増森・中島の石仏

 

宝正院 越谷市増森1680


増林の東、蛇行する古利根川と新方川に囲まれた増森地区。その北部、古利根川の近くに宝正院がある。入り口の左側に六地蔵の祀られた小堂が立っていた。


六地蔵菩薩立像 天保4(1833)楕円形の光背。六地蔵の像容はほぼそろっている。ひとつながりの横長の台の正面に「三界萬霊」右端に造立年が刻まれていた。


本堂の左の広い墓地の端、焼却炉の先に大きな堂が立っている。資料によるとこちらが旧参道の入り口だったという。


地蔵菩薩立像 宝暦6(1756)堂々とした丸彫りの地蔵像。台も含めて2mを優に超す。頭は屋根を突き抜けて吹き抜けの部分に納まっていた。


台の正面「三界萬霊」右側面に造立年月日。


左側面には當村念佛講中欽言と刻まれている。

内田稲荷 越谷市増森1475



宝正院の裏の道を東に向かうと古利根川の土手に突き当たるが、その少し手前の左側の角に稲荷社があった。写真の右前方に古利根川の土手が見えている。


鳥居の左脇 庚申塔 寛文7(1667)江戸時代初期の板碑型庚申塔。寛文期の地蔵菩薩、観音菩薩、阿弥陀如来などの像塔はとても美しいものが多いが、この時期の庚申塔は青面金剛の像塔はまだ現れず、板碑型の文字塔(下部に三猿を彫るものもある)が多い。カビなどのために銘は極めて読みにくい。上部に十一面観音を表す梵字「キャ」その下に「奉造立庚申講結衆所願成□攸」両脇に造立年月日。最下部に施主欽白と刻まれていた。

越谷市消防団増林分団第七部前 越谷市増森1657


宝正院の近く、南に入る道の路傍、消防小屋の前に低い小堂が立っている。


小堂の中 大日如来坐像 寛文3(1663)資料によると「大日様」と呼ばれているという。印相が今一つはっきりしないが、法界定印を結ぶ胎蔵界大日如来だろうか。像の左に造立年月日。右脇に「文長法師」と刻まれていた。

増森神社 越谷市増森1892


県道102号線と現在一部が開通供用されている東埼玉道路の交差点付近にある増森神社。長い参道の左脇に二基の石塔が並んでいる。右は独立記念植樹と刻まれた記念碑だった。


左 庚申塔 文化13(1816)角柱型の石塔の正面 日月雲「庚申塔」両脇に造立年月日。下部に8名の名前。塔の左側面 北 増林道。こちらも下部に8名の名前が刻まれている。


塔の右側面 南 吉川道。脇に増森村三町野組とあり、その下に世話人二人の名前。裏面には此方 みちなし と刻まれていた。三町野はこのあたりの字名。「みちなし」と刻まれた道標は珍しい。

 

増森公民館 越谷市増森1775


宝正院の前の道を西に向かい道なりに進むとやがて県道102号線に出るが、その200mほど手前、道路左側に増森公民館がある。その前は広場になっていて敷地の縁沿いに数多くの石塔が並んでいた。


道路側の祠の中には、県の指定文化財「二十一仏板碑」天正3(1575)扉はしっかりカギがかかっていて開かないため全体を写すことはできなかった。


格子の隙間から写す。塔身部上部に日月と天蓋を刻み、その下、蓮座の上、月輪に虚空蔵菩薩の梵字「タラーク」続いて他の20仏を表す梵字を四列に配している。このような21仏板碑は越谷市をはじめ県南東部に多く見られるものらしい。


祠の左脇に大小五基の石塔が並ぶ。うち四基は個人の墓石だった。


左端 地蔵菩薩立像 延宝3(1675)塔全体が白カビにまみれている。光背左脇に造立年月日。右脇に「三界萬霊有縁無縁乃至法界平等利益」と刻まれていた。


東側にも数基の石塔が並んでいる。こちらは後ろから光が差し込むためかなり光線の状況が悪く撮影が難しい。


右から 馬頭観音塔 天保12(1841)棕櫚の木の陰になっている。駒型の石塔の正面「馬頭觀世音」


塔の右側面に造立年月日。左側面には施主3名の名前が刻まれていた。


2番目 庚申塔 万治2(1659)唐破風笠付角柱型の文字庚申塔。江戸時代初期の庚申塔というと寛文、延宝期あたりから板碑型の文字塔が出てくるが、このような笠付角柱型の大型のものはまれで、しかも寛文期前の万治年間の造立ということになると、これは江戸時代最初期の貴重な庚申塔と言っていいだろう。


