桜区下大久保

 

埼玉大学西稲荷社前 桜区下大久保806[地図]



埼大通り、埼玉大学の正門前から西へ進み最初の信号交差点を左折すると、すぐ右手、立木の中に二基の石塔が並んでいた。後ろに朱塗りの鳥居が見える。
 

右 庚申塔 天保7(1836)四角い台の上、駒型の石塔の正面に「庚申塔」上部に日月と富士山を線刻。


塔の右側面に造立年月日。左側面には武州足立郡 下大久保邑とあり、願主二名の名前が刻まれていた。


左 庚申塔 嘉永6(1853)角柱型の石塔の正面中央に「千庚申供養塔」両脇に造立年月日。当時「千庚申」は初見、その後、他のところでも「千庚申」「百庚申」などの供養塔をいくつか見かけた。


塔の右側面に武刕足立郡下大久保村。左側面に願主一名の名前が刻まれている。

旧浄泉寺墓地 桜区下大久保869[地図]


埼大通り、埼玉大学の正門あたりから西に向かい、鴨川の浅間橋の200mほど手前を右折、奥の住宅街の中、マンションの近くに旧浄泉寺の墓地があった。


墓地に入ると右手に小堂が立ち、その手前に石塔と石碑が並んでいる。


右 千万遍供養塔 明治11(1878)四角い台の上、角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中に「千万遍供養塔」念仏供養塔である。


塔の右側面に造立年月日。さらに五穀成就 當村安全と刻まれていた。


小堂の中 六地蔵菩薩立像 宝暦13(1764)像の様子はほぼそろっているが、右から2番目の光背だけやや色が違う。


右端の光背、両脇に造立年月日。尊顔は格調高く、どこか人間臭い。

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左端の光背に願主當邑念佛講中と刻まれていた。


六地蔵の小堂の前から通路を西に進む。突き当りのブロック塀の前に墓石が並んでいる。右端の大きな石塔は・・・


庚申塔 貞享元年(1684)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。塔全体に白カビが厚くこびりついていた。


蛇冠、ドングリまなこ、口をへの字にした青面金剛。持物は矛・法輪・弓・矢。像の両脇に造立年月日。白カビのために近づいても銘は読みにくい。


右下にも銘があるがこちらは読み取れなかった。足の両脇に二鶏を半浮き彫り。その下に三猿。両脇の猿が内を向いて座る。貞享というと元禄の直前、足元に邪鬼は見当たらない。

 

諏訪社 桜区下大久保1029[地図]


県道57号線、桜区役所のあたりから北へ向かい鴨川を越えて埼大通りの下大久保交差点に出る少し手前を左折すると、住宅街の中に諏訪社があった。鳥居の左脇に石塔が立っている。


甲子塔 寛政元年(1789)角柱型の石塔の正面 上部に大黒天を浮き彫り。その下に「甲子塔」読みは「きのえねとう」


大黒天像は彫りが細かい。よく見るとその下に「北」とあり、両脇に銘が見える。ただ白カビの中で字も薄く地名がうまく読み取れなかった。


塔の右側面 上のほうに「西」とあり、その下に三つの地名。こちらも彫りが薄く読みにくいが時間をかけてなんとか読み取れた、右から ひきまた 一里、中央 ふちう 六里、左 おおや満 十八里。


左側面は上部が削れているが「東」だろう。その下、右から よのみち 一里、中央 いわつき 三里半。左 □□山 三十六里。方向と距離から考えると筑波山だろうか?


裏面上部に「南」江戸道 七里。東西南北、九つの地名が刻まれ、なかなか充実した道標、里程標になっている。さらに裏面右に造立年月日。続いて武州足立郡下大久保村。講中三十六人。村中 助成。最後に願主一名の名前が刻まれていた。


拝殿に向かう参道の左脇、三つの境内社の手前に二基の石塔が並んでいる。


右 水神宮塔 明治30(1897)大きな片岩の正面に大きく「水神宮」荒川に近く、水神宮塔、水天宮塔はこのあたりに多く見られる。(⇒田島9丁目の新開橋南の「水天宮塔」旧道満の渡し近くの「水神宮塔」など)


裏面に造立年月日。下部に羽根倉川岸 講社中と刻まれていた。

八雲社 桜区下大久保938隣[地図]


県道57号線、埼大通りの下大久保交差点を越えて80mほど先、道路右側に八雲社が立っている。左脇に寄り添うように「大六天社」


大六天塔 明治32(1899)片岩の正面中央に大きな文字で「大六天」右脇に明治32年。左脇に三月再建。続いて大字下大久保信徒中と刻まれていた。再建塔らしいが、もとの大六天塔についてはわからない。