小仙波町・仙波町・富士見町・菅原町の石仏

喜多院斉霊院墓地 川越市小仙波町1-10[地図]


県道15号線 喜多院入口交差点を南に入って、喜多院の山門前、日枝神社のある角を左折してすぐ、道路右手に喜多院斉霊院がある。道路に向かって立つ壮麗な斉霊院の裏に広い墓地がひろがっていた。


墓地の入口あたりに立派な石塔が並んでいる。笠付き角柱型の二基の石塔は個人の家の墓石。その奥に六地蔵の小堂が立っていた。


六地蔵菩薩立像 安永4(1775)六体の地蔵塔を並べた六地蔵塔は意外と新しいものが多く、詳しく調べてはいないが、明和、安永あたりが始まりではないだろうか。初期の六地蔵塔は六面石幢か一石に六体の地蔵像を浮き彫りにしたものが多い。


蓮台の下、石塔の正面に「念佛講中」右側面に造立年月日。左側面に武刕入間郡小仙波村と刻まれていた。

その奥に聖観音菩薩立像 元禄12(1699)舟形光背に蓮を左手に持ち右手与願印の聖観音立像を浮き彫り。光背右脇に僧侶の戒名、左脇の紀年銘は命日だろうから、実際の造立はそれ以後と思われる。


さらに奥に進んでゆくと、左側に大型の石塔が並ぶ一角があった。


手前に聖観音菩薩立像 享保13(1728)大きな舟形光背に静かな表情の聖観音像を浮き彫り。右脇に紀年銘。左脇に僧侶の戒名。こちらも高僧の墓石と思われる。



脇に立つ教育委員会の解説板によると、ここは川越藩家老を務めた小笠原家の墓地ということだった。解説板の右脇の墓石の後ろに庚申塔が立っている。


庚申塔 文化8(1811)角柱型の石塔の正面に「庚申塔」右側面に造立年月日。左側面に刻まれた銘を見ると、個人の為に建立されたものらしい。


墓地の真ん中あたり、水屋と新しい納骨堂の裏に石仏が集められていた。


南向きに立つ石仏の右端 庚申塔 延宝9(1681)駒型の三猿塔。下部に彫られた正面向きの三猿がぬいぐるみのように可愛らしい。


石塔の正面を彫りくぼめた中、梵字「アーンク」の下に「奉講演庚申三年拾八度成就也」この『講演庚申』というのは初めて見る。右脇に造立年月日。下のほうに「敬白」左脇「因慈爲利石塔一基建立二世安樂記」石塔の表面には白カビが多く、資料を参考にしてなんとか読み取ることができた。塔の両側面、下部に合わせて7名の名前が刻まれている。


納骨堂のあたりからさらに南へ進むと、雨除けの下に大きな丸彫りの石地蔵が北向きに立っていた。


地蔵菩薩立像 延宝7(1679)古仏だが風化の様子もなく美しい状態を保っている。蓮台に堂々と立つお地蔵様。頭部が細長く独特のフォルム。


背面に銘が刻まれていた。右側に造立年月日。中央、武州仙波喜多院三十世権大僧正慈海宋順建立焉。「権大僧都」はいろいろなところでよく見かけるが「権大僧正」はめったに見られない。さすが喜多院と言うべきだろう。

資料「川越の石佛」によると寛永年間に念仏講中によって造立された地蔵菩薩塔があるらしい。墓地が広いうえに、古い石仏が数多くあり、なかなかうまく見つからない。市内最古の地蔵菩薩塔ということなので、また折を見て再チャレンジしてみたい。

 

喜多院門前通り五差路 川越市小仙波町3-13[地図]


喜多院の山門の前からまっすぐ東へ喜多院門前通りを進み、坂を降りきった先の五差路信号交差点の角に石塔が立っていた。写真右に写っている道は、県道113号線で南古谷から東大久保へ向かう道で、この交差点は交通量が多く取材時は周りに注意が必要だ。


普門品供養塔 嘉永2(1849)二段の台の上、角柱型の石塔の正面に馬頭観音を表す梵字「カン」の下に「觀世音」続けて馬頭観世音と読むべきだろう。上の台の正面に「普門品 十萬巻 供養塔」と刻まれていて、普門品供養塔として造立されたものと考えられる。


側面を見ると、この時代の石塔らしく道標が刻まれていた。左側面は彫りが薄く読みにくいが、上のほうに左とあり、老袋舟渡、与の、於々宮 道。


右側面には上のほうに右とあり、奥のほうから飯田舟渡、ひき又、わらび 道。両側面合わせて六地名、立派な道標となっていて、江戸時代後期における交通の発達、特に二つの渡しが含まれることから舟運が盛んなことがうかがえる。


