石神井町の石仏

石神井公園駅西路傍 練馬区石神井町7-1


笹目通り谷原から南西にまっすぐ、青梅街道あたりで田無に至る富士街道は、江戸時代の「富士大山道」で、当時から利用する人が多い重要な街道だったためか、街道筋のあちらこちらで石仏が見ることができる。谷原方面からきて石神井駅の近くで西武池袋線の高架をくぐってすぐ、道路北側角地に石神井消防団第三分団があり、その脇に石塔が立っていた。


庚申塔 延享3(1746)唐破風笠付き角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。台の下は岩が積み上げられて高くなっていて、両脇の花入れも大きな台の上に設けられ、なにやら大げさなこしらえになっている。


青面金剛は静かな表情で合掌する。足元に丸くなった邪鬼、その両脇に二鶏を線刻。下部に三猿。


塔の右側面「奉造立青面金剛一軀爲講中現當安穏處」


左側面中央に造立年月日。右下に武陽豊嶋郡下石神井邑。続いて願主 個人名。その左に講衆四十三人と刻まれていた。

子育て地蔵尊広場 練馬区石神井町7-4


富士街道、石神井駅から300mほど西の交差点近くの公園の脇、空き地?の奥に大きなお地蔵様が立っている。


途中左側に小堂があるが、物置のような状態で、中には二基の石仏が並んでいた。


左 庚申塔 元禄11(1698)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。三眼の青面金剛は大きな邪鬼を踏み、その下に比較的大きな三猿を彫る。二鶏は見当たらない。石質が良いためか、像の風化は少なく、銘も読みやすい。像の右脇 武州豊島郡中武□下石神井村、左脇に造立年月日が刻まれている。


三猿の下の部分、花に隠れて見えなかったが十数人の名前が刻まれていた。


右 聖観音菩薩立像 寛政8(1796)丸彫りの観音様。左手に蓮華を持ち、右手をその蓮の蕾に添える。頭部はあとからつけられたものだろう、本来のものとは思えない。


蓮台、敷茄子は厚く本格的。台の正面はほとんど見えず、「所願成就」だけ確認できた。右側面に造立年月日。左側面には武州豊島郡下石神井村、願主とあり、個人名が刻まれている。


小堂の前、両脇に一対の石灯籠。 寛政10(1798)竿部正面に「奉納 青面金剛御寶前」両脇に造立年月日。庚申石灯籠である。


右側面に武州豊島郡下石神井村、左側面に願主 個人名、その脇に庚申待講中廿人と刻まれていた。


正面、大きな岩で塚のようになった上に丸彫りの地蔵菩薩立像 元文2(1737)基壇、台、塔部、敷茄子、蓮台と揃い、3m近くなるだろうか、下から仰ぎ見るようになる。


塔の正面中央、梵字「カ」の下に「奉造立供養為尊像二世安樂也」右脇に造立年月日。左脇に武州豊島郡下石神井村。右側面に4名、左側面に7名、両側面合わせて11名の名前が刻まれていた。

 

笠松墓地 練馬区石神井町3-9


石神井公園駅南口から公園の東の入口に向かう道は下り坂で、その途中右手、路地を入った先に墓地がある。公園を見下ろす位置にあるこの「笠松墓地」に入ると参道右側の個人の墓地に向き合うような形で、比較的新しく作られた台石の上に六基の石塔が並んでいた。


左 すっかり溶解してしまい原型をとどめてはいないが、たぶん不動明王ではないだろうか。不動三尊像では、不動明王の下、中央の滝を挟んで左脇に制吒迦童子、右脇に矜羯羅童子という配置をよく見かける。ここでは台の正面中央に残っているのが滝で、両側は二童子のようにおもわれるのだがどうだろうか?


その隣 庚申塔 明治10(1877)駒型の石塔の正面に大きく「庚申塔」


塔の右側面は無銘。右側面に造立年月日。下部に願主だろうか、個人名が刻まれている。




続いて 庚申塔 元禄7(1694)唐破風笠付き角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。足元に二鶏、邪鬼、三猿が揃う。


塔の左側面に造立年月日。下部に7名の名前。この角度から見ると目を剥いた青面金剛の顔が怖い。


右側面、上部に「奉庚申講供養」その下に武州豊嶋郡下石神井村。こちらも下部に7名の名前が刻まれていた。


その隣 地蔵菩薩立像。舟形光背に錫杖宝珠を持った地蔵菩薩立像を浮き彫り。錫杖の下半分を欠く。風化が著しく光背全体に剥落が見られる。下の台の正面に武州豊島郡下石神井村 講中二拾七人、榎町講中、世話人個人名。両側面は隙間が狭すぎて銘を確認できなかった。