さすがに風化が進み、白カビが目立つ。塔の正面を彫りくぼめた中、梵字「サ」の下「奉造立庚申講結衆□願成就攸」両脇に造立年月日。下部に10名の名前が刻まれていた。


塔の両側面には蓮の花が彫られているが、下部の茎の脇にそれぞれ3名の名前が刻まれている。


3番目 庚申塔 元治元年(1864)こちらは江戸時代最後期の文字庚申塔。角柱型の石塔の正面 大きく「庚申塔」下の台の正面と両側面に合わせて三十数名の名前。


塔の右側面 西 こしかや 北 ましはやし道。左側面には東 いの木戸 南 よし川道。左脇に小さく造立年月日が刻まれていた。


4番目 聖徳太子立像 文化4(1807)石祠型の石塔の正面に聖徳太子孝養像を浮き彫り。台の正面は無銘。両側面にそれぞれ10名ほどの名前が刻まれている。


5番目 庚申塔 文化12(1815)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。下に台を持たない珍しい形。塔の右側面に造立年月日。その下に寄進村中。左側面には願主とあり、その下に7名の名前。


足の両脇に二鶏。邪鬼は踏みつけにされながらも頭をもたげている。その下に三猿。さらに三猿の下に右 こしかや道、左 乃田山さき道。


6番目 庚申塔 文化12(1815)角柱型の石塔の正面 梵字「ウーン」の下「庚申塔」両脇に造立年月日。下のほうは右から左に「講中」とあり、その下二段に合わせて24名の名前が刻まれていた。


塔の右側面 赤岩わたし道。左側面 榎戸ワタシミち。その下には6名の名前。さらに塔の裏面に越ケ谷 不動道と刻まれていた。


左端 不動明王文字塔 嘉永元年(1848)角柱型の石塔の正面「成田山不動明王」


台は二段になっているが下の台は無銘、上の台の正面には増森村 四國 同行 。その両側面にそれぞれ8名の名前を刻む。


塔の左側面 南 よし川道。右側面に造立年月日。続いて脇に西 こしかや 大さかミ不動、東 赤岩わたし のだ 道と刻まれていた。ここにある石塔は特に道標を兼ねるものが目立つ。増林・増森村と松伏や野田、吉川など周辺の村は、川を挟んでいるとはいえ、多くの渡し場もあり昔から交流が盛んだったようだ。

 

稲荷神社北路傍 越谷市増林2-47


新方川の東埼玉道路より一つ上流に架かる新田橋。名前の通り、この辺りは新しく開発された増森新田と呼ばれる地区だったらしい。増森神社のある信号交差点からこの新田橋に向かう道の右側路傍に二つの祠が並んでいる。その間に石塔が立っていた。


庚申塔 宝暦4()駒型の石塔の正面上部に日月雲。日月が塔からはみ出している。その下に「庚申供養塔」両脇に造立年月日。下部には両脇が内を向く構図の三猿。体育座りが人間臭い。


塔の左側面は無銘。右側面下部を浅く彫りくぼめて増森村 三丁野 □栄。その下に薄い彫りではっきり読めないが十名ほどの名前が刻まれていた。

増森新田稲荷神社 越谷市増森2-43


新田橋の北詰め、新方川の左岸土手下、消防小屋の奥に稲荷神社があった。


鳥居をくぐってすぐ右手に石塔が並んでいる。写真上に見えるのが新方川に架かる新田橋。午前中は石塔の後ろからまともに日が差していてほぼ100%逆光。数度の失敗の後、曇りの日を選んで早起きして出かけてやっとなんとかみられる写真が撮れた。

右端 庚申塔 享保18(1733)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。つり目で正面をにらむ丸顔の青面金剛。頭には蛇が巻き付く。像の両脇には造立年月日が刻まれている。


腕を張って必死に青面金剛の重みに耐える邪鬼。三猿は中央は足を広げ、両脇は足を閉じて座る。三猿の下に8名の名前が刻まれていた。

その隣 庚申塔 明和7(1770)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。ショケラがかなり大きい。


足の両脇に二鶏。邪鬼はあおむけに腹を踏みつけられてこれは苦しい。邪鬼の下に三猿。小首をかしげたり、それぞれの猿の足の組方がまちまちだったり、自由な雰囲気が楽しい。


