末広町・幸町・連雀町・田町の石仏

十念寺 川越市末広町3-11[地図]


新河岸川の近く、星野高校の東に十念寺がある。東向きに大きな寺導が立つ入口の奥、山門の左手前に丸彫りの地蔵菩薩像が立っていた。


地蔵菩薩立像 寛政11(1799)大きな四角い台の上、角柱型の石塔、敷茄子・蓮台に地蔵菩薩像。総高2mは優に超える。


銘は薄くなっていてかなり読みにくい。正面には延命地蔵菩薩経の偈文。左側面に武州入間郡境町 十念寺とあり、ご住職の名前。右側面に造立年月日。実際は年号は確認できないのだが、十一巳未はほぼ間違いなく、干支から考えると寛政11年だろう。続く銘の中に「三尺九寸地蔵」と見える。像の高さは約120cmということになる。


山門をくぐり境内に入ると正面の本堂の右手前、大きな基壇の上に「和合六地蔵」が立っていた。宝珠付きの屋根型笠を持つ六面塔である。


六面のうち三面にそれぞれ二体づつ地蔵菩薩立像を浮き彫り。三面合わせて六地蔵になる。


残りの三面に銘が刻まれていた。文字が薄く読みにくい部分もあるが、1行目に「六地蔵原由」とあり、この六地蔵の由来が書かれているようだ。當山廿九代光順上人から始まって多くのご住職の名前が見られる。衆生の永世安全のため「市街六隅建立銅像六体地蔵尊」とあり、初めはの六地蔵は銅像だったらしい。しかし尊像は或毀首或摧□(首をもがれたり砕かれたり)これを見かねて再建したというような内容だと思う。次の面の1行目に明治三年九月とあるがこれが造立年を表すのかもしれない。全文を読みとおしたわけではないので確信は持てないが・・・


六面塔の右手前、境内の北のほうに大きな慈母観音像に隠れるように無縁仏が並んでいた。


一番後ろの列の真ん中あたり、丸彫りの地蔵菩薩立像 宝暦8(1758)錫杖・宝珠は健在だが、首のあたりはやはり補修を受けたのだろうか、ちょっと様子がおかしい。敷茄子・蓮台は重厚。


手前の墓石との隙間が狭くうまく写真が撮れないが、石塔の正面、中央に「念佛 境町中」両脇に造立年月日が刻まれていた。

妙養寺 川越市末広町1-4[地図]


十念寺の南の道から100mほど東に妙養寺がある。その境内の東のはずれに小社が二つ並んでいた。右の社の脇に石塔が立っている。


庚申塔 元禄2(1689)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。


青面金剛は舟形の頭光背を持ち、その上部、日月の間には「妙法」と刻まれていた。顔はつぶれている。右脇に「奉造建庚申供養妙塔」その下に造立年月日。左脇の部分は一部削れていて銘が不完全。「越?二世安樂也」その下にも銘が見えるが読み取れない。二組の手の持物がユニーク。上の手に矛と宝輪、下の手に弓矢が一般的だが、こちらは上の手に弓矢、下の手に羂索と棒を持っていた。


青面金剛の足元に邪鬼、二鶏は見当たらない。磐座の下に比較的大きな三猿が正面向きに並んでいた。

 

時の鐘の奥の稲荷神社 川越市幸町15-8[地図]


札の辻交差点から200mほど南を東に入ると有名な「時の鐘」がある、その鐘の下をくぐって奥に進むと正面に薬師神社、さらに右奥に稲荷神社があった。


稲荷神社の左奥に自然石の石塔が立っているのが見える。


庚申塔 明治28(1895) 石塔の正面に「青面金剛」裏面に造立年月日が刻まれているが、狭くていい写真は撮れなかった。

蓮馨寺 川越市連雀町7[地図]