上のほうの台の両側面に寄進とあり多くの村の名前が刻まれていた。手前から坂下邑?、伊佐沼邑、八ツ嶋邑、古谷上邑・・・奥はさつきの枝の為に確認できない。


右側面には大仙波邑、高嶋邑、大中居邑、小中居邑・・・普門品供養塔であり、馬頭観音塔であり、道標でもあったこの石塔の造立には、近隣の村々の多くの人たちの協力があったようだ。

 

長徳寺 川越市仙波町3-31[地図]


国道16号線と新河岸川が交差するあたり、川沿いの道から西に入り坂道を登ってゆくと、右手に「川越観音」長徳寺があった。その敷地の東端に大きな観音堂が立っている。


踊り場の床の下、道路に向かってコンクリートの壁に三つの窓が設けられ、その中に石塔が並んでいた。


左の窓から見える二基の馬頭観音塔。右の文字塔は昭和29年に製菓会社が建立したものである。


左 馬頭観音立像 享和元年(1801)駒型の石塔の正面に二臂の馬頭観音像を浮彫り。像の両脇に造立年月日。足元の部分に願主 大仙波とあり個人名が刻まれていた。


石塔の輪郭が凸凹になるほど風化が進む。像も傷が多く顔がはっきりしないが忿怒相だろうか?銘と頭上の馬頭はかろうじて確認できる。馬頭観音独特のふっくらとした「馬口印」を結んでいた。


中央の窓の中 馬頭観音塔 貞享5(1688)上部に唐破風笠を模した装飾を施した石塔の正面に六臂の馬頭観音立像を浮き彫り。資料「川越の石佛」では、川越市内最古の馬頭観音塔として南大塚の三差路にある寛保2年(1742)の三面八臂の像塔を紹介していたが、こちらはその50年以上前の造立。これが川越市内最古の馬頭観音塔だろうか?(来月紹介できると思うが、今福の明見院の墓地に元文2年(1737)建立の六臂の馬頭観音像塔が確認できる。)


三眼忿怒相の馬頭観音。頭上の馬頭は小さく、青面金剛の頭上によくみられる蛇に似ている。右手に鈷杵?左手に鈴を持つ。その左手の上の部分に「奉造立馬頭観音尊像一躰」右手の上の部分「當馬道畜生道若現當悉地所」こちらはあまり見ない銘文である。


下の手には弓矢。左手の下の部分に造立年月日。左手の下の部分に施主とあり、個人名が刻まれていた。この時代にこれだけの本格的な像塔が個人の造立とは意外だ。


右の窓の中 庚申塔 享保2(1717)石祠の中に小さな菱形の石塔。そこに刻まれた文字が、どこをどう調べてみても読めなかった。TATSUさんのブログ「東京の庚申塔」によると「サムハラ」と読み、どうやら神様らしい。どうやって調べたのだろう?これまで江戸時代初期の庚申塔で地蔵菩薩を主尊とする「地蔵庚申塔」は結構多く見てきた。珍しいところでは不動明王、薬師如来を主尊とする庚申塔(岩槻区馬込の満蔵寺)、三猿つながり?で、山王信仰との習合、猿田彦大神の庚申塔など、江戸時代初期には多種の庚申塔が見られるが、「サムハラ」神を主尊とする庚申塔というのは・・・これ以外にどこかにあるのだろうか?石祠の下の台の正面には摩耗して表面が丸みを帯びた三猿が彫られている。


祠の左側面。文字は読みやすくはっきりしているのだが、なにがなんだかさっぱりわからない。「サムハラ」に関係した銘だろうか?


右側面 當國入間郡大仙波村 講中 三十九人。


裏面中央「奉造立庚申塔」両脇に造立年月日が刻まれていた。

 

仙波河岸史跡公園 川越市富士見町33[地図]


東武東上線川越駅の東、国道16号線のすぐ南の愛宕神社の崖下に広がる仙波河岸史跡公園。入口から進むと右側に石祠と石塔が立っていた。


倶利伽羅不動尊像。炎を表す火焔光背に倶利伽羅不動尊像を浮き彫り。紀年銘は確認できず造立年月日は不明。


太い眉毛とドングリまなこ。倶利伽羅不動尊らしい迫力のある表現。うろこの一枚一枚、指の爪の先まで彫りは細かい。


光背左下、六□町 志多町□□中 十二人。その下に10名の名前が刻まれていた。さらに宝剣の柄の部分にも志多町 鈴木□□と見える。世話人だろうか?


