年月日。左側面中央、是よりいわつき道 一里五丁。右脇に尾ヶ崎村願主一名の名前。左下に講中二十一人と刻まれていた。


右端 阿弥陀如来立像 元禄12(1699)舟形の光背の上のほうに断裂跡が見える。塔全体にびっしりと白カビがおおい尽していた。


光背右「奉造立阿弥陀如来像為念佛供養二世安樂也」左脇に造立年月日。その下に施主都合八拾五人と刻まれている。


本堂近く、やはり参道の左側に六地蔵と宝篋印塔ときれいな石地蔵が並んでいた。六地蔵は比較的新しい。その隣 地蔵菩薩立像 元禄5(1692)舟形の光背に地蔵菩薩立像を浮き彫り。


光背上部に梵字「カ」右脇「奉造立為地蔵菩薩像一躯念佛供養二世安樂也」左脇に造立年月日。その下に尾ヶ崎村施主都合六十五人と刻まれていた。


最後に宝篋印塔 安永9(1780)屋根式の笠と三段の基壇を持つ。



塔身部四面に梵字。基礎の正面中央「奉造立宝篋印塔一基」その両脇に造立年月日が刻まれている

 

光秀寺 岩槻区尾ヶ崎888


県道214号線を笹久保方面から南に進み、岩槻和土郵便局を過ぎ長い下り坂を降りきったあたり、小さな川にかかった橋の前の川沿いの道を左折すると、左手に光秀寺の山門があった。


境内は禅宗のお寺らしく、しっくりと穏やかな雰囲気。山門を入ってすぐ、参道の右側に石塔が並んでいる。


小堂の中 不動明王坐像 享保7(1722)下の台の正面「三界萬霊等」両脇に願文。側面は写真はうまく撮れなかったが、右側面に造立年月日、左側面に施主 尾ヶ崎新田村とあり個人名が刻まれていた。


その隣 庚申塔 元禄2(1689)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。


口をへの字に結んで厳しい顔をした青面金剛。静かな立ち姿だが不思議な風格が漂う。光背両脇には造立年月日。


足下には素朴な邪鬼と三猿。三猿の下の部分に施主として八名の名前が刻まれている。

続いて地蔵菩薩立像。紀年銘は見当たらない。像の背面とか下の台の裏面に刻まれているのだろうか?全体に白カビが多い。首にセメントで補修した跡があり、錫杖の先も欠けている。


台の正面に四名の戒名。左側面には施主とあるがその先は生垣の枝に隠れてこれも確認はできなかった。


左端 光明真言供養塔 明和元年(1764)唐破風笠付きの角柱型の石塔の正面、上部にキリッとした地蔵菩薩坐像を浮き彫り。その下、中央に「奉念誦光明真言一百万遍供養塔」両脇に造立年月日。その下に戒名が五つほど見える。


両側面には合わせて十数名の戒名。最後に一切精霊等と刻まれていた。


さらに参道を進むと、本堂の手前、左手にお堂があり、その前に石塔が立っていた。このお堂の先から左奥に大きな墓地がひろがっている。


六十六部供養塔 正徳6(1716)駒形の石塔の正面「奉納六十六部願滿塔」


塔の右側面、上部に天下泰平。その下に「有縁無縁三界萬霊」さらに「六親眷属七世父母」続いて二つの戒名と尾ヶ崎村、俗名が刻まれている。左側面は上部に國土安穏。その下に造立年月日。さらに助化とあり、野嶋村、村国村、市宿町などから六名の戒名。最後に武州埼玉郡尾ヶ崎村願主とあり、一名の俗名が刻まれていた。


お堂の中 大きな舟形の光背、梵字「カ」の下に美しい地蔵菩薩立像。堂の扉の隙間からレンズを向けて撮ってみた。光背右に「奉参詣百堂順礼各願成就所」その下はうまく読めない。光背左「為□□地蔵菩薩・・・」こちらも下部がうまく読めない。どちらかに紀年銘があるのだろう。残念ながら確認できないままなのだが、光背の形は寛文・元禄期あたりの石仏の光背に特徴的な反りのあるきれいなもので、江戸時代初期の造立と思われるのだがどうだろうか?




