間宮自治会館 緑区間宮
[地図]
国道463号線を大門方面に向かい岩槻街道にぶつかる少し手前、南に折れてすぐ、
間宮自治会館と墓地がある。自治会館の西側に三基の石塔が立っていた。
左から庚申塔
享保7(1722)青面金剛立像 六臂 台は二段になっていて、上の台には
三猿が彫られている。下の段には文字が見えるが白カビが多くうまく読めない。
青面金剛は右手に独去を持ち、左手にショケラを持っている。青面金剛も邪鬼も
丸々としている。右側面に
講中老若男女結衆敬白 南部領間宮村と彫られていた。
真ん中 庚申塔
文化10(1813)青面金剛立像 六臂 右手に剣、左手にショケラ。
青面金剛の顔が恐い。側面には南部領間宮村
天下泰平國土安全とあった。
下の台の三猿はくつろいでいる様子。両側面に講中17名の名が刻まれていた。
右 普門品供養塔
文政3(1820)台正面に北原村 間宮村 講中と彫られている。
側面にそれぞれ8人、15人の名前が刻まれていた。
自治会館の奥に墓地があった。入り口近く、六地蔵はじめ石仏が並んでいた。
一番手前には四基の馬頭観音塔が集められていた。
左 馬頭観音立像
宝暦6(1756)三面六臂慈悲相 足下に施主として二村の名がある。
左は北原村中だろう。右は間宮かと思ったがどうしてもそうは読めない。上の字は
馬かもしれない。馬宮村と書いた時代があったかどうか?
その右
文字塔が三基。左から明治4(1871)文久元年(1861)嘉永元年(1848)
続いて六地蔵
右の三基の台には細かく文字が刻まれているがうまく読めない。
左の三基の台には同じタッチで「六地蔵二世安楽祈」「奉造立講中男女等?」
「享保19((1734)年
間宮村」と刻まれていた。お前立ちの三体のお地蔵様は
いずれも顔がすげ替えられている。以前あった六地蔵のうちの三体だろうか?
墓地の入口右に地蔵菩薩立像
正徳5(1715)台に奉造立地蔵菩薩二世安楽所とある。
右側面に南部領間宮邑 長福寺
権大僧都法印永恕と刻まれていた。
墓地の最奥部、板碑
文永7(1270)下部に若干の欠けがあるがほぼ完全な状態。
鎌倉時代の文化財である。
間宮氷川神社 緑区間宮
[地図]
間宮自治会館からさらに南に200mほど、氷川神社の奥に庚申塔が並んでいた。
左 庚申塔
延享元年(1744)青面金剛立像 六臂 左手に鈴、右手にショケラという
珍しいパターン。顔の一部が潰れているが彫りは美しい。左側面に間宮村とある。
右側面には奉造立青面金剛二世安楽祈所
講中結衆 謹言と刻まれていた。
右
庚申塔嘉永7(1854)正面 草書体で庚申塔、台に講中と彫られている。台側面に
合わせて12名の名前が刻まれていた。こちらの石塔も驚く程保存状態がいい。
氷川神社のお隣の石材屋さんの庭先に小型の庚申塔
宝暦10(1760)が立っていた。
青面金剛立像
六臂 青面金剛は左手にショケラをつかみ歯をむき出しにしている。
右側面には馬場村施主十人講中と刻まれていた。馬場村!?石材屋さんの商売柄
預かっていたものをそのままお祀りすることになったのだろうか?