西区三橋

とんび坂 西区三橋5-2173[地図]


水判土交差点は変則的な六差路になっているが、ここから県道を離れてやや細い道を北東に向かうとT字路に突き当たる。ここを左折して北へ進む道が県道165号線。T字路の曲がり角の住宅のブロック塀の中に庚申塔が立っていた。庚申塔のちょうど前のあたりから北へ向かって上り坂になっていて、ここを「とんび坂」と呼ぶらしい。


庚申塔 正徳5(1715)二段の台の上、大きな宝珠を乗せた唐破風笠付き角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。


彫りは細かく丁寧で、白カビもほとんどなく、像は美しい状態を保っている。立派な日月雲の下、細かく結い上げた髪の間にとぐろを巻いた蛇を乗せた三眼の青面金剛。矛・法輪・弓・矢を持つ指の先までリアルに表現されている。


足の両脇に二鶏を半浮き彫り。足元の邪鬼は大きな磐座の上で左右の足を交互に折り曲げ、丸い顔を正面に向けて憎々しげな表情。台の正面に大きな三猿が彫られていた。


塔の右側面「奉彫刻庚申供養塔現世安穏後世善處攸」


左側面中央に造立年月日。右脇に武蔵國足立郡内野下村、左脇に講衆都合二十七人謹白と刻まれている。

 

永泉寺 西区三橋5-1244[地図]


とんび坂の庚申塔から北へ700mほど進み、信号交差点を越えた先、道路左側に永泉寺の山門が立っていた。山門は建て替えられたもので新しい。


山門左 戒壇石 享和元年(1801)禅宗寺院でよく見かける「不許葷酒入山門」と彫られた石塔。右側面に造立年月日。左側面に「四國西國坂東秩父巡拝供養」願主とあり、その下に内野上邑、下郷邑から二名の名前が刻まれている。


右 寺標 大正15(1926)正面に曹洞宗 永泉寺。左側面に造立年月日。右側面に新秩父廿三番 本尊十一面觀世音。10年前訪れたときはここに丸彫りの地蔵菩薩塔が立っていたはずなのだが・・・

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当時の基礎資料「郷土の石佛」に記載があったのはこのお地蔵様。近くにその姿は無く、前回は門前だけで失礼したのだが、この地蔵菩薩塔をさがすために今回は境内を回ってみることにした。


大きな本堂の左手、竹垣の前に六地蔵塔などの石塔が並ぶ。ここを通って裏の墓地に向かうことになる。


左から観音霊場供養塔 寛政7(1795)四角い台の上の角柱型の石塔の正面 「西國 坂東 秩父 供養塔」上部に聖観音菩薩を浮き彫り。


観音様は小さいながらも細部まで丁寧な彫り。塔の左側面に造立年月日が刻まれている。


右側面 上部に「伏冀」(ふしてねがう)その下に國家晴平風雨和順 子孫長久如意吉利。


台の正面 右から内野下邑 願主とあり4名の名前、続いて上村とあり4名の名前。さらに左側面に下村とあり3名の名前が刻まれていた。


その隣 六地蔵菩薩塔。丸彫りの六体の地蔵菩薩立像、蓮台ともによく揃っている。それぞれ背中に戒名が刻まれているが、紀年銘などは見当たらなかった。


続いて如意輪観音供養塔 文化12(1815)四角い台の上の角柱型の石塔の正面「如意輪觀世音爲二世安樂」塔の上部に丸い穴があり、如意輪観音坐像が乗っていたのかもしれない。


塔の右側面に五つの戒名。左側面に造立年月日。その左に願主當村中善女人と刻まれている。


その隣 大六天塔 安政2(1855)石祠の正面に「奉請大六天」側面に造立年月日と寄進者の名前が刻まれていた。


右端 丸彫りの地蔵菩薩立像。右手に針金で補修された錫杖を持ち、左手に合掌する子供を抱えて、子育地蔵であろうが、台も石塔も欠いていて詳細は不明。ここに置かれる何らかの意味はあるのだろう。


本堂の左脇を抜けると、その先に大きな墓地が広がっていた。本堂の裏に沿って墓地の東のラインを北へ歩いてゆくと、途中に丸彫りの地蔵菩薩塔 寛政12(1800)が立っている。