連雀町信号交差点の少し北に蓮馨寺の入口があり、西に向かって本堂まで広い参道が続く。


参道の途中、左脇に丸彫りの地蔵菩薩像が立っていて脇に解説板が設けられていた。


地蔵菩薩立像 寛文8(1668)錫杖・宝珠も健在、蓮台・敷茄子も立派で、その立ち姿はバランスよく、尊顔は穏やか。像、台に銘は確認できず、造立年は解説板による。


本堂の南側に墓地がひろがっている。本堂近くの入り口からまっすぐ南へ進んだ先、大きな木の下に板碑型の石塔が南向きに立っていた。



庚申塔 承応3(1654)板碑型の石塔は二か所に断裂した跡がある。中央「キリーク」の下に「奉建立庚申御寶前逆修菩提也」逆修供養塔らしい。上部両脇に造立年月日。中頃両脇に施主・敬白。その下、二段にわたって十数人の名前が刻まれていた。塔の最下部には二猿が彫られているが、左の猿は風化が進み一部剥がれ落ちて薄くなっている。

連雀町交差点北西の枝道 川越市連雀町3付近[地図]


蓮馨寺の入口から南へ進むと連雀町の交差点。その少し手前、右手に斜めに入る細い枝道がある。途中右側、住宅に囲まれた奥に石塔が立っていた。


庚申塔 寛文12(1702)板碑型の三猿庚申塔。後ろの塀は蓮馨寺の墓地の塀である。


正面中央「奉造立庚申供養塔」右脇に「汝等所行是菩薩道」左脇に「漸々修学悉當成佛」その下に正面向きの三猿。縁の部分に造立年月日が刻まれていた。


三猿の右脇に上松江町とあり、その下に20名ほどの名前が刻まれている。最下部には蓮の花を挟むように二鶏が彫られていた。

 

庚申塚 川越市田町6[地図]


末広町の南、東武東上線の川越市駅の少し北、山村学園高校の東の交差点の角にコンクリートの小堂が立っていた。
扉はしっかりと閉まっていて堂内には入れない。9月、10月の庚申の日に小堂の扉が開かれるとのことで、9月の庚申の日に取材した。といっても堂内に入れるような感じではなく、入口に机が並べられ、お供え物や庚申様・お地蔵様のお札が用意されていた。それでもダイレクトに石仏を拝見できるのはありがたい。



左端から 地蔵菩薩立像。今回は下の石塔部まで見えた。顔に大きな損傷はなく顔立ちも比較的はっきりしている。


蓮台の下に台形の敷茄子。さらにその下の角柱型の石塔の正面、中央に「奉造(立地蔵尊)」右脇に天下太平、左脇は不明。塔の右側面「三界萬霊六親(眷属)・・」たぶん講中仏だろう。紀年銘などは確認できなかったが、石材や像の様子からみて、一緒に並んでいる地蔵塔と同じような時期のものと思われる。


中央 地蔵菩薩立像 享保5(1720)厚い敷茄子を持ち重厚な構成。首に補修跡はあるが、顔に損傷は見られない。


塔の右側面。中央上部に施主と刻まれているが、その下の部分までは確認できなかった。


右 地蔵菩薩坐像。蓮台の下に角柱型の石塔、反花付きの台と続く。


石塔の正面中央「奉納念佛講中」その右脇に享保とあり、続いて薄く「癸丑」のように見える。そうなると享保18年(1733)ということになるが・・・塔の右側面左端に□□村施主とあり、多くの名前が刻まれていた。


堂の右のほうには二基の庚申塔が並ぶ。まずは三猿庚申塔 享保6(1721)塔全体に風化が進んでいる。


石塔の上部中央「奉造立庚申供養」両脇に造立年月日。塔の表面は凹凸ができて銘が読みにくいが、享保六年で間違いないと思う。


下部に正面向きの大型の三猿。その下の部分にかな文字も含めて十名ほどの名前が刻まれていた。


最後は青面金剛庚申塔。日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。資料「民間信仰のかたち」によると元禄5年(1693)の造立という。風化の為か人為的なものかわからないが、顔はすり減ってのっぺらぼう。六臂の持物は、前手は剣と合掌するショケラ。上の手に矛と宝輪。下の手には弓矢かと思ったが、こちらはどうも違うようだ。左手に持っているのは弓でも矢でもない、これは何だろう?右手のほうがもっとわからない。なんだか小さな人型のものが手にすがりついているような・・


青面金剛の足元には二匹の邪鬼。その下に三猿が彫られていた。


塔の右側面に銘が刻まれているが、隙間が狭く読み取れない。こちらが紀年銘かもしれない。