大道・大竹・せんげん台西の石仏

 

大道香取神社 越谷市大道94


一条院の南、坂を上り切ったあたりから県道325線は広くなる。右手には平行して元荒川沿いに旧道が走り、また坂の上の信号交差点を左折すると、ほぼまっすぐに大袋駅方面に向かうただっ広い新しく開通したバイパス的な道路。周りには大きなドラッグストアやマンションなども新築され、これらの工事のためにこの地域の石仏の多くは移動を余儀なくされたようだ。二つの道路に挟まれた地区の中ほどに大道香取神社があり、拝殿の右脇に石塔が並んでいた。



右から 庚申塔 文政3(1820)角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中に日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。衣装の裾が跳ね上がる江戸時代後期の特徴を持つ青面金剛。そのふともものあたりでショケラは足を折り曲げている。資料の香取神社の項にこの庚申塔は見当たらない。調べてみると今の信号交差点付近にあったもののようで、道路工事に伴ってこちらに移されたものらしい。


足元に身を乗り出すように二匹の邪鬼。その下のハッピを着た三猿がユニーク。右の見猿は足を捩るように座り、中央の聞か猿は寝そべってくつろぎ、言わざるは左端にちょこんと座る。自由な猿たち。


塔の右側面に美しい字で「青面金剛」その両脇に造立年月日。左側面には「庚申塔」左脇に大道村講中。台の正面と両側面に合わせて37名の名前が刻まれていた。


その隣 猿田彦大神塔 文化12(1815)大きな角柱型の石塔の正面 日月雲「猿田彦大神」


下の台の正面にはっきりとした三猿が彫られていた。「庚申」の銘はないが、庚申塔の一種といえるだろう。三猿の下には18名の名前が刻まれている。


塔の右側面「村中安全」左側面に造立年月日。下の台の左側面に漢字で15名の名前。台の右側面にはひらがな二文字の(女性と思われる)名前が19名分刻まれていた。


その奥に庚申塔 文化3(1806)角柱型の石塔の正面 日月雲「庚申」塔の右側面は無銘。左側面に造立年月日が刻まれている。

 

八坂神社北東住宅内 越谷市大道446向


八坂神社の前から東50mほど先を左折すると、道路左側、住宅の敷地内に庚申塔が立っていた。


庚申塔 元文5(1740)唐破風笠付きの角柱型の石塔の正面を彫りくぼめて、その上に日月雲、中に青面金剛立像日月雲 鈴・ショケラ持ち六臂。さいたま市、川口市などでは鈴持ちの青面金剛をしばしば見かけたが、越谷ではほとんど見たことがない。


足元の邪鬼はちょっと変わったポーズで寝ている。三猿は左が外向き、中央が正面向き、右が正面向きだがいくぶん体を傾けて座り、これもちょっと凝った構図になっている。


塔の左側面に造立年月日。右側面に「奉供養大道村中」台の右側面に牛込の石工名が刻まれていた。

先日紹介しました新方川左岸路傍の石仏群の中で一基見逃していましたので、この機会に取り上げておきます。

獨協埼玉高校南 新方川左岸路傍
越谷市三野宮1971


丸彫りの石地蔵の右、これだけが立つ方向が違い、うっかり見逃してしまったが、庚申塔 弘化2(1845)角柱型の石塔の正面「奉納青面□□」全体に風化が著しい。上部の笠は後から足されたものだろうか。


塔の右側面に造立年月日。左側面には個人名が刻まれていた

 

東養寺墓苑 越谷市大竹344


大袋小学校の西、大袋地区センター・公民館の北に大きな墓地があり、その北側のフェンスの前に多くの石塔が並んでいた。


右端に卵塔。続く二番目は 光明真言供養塔 元禄13(1700)駒型の石塔はカビがこびりつき、一部剥落が見られる。中央 梵字の下「奉誦光明真言八数万遍為二世安樂也」左脇に造立年月日。右脇に乃至法界平等利益。その下に大竹村中敬白と刻まれていた。


3番目 大乗妙典六十六部供養塔 享保18(1733)舟形の光背右端は一部欠けているが文字は読みやすい。光背中央 梵字「ア」の下に地蔵菩薩立像を浮き彫り。顔はつぶれ、錫杖の先の部分と宝珠を欠く。光背右脇「奉納大乗妙典六十六部供養佛」左脇に造立年月日。その下に願主知敬と刻まれていた。