本堂の左側、西一帯に墓地がひろがっている。入口付近に無縁仏が整然と並べられ、写真左の木の裏あたりに古い石仏が集められていた。


 無縁仏と向かい合う位置には新しい六地蔵菩薩立像が墓参の人びとを出迎える。


無縁仏の先の一角に二組の六地蔵など、古い石塔が集まっていた。奥は歴代住職の墓地で多くの卵塔が並んでいる。


前後に二組の丸彫りの六地蔵菩薩立像。前の六地蔵のうち四体は頭部などを欠き、二体だけが損傷を免れている。


右端、膝の上から断裂、左下に欠け落ちた部分が残っているが、さらにその首ももげていた。下の台の中央に尾ヶ崎邑、右脇に享保7年(1722)の紀年銘、左脇に「念佛講中」


二番目の台には嘉永2年(1848)の紀年銘があり、中央に「地蔵再建組中」創建100年後に補修されたものだろう。残りの四つの台には世話人、施主などの名前が刻まれていた。


後の六地蔵はややサイズが大きい。右から二番目だけは首がもげて下に落ちているが、残りはきれいな形で残っている。


六体の背中には同じ銘、「施主」の下、右に宝永2年(1705)の紀年銘、左に尾ヶ崎村念佛講中と刻まれていた。


前列の六地蔵の右脇に小さな庚申塔 享保10(1725)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。彫りはしっかりしている。光背両脇に造立年月日。左下に尾ヶ崎村 施主廿二人と刻まれていた。


足下にM字型正面向き、つり目の邪鬼。その下をのぞき込むと、そこには消え入りそうにかわいらしい三猿。両脇に薄く二鶏も見える。


六地蔵の左脇に六十六部供養塔 享保7(1722)造立年は前列の六地蔵と同じで上の庚申塔とも近い。唐破風笠付の角柱型の石塔の正面を彫り窪めた中、上部に阿弥陀如来坐像を浮き彫り。その下に大きく「六十六部塔」両脇に造立年月日。


塔の左側面に八名の戒名。右側面中央「有縁無縁三界萬霊」右脇に願主名、左脇に助化 六百拾四人と刻まれていた。


その隣 廻国供養塔 正徳4(1714)白カビが多く文字は判読しにくい。


正面中央「奉納大乗妙典六十六部日本廻國供養塔」右脇に「南無大悲觀世音菩薩」左脇に「南無大地蔵願主菩薩」塔の右側面に造立年月日。左側面には武州崎玉郡尾ヶ崎村、願主 一名の名前が刻まれていた。

古い石塔群の奥が一般の墓地になる。その入り口にポツンと石地蔵が立っていた。光背の一部はカビのためにかなり白い。


地蔵菩薩立像 享保5(1720)輪光背を頂き涼しげな表情のお地蔵様。光背右脇「奉供養念佛講中二拾五□」その下に尾ヶ崎村内谷下。左脇には造立年月日が刻まれていた。

 

尾ヶ崎観音堂 岩槻区尾ヶ崎1074東


光秀寺の前から小川沿いの道を東に進み、次の交差点で左に入るとすぐ右手、高い所に観音堂がある。狭い階段を登りきった右側に二基の庚申塔が並んでいた。


右 庚申塔 宝永4(1707)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。足下の邪鬼は頭だけが見えていて今までに見たことのない面白い形。ちょっととぼけた味わいがある。その下の三猿は塔自体が深く埋まっているために半分は土の中。二鶏は見当たらない。


塔の左側面、狭い所に造立年月日。その下、為・・・・二世安樂と続くはず?


右側面「奉納庚申供養施」までしか見えないが、資料によると施主六人と刻まれているらしい。


左 庚申塔 享保11(1726)唐破風笠付きの角柱型の石塔の正面、花びらの形に彫り窪めて、外に日月雲。中に青面金剛立像 合掌型六臂。上の左手にショケラを掲げている。


足の両脇に二鶏。足下に正面向き両腕を張った邪鬼。その下の別室に正面向きの三猿。シンメトリックな構図。


塔の左側面に造立年月日。下部に尾ヶ崎村施主とあり、その下に男七人 女十四人。


右側面には「奉供養庚申尊像」と刻まれていた。


階段の反対側は空き地になっていて、その片隅に「子育て地蔵尊」と書かれた小堂が立っている。


地蔵菩薩立像。銘が見当たらず詳細不明。小堂と比べるとはるかに新しい印象。近年再建されたものと思われる。

八幡社 岩槻区尾ヶ崎711付近


光秀寺から小川沿いに西に向かい、県道214号線を越えて100mほど歩くと、右手の畑の先に小さな八幡社の鳥居が見えてくる。鳥居の右脇に庚申塔が立っていた。


庚申塔 宝永5(1708)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。上左手にショケラ。経年のため表面は劣化しているが銘はなんとか読める。光背右脇に「奉造立庚申像一尊為二世安樂也」左脇に造立年月日。右下に尾ヶ崎村、左下に施主同行七人。


足下に正面向きの邪鬼と三猿。三猿の両脇に二鶏が線刻されていた。