続いて百ヶ所観音供養塔 宝永5(1708)角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中、日月雲の下に阿弥陀三尊種子。さらに「奉納西國秩父坂東百ヶ所也」上部両脇に造立年月日。右下に武州豊島郡下石神井村。左下に施主行人千龍海。


塔の左側面にも阿弥陀三尊種子が彫られ、その下に「血盆経萬人志也」血盆経とは女性を救うためのお経らしい。


塔の左側面に萬人講志の衆中。さらに裏面には「南無阿弥陀佛」と刻まれていた。


一番奥には観音菩薩阿弥陀如来供養塔 昭和38(1963)片岩の正面に「觀世音菩薩 阿弥陀如来」


裏面に造立年月日。施主 個人名と使用者一同と刻まれている。墓地自体が新しく整備されたもので、その折に奉納されたものではないだろうか。

 

禅定院 練馬区石神井町5-19-10


旧早稲田通りの豊島橋交差点の北側に禅定院の入口があった。ただ、この山門はいつも閉まっていて、境内にはその西にある参道門から入ることになる。駐車場?を抜けて庫裏の前に出ると竹垣で囲まれたスペースに石塔が並んでいた。


左から織部灯籠 寛文13(1673)一説に隠れキリシタンと関連があり「キリシタン灯籠」とされるが定説とは言えないらしい。火袋もないがなぜか灯籠とされる。上部の独特の形は十字架をデフォルメしたものとか、中央のくぼみの中に胸の前で手を合わせるスカート姿の長身の女性らしい像を浮き彫り、これも聖母マリア様を思わせ、やはりどこか「キリシタン灯籠」らしい雰囲気は感じられる。


塔の背面に銘があるがかなり薄くなっていた。中央に「奉□供養石燈籠為惣檀那逆修菩提也」上部両脇に造立年月日。下部には導師二名、願主二名の名前が刻まれている。


中央あたり 六地蔵菩薩六面石幢 享保9(1724)素朴な笠を持つ石幢の六面に六地蔵菩薩立像を浮き彫り。一部は庭木に隠れて全部の面を確認することは難しい。


四角い台の正面、右から武州下石神井村、「奉造立地蔵菩薩 講中二世安樂」左端に造立年月日が刻まれていた。


庫裏の奥の本堂の前あたり、山門近く、大きな基壇の上に宝篋印塔 安政6(1859)が立っている


屋根型の笠を持ち、全体に凝った装飾が施された豪華な宝篋印塔。


二段になった台の四面に細かい字でおびただしい数の人の名前がきざまれていた。


鐘楼の前に弘法大師像 明治32(1899)背中に笠、右手に杖、左手に数珠を持ち、行脚中に休息をとられるお姿だろうか。


鐘楼の脇に地蔵菩薩坐像 宝暦12(1762)隣の石塔に「いぼ神地蔵」とあった。


お地蔵様は定印を組み蓮台の上にゆったりと座る。台の正面中央 梵字「カ」の下「南無阿弥陀佛」右脇に三界万霊。左脇に先祖代々聖霊 志童女菩提。右側面に造立年月日。左側面には施主 江戸新橋井筒屋長兵衛と刻まれていた。


いぼ神地蔵から東に進むとその奥が墓地になる。入口からまっすぐ正面に丸彫りのお地蔵様が立っていた。


地蔵菩薩立像 享保14(1729)全身を白カビが覆いつくしている。首に補修痕があり、目鼻もはっきりしない頭部はあとから補われたものだろう。錫杖宝珠ともにその一部が欠けていた。


台の正面中央 梵字「カ」の下「奉建供養地蔵菩薩」右脇に造立年月日。左脇に武州下石神井村。


台の右側面 願主個人名。続いて右 はしとミち。左側面に講中二十七人。奥に左 ほうやミち。このお地蔵様は路傍に立って道標の役割を果たしていたのだろう。

史跡公園東路傍 練馬区石神井町5-15


石神井台の三宝寺、道場寺のほうから旧早稲田通りを東に向かい、都道444号線との交差点を越えて100mほど先に斜め左に入ってゆく細い道がある。この道を道なりに進んでゆくと左側、石神井運動公園の南の入口の階段脇に庚申塔が立っていた。


庚申塔 元禄4(1691)宝珠付きの唐破風笠を持った角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。


静かな表情をした青面金剛は元禄期らしく磐座の上に立つ。


下部には正面向きの三猿。その下に向かい合う二鶏。シンメトリックな構成。


塔の両側面には造立年月日が刻まれていた。

 

池淵史跡公園 練馬区石神井町5-13


石神井公園の石神井池と三宝池の間を南北に走る都道444号線沿い、公園のすぐ南の道路東側に「石神井公園ふるさと文化館」がある。その裏に古民家を中心にその周りを緑に囲まれた池淵史跡公園があった。入ってすぐ目につく公園全体の案内板。園内には多くの石塔があるが、その位置がよくわかるようになっている。古民家の右の散策路を進み大きく回って公園を一周する経路、古民家の南をまっすぐに東に抜ける脇道、公園北東の隅、この順に見てゆこう。