4番目 庚申塔 延享3(1746)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。駒型の石塔は上部に白カビが目だつ。足元には口をへの字に結んだ邪鬼が顔を右にしてうずくまる。その下に二鶏、さらにその下の三猿は左右が内を向く構図。


塔の左側面に造立年月日。その下に外助縁?右側面には「奉造立庚申供養」続けて大竹村施主南組?と刻まれていた。


5番目 庚申塔 正徳元年(1711)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。


三面の青面金剛はあまり見かけない。足元の邪鬼は頭を左にして丸くなっている。光背左脇に造立年月日。。右脇「奉造立青面金剛二世安樂處」


邪鬼の下には正面向きの三猿。その両脇にちょこんとかわいく小さな二鶏。その下の部分にひらがなの名前がいくつか刻まれていた。


6番目 六地蔵塔 寛文元年(1661)板碑型の石塔の上部を窓型に彫りくぼめてその中に六体の地蔵菩薩立像を浮き彫り。


中央に「為法界衆生菩提也廿九人」両脇に造立年月日。右下に薄く大竹村と見える。


7番目 庚申塔 享保18(1733)駒型の石塔の正面を彫りくぼめ、梵字「ウーン」の下、中央に「大青面金剛」両脇に造立年月日。下部には三猿が彫られていた。


8番目 十三仏供養塔 元文5(1740)板碑型の石塔の正面を彫りくぼめた中に十三仏を表す梵字を刻む。左の縁に造立年月日。その下に大竹村。右の縁に「十三佛□□供養講中善女十四人助縁村中」と刻まれている。


9番目 庚申塔 安永6(1777)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。顔はつぶされていてはっきりしない。駒型の石塔全体に白カビも多く見られる。足元には頭を左にした邪鬼、さらに三猿が彫られていた。


塔の左側面に造立年月日。右側面には「奉供養庚申講中」と刻まれている。

大竹神社 越谷市大竹315


大道の八坂神社の前の道を東に進み、新しい広い道路を横切った先、大袋中学校の東に大竹神社がある。石鳥居の左、祠の脇に石塔が立っていた。


猿田彦大神塔 天保2(1831)角柱型の石塔の正面 日月雲「猿田彦大神」下の台の正面に三猿。右の言わ猿がそっぽを向いているのは面白い。猿田彦大神系の庚申塔といえるだろう。


塔の右側面に造立年月日。左側面には武州埼玉郡岩槻領大竹村中と刻まれている。


鳥居をくぐると参道の左側に小堂が立っていた。多くの石祠の右端に二基の角柱型の石塔が前後に並んでいる。


前の石塔は詳細不明。後 石灯籠供養塔 正徳4(1714)正面 梵字「キャ」の下「奉納石灯籠」両脇に造立年月日。下部に施主 大竹村とあり数名の名前。塔の左側面の下部にも数名の名前が刻まれていた。この石灯籠の現物は境内には見当たらない。


その先、参道左側、大きな石碑と祠の間に駒型の石塔が見える。


階供養塔 安永4(1775)正面 梵字「バン」の下「奉階建立供養塔」石段を寄付したものだろうか。両脇に造立年月日。右下に武州埼玉郡岩附領大竹村講中 願主とあり下部中央に四人の名前。左のほうには大道村寄進とあり三名の名前が刻まれていた。

大袋地区センター・公民館南路傍 越谷市大竹160の南


大竹神社から東に歩いてゆくと左手に大袋地区センター・公民館がある。ここはT字路になっているが、道路を隔てた南側路傍に石塔が立っていた。


かなり深く埋まっていて、すぐには気づかない。普門品供養塔 文化8(1811)角柱型の石塔の正面「普門品・・・」その右脇は 向 い・・・。資料によると「いわつき」らしい。塔の左側面 東 ま・・。これは「まくり」。右側面に造立年。その脇に南 こ・・・。こちらは「こしがや」だという。