塔の右側面は無銘。左側面に造立年月日。その下には小さな字で三段にわたって18名の名前が刻まれていた。



続いて 庚申塔。駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。風化で石塔正面の一部が剥落、紀年銘が見当たらず、顔もつぶされている。足の両脇に二鶏、足元に邪鬼。三猿は半分土に埋まっていた。


その隣 庚申塔 寛政11(1838)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。彫りは細かく立体的で手が込んでいる。


日月の一部は塔の上端からはみ出している。瑞雲は凝った細工。青面金剛の左手はショケラを持つ形だが残念ながらショケラは欠けていた。


足の両脇にくっきりと二鶏、足元に大きな邪鬼。三猿はみな左向きに座り左手を後ろに伸ばして座りながら踊りだしそうなユニークな形をとる。


塔の左側面に造立年月日。右側面に 右 ま志はやし 左 こしがや 道と刻まれていた。


左端 雨除けの中に弁財天塔 天保9(1838)江戸時代後期の石塔は石の材質によっては風化が著しいものが多く見られる。この石塔も塔全体に風化が進みかなり崩落した部分もあるが、正面には「辯」一文字が残っていることから弁財天の文字塔と推測することができる。塔の左側面 當村 別当 真正寺、右側面には造立年月日が刻まれていた。

 

森西川自治会館前墓地 越谷市増森277


新田橋を越えて細い道を南に進むとすぐ先でバス通りに出る。ここを右折して西に向かい500mほど先にある南埼玉病院のすぐ手前の交差点を左に折れると右側に森西川自治会館があった。その南の元荒川土手下の道沿いにこじんまりとした細長い墓地がある。


土手下の道の角の所に庚申塔 文化5(1808)駒型の石塔の正面 日月雲「庚申」両脇に造立年月日。下のほうに寄嶋組 西川組 講中。さらにその下に丸々としたかわいらしい三猿が彫られていた。


塔の右側面 吉川道。左側面 越ケ谷 大相模不動道。裏面には榎戸 赤岩 渡、のだ道と刻まれている。

自治会館側から墓地に足を踏み入れると笠付きの大きな角柱型の石塔があり、その周りにもいくつか石塔が立っていた。


手前に十九夜塔 嘉永6(1853)駒型の石塔の正面上部に如意輪観音坐像。その下に「十九夜塔」下の台の正面に「講中」


塔の左側面は無銘。右側面に造立年月日。台の両側面にはかな文字で合わせて16名の名前が刻まれている。


笠付き角柱型のこの石塔はどうも土手側が正面にようだ。名号塔 寛文10(1670)である。上部に横書きで「一千日廻向」その下、梵字「キリーク」の下に「南無阿弥陀佛」さらに下に在家結衆七百余人。左側面も同じように梵字「サ」の下「光明遍照十方世界念佛衆生摂取不捨」


左側面は梵字「サク」の下「願以此功徳平等施一切同發菩提心往生安樂國」裏面には梵字「サク」の下「南無釈迦牟尼佛」さらにその下に造立年月日。近づいてみると四つの面すべてに奉納者の名前が隙間なくびっしりと刻みこまれていた。


自治会館のほうから見て名号塔の右後ろ 庚申塔 貞享4(1686)舟形の光背に日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。青面金剛の足元は邪鬼ではなくて岩座。その下に三猿を彫り両脇に二鶏を線刻。光背右脇「奉造立庚申堂結衆」左脇に造立年月日。


大きな日月雲の下に浮き彫りされた青面金剛像は江戸時代初期のものらしく素朴で不思議な力感がある。蛇を頭に巻き三眼の青面金剛はドクロの首輪をかけていた。


その右後ろ 庚申塔 寛文4(1664)江戸時代初期の三猿庚申塔。板碑型ではなく駒型の石塔の中央付近に三猿を浮き彫り。その下に造立年月日があり、十数名の名前が刻まれている。遠くから見ると白カビが多くて三猿すらはっきりしない。


今から350年前に彫られた言わ猿、聞か猿、見猿。いったい何人の人たちが手を合わせたのだろう。


左後 聖観音菩薩立像 寛文7(1667)舟形の光背に浮き彫りされた観音様は気品があり美しいが、なぜか資料には取り上げられていなかった。光背左脇に造立年月日が刻まれている。


光背右脇の銘は薄くうまく読み取れないが「逆修浄譽□□□位」逆修供養塔のようだ。

 

中島諏訪神社西路傍 越谷市中島1-79

東埼玉道路の新ましもり橋のところで西のほうに向かう道路、こちらが県道102号線になる。道なりに進むと中島の集落に入る。中島諏訪神社の少し手前、道路左側に庚申塔が立っていた。