古民家の西から奥へ進む。散策路の左手、ベンチの奥に二基の石塔が並んでいるところから左に入ると東に向かう脇道に、ここから写真右の道をまっすぐに進むと公園外周コースになる。


右のコースには二基の角柱型の馬頭観音塔、さらにこの写真では写っていないが先のほうに庚申塔が立っている。


手前から馬頭観音塔 文化10(1813)角柱型の石塔の正面 梵字「サ」の下に「南無馬頭觀世音菩薩」下の台の正面中央に東 ぞうしがや道。右側面は一部剥落があり、手前に四人の名前、奥にほうやと見える。左側面も剥落があり、いくつか名前は刻まれているようだがこちらは地名など確認できなかった。


塔の左側面は無銘。右側面には武州豊嶋郡 観音經講中と刻まれている。


その奥、馬頭観音塔 嘉永3(1850)角柱型の石塔の正面に大きく「馬頭觀世音」下の台の正面中央に向 白子□□。下のほうはうまく読めなかった。


塔の右側面に造立年月日。その脇に右 所沢道。左側面には武州新座郡片山 左 田なし大山道と刻まれている。


さらにその先に庚申塔 天保12(1841)駒型の石塔の正面大きな日月雲の下に「庚申塔」その下部は遠目に三猿のように見えるがただの紋様だった。塔の右側面に造立年月日。左側面には今神とあり、個人名が刻まれる。「今神」は調べてみると下練馬村、今の練馬区錦1丁目あたりらしい。


古民家の南の脇道の入口にはしっかりとした二基の石塔が並んでいた。


左 馬頭観音塔 享和3(1803)大きな角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中、梵字「カン」の下に「馬頭觀世音」右脇に造立年月日。左脇には武州豊嶋郡上練馬村神明谷□講中廿八人と刻まれていた。


右 庚申塔 享保5(1720)舟形光背に日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。光背上部に梵字「ウン」三眼でしかめ面の青面金剛。髪の真ん中と首輪にドクロ?をつけていた。光背右下「奉造立庚申供養二世安樂処」左下に武刕豊嶋郡上練馬村 神明ヶ谷戸講中十三人。その脇に造立年月日が刻まれている。


足元に丸い体形の邪鬼と三猿を彫る。風化の為に顔はのっぺらぼうではっきりしない。


少し東に進んで角のところに道標。一部に剥落があり、塔の表面も風化が目立つ。紀年銘がなく造立年は不明。角柱型の石塔の正面「従是石神井弁才天」


塔の左側面には三宝寺 江 四町と刻まれていた。


さらにその先、南向きに立つ庚申塔 元禄16(1703)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型八臂。


塔全体に風化が著しく顔はつぶされているようだ。八臂の青面金剛は珍しい。上左手には羂索を持つなど持物もちょっと変わっている。像の右脇「奉造立庚申尊像二世安樂所」その脇に武州徳丸村。徳丸村というと板橋区で、かなり遠いところから移されたもののようだ。左脇に造立年月日。その下に施主十一人と刻まれていた。


元禄期らしく足元には三猿だけが彫られている。その右脇 右方とく丸道、左脇には 左方はやセ道と刻まれていた。


公園の北東の隅にタイプの異なる三基の庚申塔が並んでいる。


右 庚申塔 明和2(1765)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。


ショケラは足を曲げ合掌していた。足の両脇には二鶏を半浮き彫り。雄鶏も雌鶏も後ろを振り向いている。足元には邪鬼が踏みつけにされ、その下に三猿。二鶏・邪鬼・三猿が揃うのはこのあたりでは珍しい。


塔の右側面に造立年月日。左側面には武州上練馬村 中田から講中拾人と刻まれていた。


中央 庚申塔 文政元年(1818)駒型の文字塔。梵字「ウン」の下に「奉造立青面金剛心願成就祈所」上部両脇に造立年月日。右下に願主 本村とあり、左下に個人名が刻まれている。


左 庚申塔 享保12(1727)唐破風笠付き角柱型。正面中央を舟形に彫りくぼめて、外に日月雲、中に青面金剛立像 合掌型六臂。


足元に邪鬼が様子をうかがうようにうずくまる。その両脇に二鶏を線刻。下部には正面向きの三猿を彫る。


塔の左側面には大きく蓮が彫られていた。右側面中央「奉供養庚申塔石橋一所諸人快樂祈処」石橋供養塔を兼ねたものだろうか。右脇に造立年月日。その下に同行廿人。左脇には豊嶋郡中荒井村 願主は個人名が刻まれていた。