東養寺墓苑北路傍 越谷市大竹438


東養寺墓苑から北へ200mほど、道路左側に祠が立っている。この場所は個人の住宅の敷地の中だが、道路に向かって入り口が設けられていて中を拝見することができた。


地蔵菩薩立像 享保11(1726)丸彫りの石地蔵は帽子、前掛け、首に数珠をかけ、華やかな衣装に包まれている。さまざまな菓子、飲み物、真新しい花が供えられ、今なお地元の多くの人たちの信仰の対象として大切にされている様子。この状態では銘は確認できないが、資料によると台の正面に造立年月日が刻まれているという。

 

稲荷神社 越谷市千間台西6-5-18


埼玉県立大学の東南角の信号交差点は五差路になっていて、南からきて交差点を斜め右に入る道は、東武線のせんげん台駅南の陸橋を越えて国道4号線に至る。信号交差点から500mほどの交差点を左折すると左手に稲荷神社があった。鳥居の左側に多くの石塔が整然と並んでいる。左端の角柱型の石塔は詳細不明、さらに力石が置かれていた。


力石の隣 庚申・普門品供養塔 宝暦8(1758)駒型の石塔の正面上部、左右にに日月雲。中央を彫りくぼめた中に「奉供養 大青面金剛・普門品一万巻」庚申供養と普門品供養を兼ねた石塔は初めて見た。かなり珍しいのではないだろうか。塔の下部には三猿を彫る。


塔の両側面に渡って造立年月日。右側面下部に大道村新田 講中十三人。左側面下部には講中十二人と 刻まれていた。


その隣 庚申塔文化4(1807)笠付角柱型。塔のほうには白カビが多い。


正面を彫りくぼめて青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。日月雲を伴わないのは珍しい。足元の邪鬼はあおむけに腹部を踏まれた格好で、苦し気に青面金剛の足を抑えている。


台の正面に三猿。右の見猿は正面向き、中央の聞か猿はハッピを着て頭を抱えて反り返り、左の言わ猿は首をかしげて座る。


塔の両側に造立年月日。台の両側面には合わせて22人の名前が刻まれていた。


続いて 庚申塔 寛政10(1798)角柱型の石塔の正面 日月雲「青面金剛」塔の両側面に造立年月日。下の台の正面には大道新田 世話人とあり、12個のひらがな二文字の名前が刻まれている。


その隣 庚申塔 文政4(1821)角柱型の石塔の正面 日月雲「青面金剛」塔の右側面に「庚申塔」塔の左側面には造立年月日。その下に大道村新田 講中と刻まれていた。


下の台は二段になっている。上の台は風化が激しく正面の左側は一部欠けているが三猿が彫られているうだ。左の猿は不明、中央の猿は手を挙げて踊り?右の聞か猿は外向きでうつむいて座っている。


下の台の正面には世話人とあり16名の名前。右側面には十数名のひらがな二文字の名前が刻まれていた。


さらに庚申塔 文久2(1862)同じような角柱型の文字庚申塔が四基続くが、三番目のこれが一番大きい。塔の正面 日月雲「庚申塔」右側面に「天下泰平」左側面には造立年月日が刻まれている。


二段の台の上のほう、正面にリラックス型の三猿。下の台の正面には世話人とあり、18名の名前。さらに台の左側面には10名の名前、最後に越ケ谷宿石工 長兵衛と刻まれていた。


その隣 庚申塔 天保3(1832)角柱型の石塔の正面 日月雲「庚申塔」台の正面を薄く彫りくぼめてその中に三猿。右の見猿は外向きに正座で座り、中央の聞か猿はちょっと斜め向き、左の言わ猿は内向きに体操座り、なぜか全体にさみし気な印象を受ける。


塔の右側面「普門品供養塔」最初の石塔で庚申供養と普門品供養を兼ねた石塔は珍しいとしたが、この庚申塔も普門品供養塔を兼ねている。台の右側面には世話人とあり15名の名前が刻まれていた。


塔の左側面に造立年月日。続いて岩槻領大道村 新田組講中。台の左側面は無銘。


一番奥、拝殿の近くに庚申塔 享保元年(1716)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。


足元に正面向きでM字型に腕を張った邪鬼。その下に二鶏を薄く浮き彫り。さらにその下に正面向きの三猿。台の正面中央に造立年月日。その両脇には9名の名前が刻まれていた。