庚申塔 寛延4(1751)縦長の楕円形の光背に日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。蛇を頭に乗せた青面金剛の顔がつぶれている。光背下部両脇に造立年月日。


足元に邪鬼と三猿。青面金剛の衣装の両裾が跳ね上がっていて、写真で見ると邪鬼がまるでしっぽをはやした猿のボスのように見える。

中島諏訪神社裏 越谷市中島


さらに進むと左側に中島諏訪神社の鳥居が立っていた。境内には石仏らしいものは見当たらない。


本殿の裏、民家の庭のようなところに石塔が単独で立っていた。


地蔵菩薩坐像 文化4(1807)頭の後ろに円形の頭光背。右手に錫杖、左手に宝珠を持ち、左膝を立てて座る。


塔部正面「三界萬霊」上部両脇に造立年月日。右下 念佛講中、左下に願主 善心。両側面には合わせて5名の戒名と命日が刻まれていた。

正福寺墓地 越谷市中島2-3-2


さらに進むと道路は緩やかに右にカーブしてゆく。神社の前から250mほど先のあたり、道路左手の細い道の向こうに墓地があった。入り口から「正福寺」と刻まれた石塔が見える。


入口右脇に地蔵菩薩立像 宝暦6(1756)楕円形の光背に地蔵菩薩立像を浮き彫り。上部は特に白カビが多く顔の様子などはうかがうことができない。


頭の上には梵字「カ」右脇に大きく「念佛講中」左脇に造立年月日が刻まれていた。


「正福寺」と刻まれた石塔の右後ろ、大乗妙典供養塔 天明3(1783)角柱型の石塔 阿弥陀三尊種子の下「奉納大乗妙典六十六部供養塔」上部両脇に天下泰平 國土安全。右脇は続けて造立年月日。左脇には武州二郷半領柳前村。その内側に願主 達道。塔の右側面には上下に4名の男女の戒名と宝暦2年(1752)から天明元年(1781)までの命日。二組の夫婦だろうか。


さらに左側面には3つの戒名と宝暦8年(1758)から天明3年(1783)までの命日が刻まれていた。

 

 正福寺墓地南三差路 越谷市中島2


正福寺の墓地の入り口から南へ少し歩くと三差路があり、その三角地点、コンクリートの壁で三基の石塔が囲まれていた。遠くから見ると上の一部しか見えない。写真右の道は県道102号線、左の道は元荒川沿いの道と合流し、その先は森西川自治会館の前を通って越谷東高校方面に抜ける。


左 庚申塔 正徳4(1714)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。古いわりにカビなどは目立たず比較的美しい状態を保っている。また像は適度な厚みがありバランスも良い。


塔の上部に梵字「アク」青面金剛は普通つり目で怖い顔をしてにらむことが多いが、こちらは江戸時代初期の作品のせいか比較的静かな表情で合掌していた。像の右脇に同行三拾人、左脇に造立年月日。


正面向きで手だけ出した邪鬼が珍しい。顔もブルドッグに似て、まるで「伏せ」をする犬のような形だ。その両脇に二鶏。下部にはこれでもかと足を大きく広げた三猿が彫られている。


中央 庚申塔 貞享2(1685)江戸時代初期に多い三猿庚申塔だが、よく見かける板碑型ではなく駒型の庚申塔。風化が進み白カビも多く文字は相当読みにくい。


上部左右に日月。中央 梵字「キャ」の下「奉造立庚申講結願成就攸」両脇に造立年月日。梵字「キャ」は十一面観音を表すが、江戸時代初期、庚申塔の主尊がまだ一定しない時期のものだからだろうか。


その下に二段に渡って12名の名前。塔の最下部には正面向きの三猿が彫られていた。


右 庚申塔 宝暦9(1759)駒型の石塔の正面 上部は摩耗しているが日月か?中央に「庚申供養塔」その両脇に造立年月日が刻まれている。

中川土手下路傍 越谷市中島3-64付近


元荒川に架かる中島橋から北へ500mほど、中川右岸の土手の下に庚申塔がぽつんと立っていた。まわりには畑が広がっている。


庚申塔 安永6(1777)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。


上部は特に白カビが目立つ。発達した瑞雲の上に日月。顔ははっきりしない。


足の両脇に二鶏。足元の邪鬼は左手をあごの下になにか考え込んでいるかのようだ。その下の三猿は左の言わ猿が右向き、中央の聞か猿と右の見猿が左向き、二匹の猿は、はすに座るというちょっとユニークな構図になっていた。