倶利伽羅不動の先が愛宕神社の入口で、階段を登りきると、左 愛宕神社、右 延命地蔵尊と案内があった。


「延命地蔵尊」と書かれた看板の向こう、高い石塔に地蔵菩薩坐像。右脇の小堂の中にも石仏が祀られていた。あたりは薄暗く写真はピントが合わせにくい。


延命地蔵尊 元文元年(1736)いくつも台を重ねた上に角柱型の石塔、その上に丸彫りの地蔵菩薩坐像。全部で3mは越えるだろう。


左足を立てて座るお地蔵様。顔は削られているのかはっきりしない。


石塔の正面 上部に円が彫られ中には梵字だろうか、彫りが薄くてよくわからない。その下に「奉造立延命地蔵尊・・・」で始まる長い願文。


下の台の正面は、その表面が荒れている上に銘も薄くほとんど読めないが、左のほうに邑中、講中などと見えて、これだけの石塔の造立となると、多くの人たちの協力が必要だったのではないかと思われる。


塔の右側面も願文。左側面に造立年月日が刻まれていた。


右脇の小堂の中 不動明王立像。炎が線刻された光背に右手に剣、左手に羂索を持った不動明王を浮き彫り。光背は風化が著しくあちこちが欠けている。光背右脇「奉造立不動尊像一躯」左脇に造立年月日だが、肝心の年号が欠けていて造立年は分からなかった

 

妙善寺 川越市菅原町9[地図]


川越駅東口から100mほど東南にある妙善寺の入口の向い側の一角に石仏がくの字に並んでいた。右側に北向きに六地蔵を始め地蔵菩薩塔が、左側には多くの墓石が西向きに並んでいる。


右から六地蔵菩薩立像。像、蓮台、台ともに揃っているが、銘が見つからず詳細は不明。円形の頭光背を負い口元に微笑みを浮かべてたたずんでいるが、なぜか右から2番目のお地蔵さまだけは頭部がひどく破損していて補修もされていなかった。


その隣 地蔵菩薩立像。真四角の台の上に舟形光背に浮き彫りされた地蔵菩薩立像が載っている。光背右脇に三界萬霊、左脇に平等利益。台の正面には薄く銘が見えるが白カビが厚く読み取ることはできなかった。


台の右側面に武州入間郡河越領・・・・左側面、表面が荒れていてここも読みにくいが「四」・・・天とあり、ここに紀年銘がありそうだ。ライトを当てたりして見てみたが、天の上は「卯」ではないだろうか。「四」の少し上に「貝」のような字も見える。江戸時代の年号で4年卯年を調べると寛永4(1627)慶安4(1651)貞享4(1687)延享4(1747)文化4(1807)があった。上の文字から考えると貞享4(1687)が有力か?四年卯天が正しいとしたらではあるが・・・


続いて地蔵菩薩立像 享保12(1727)四角い台の上、敷茄子・蓮台に大きな丸彫りの地蔵菩薩像。


台形の敷茄子の正面 中央に「念佛講中」その右に爲法界、左に同行十二人。両脇に造立年月日が刻まれていた。


地蔵菩薩塔群の左端 地蔵菩薩立像 承応2(1653)舟形光背型だが、これも大きな四角い台の上に乗る。台は無銘。風化が進み銘も薄くなって読み取りにくかった。


舟形光背に浮き彫りされた円形の頭光背をもつ地蔵菩薩像。顔は削り取られたのかのっぺらぼうで、右手に持った錫杖は、その先だけを残し柄が欠けている。光背右上にかろうじて「承応二」左上に武州待□□□十二人。光背下部両脇にも文字が見えるのだが、人名だろうか、何回かトライしたがどうしても読み取ることができなかった。いずれにしても墓石ではない。川越市内で最も古い時期の地蔵塔であり、貴重な石仏だと思う。


西向きに板碑型や文字塔、像塔など様々な種類の石塔が二列に並んでいる。その多くは墓石だったが、右端のほうには大正13年造立の馬頭観音の文字塔などもあった。


後列の左から3番目 聖観音菩薩立像 元禄6(1693)前の石仏の陰になり石塔全体を写すことは難しい。舟形光背に右手に蓮を持ち左手与願印の聖観音像を浮き彫り。カビが多いが銘の部分はしっかり残っていた。光背右脇に「念佛供養也」左脇に造立年月日。


足元、前出の部分の正面に講中の人たちの名前が刻まれている。