派手な装飾の付いた輪光背を負い、右手に豪華な柄の錫杖、左手に赤子を抱いた地蔵菩薩坐像。子育地蔵だろう。


石塔の正面に「三界萬霊等」左側面に造立年月日。脇に當山十四世代とあり、永泉寺ご住職の主導で建立された三界万霊塔である。


左側面に多くの童子・童女戒名。裏面には喜捨とあり、寄進額とその名前が刻まれていた。


さらに奥に進むと、新しい大きな観音菩薩像を頂点に多くの無縁仏が積まれた「無縁塔」正面の線香立て、花入れが新しく、最近整備されたもののようだ。


正面すぐ右側の一角、無縁仏とは思えない石塔が集められていた。


左 成田山供養塔 明治10(1877)講中仏である。塔の右側面に造立年月日。さらに下内野村と刻まれている。


台の両側面には多くの名前が刻まれていた。


その隣に蓮台と敷茄子が重ねておかれて、続いて丸彫りの地蔵菩薩立像。10年前に門前に立っていたあのお地蔵様に間違いない。錫杖は無事だったが左手の宝珠が欠けていた。


地蔵菩薩像の右脇、反花付き台の上の角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中に「念佛講」左側面に施主 武州足立郡内野下 大戸分惣村講中。


右側面に宝暦7(1757の紀年銘。願主二名の名前が刻まれている。

 

大倭神社 西区三橋6-411[地図]


三橋交番前交差点から500mほど北、東の住宅街の中に大倭神社がある。すぐ近くを交通量の多い新大宮バイパスがはしっているが、木々に囲まれて広い境内は静寂に包まれていた。


長い参道の先、本殿の右奥一帯には竹林をバックに空き地が広がり、その隅に大きな石塔が立っている。そのスケールの大きさ、造形美などから、さいたま市内でも指折りの庚申塔と言えるだろう。市の有形民俗文化財に指定され、脇に解説板が立っていた。


庚申塔 享保6(1721)邪鬼を敷いた丸彫りの青面金剛坐像が笠付き角柱型石塔の上に乗る。その高さは250cmを越す堂々たるたたずまい。


蓮台の上の青面金剛像。丸彫りの六臂像で上の腕の一部が欠けているが彫りは全体によく残っている。目を吊り上げ口をへの字に合掌しながら正面をにらみつける青面金剛。組み敷かれた邪鬼が青面金剛と同じような顔つきですごんでいた。


塔身部正面を彫りくぼめた中、梵字「ウーン」の下に力士に担がれた愛らしい二童子を生き生きと浮き彫り。白カビなどもほとんどなく、彫りは立体的で美しい。


左側面に造立年月日。続いて武州足立郡内野上村惣村中。


右側面には「奉造立庚申供養塔」と刻まれている。



上の台の正面に「庚申講」下の反花付き台の正面に三猿と二鶏が彫られているが、この辺りは風化が進み、左の猿などは文字通り影が薄くなっていた。

養福寺東住宅前 西区三橋6[地図]


さらに北へ進み、養福寺の前を右にはいると、住宅の入口門扉脇にブロックの小堂が立っていた。


馬頭観音立像 寛政5(1793)舟形光背に三眼忿怒相六臂の馬頭観音像を浮き彫り。カビもなく風化の様子もなく驚くほど美しい状態を保っている。彫りは写実的で頭上の馬頭もくっきり。持物は三鈷杵、法輪、斧、棒。光背の上部両脇に造立年月日。右下に内埜上邑、左下に施主の名前が刻まれていた。

桜堂入口路傍 西区三橋6-1376[地図]


養福寺から北へ、三橋六丁目交差点を越えてすぐ、交差点左側の角のブロック塀の前に庚申塔が立っていた。ここから西に入ると、桜堂(養福寺の境外堂)があって、多くの石仏があるが、こちらは次回にまとめて紹介したい。


庚申塔 安政4(1857)角柱型の石塔の正面「庚申塔」両脇に造立年月日。塔の右側面 東 上尾 原市 道。


左側面に 西 秋ば 川古へ 道。道標として街道の分岐点、追分にたっていたのだろう。

 

福寺桜堂 西区三橋6-1378[地図]


県道165号線の三橋六丁目交差点の北、庚申塔の立つ交差点を左折して少し進むと右手に桜堂の入口があった。


入口右脇 念仏供養塔 正徳6(1716)二段の台、角柱型の石塔、蓮台の上に丸彫りの地蔵菩薩立像。総高3m近い堂々たるお地蔵様。


そっと目を閉じ静かな表情。欠損も補修跡もなく比較的白カビも少ない大型の丸彫りの地蔵菩薩立像。正徳6年=1716年は享保元年にあたり、今まで見てきたように享保年間に特徴的な大型丸彫り地蔵塔の流れと言えるかもしれない。


角柱型の石塔の正面に「念佛講」その下の反花付き台はぐるりと深いくぼみ穴が穿たれていた。


反花付き台の左側面、くぼみ穴のために銘の上部が欠けている。これほどまでに深いくぼみ穴は今までに見たことがない。右から(武蔵)國足立郡 内野上村。中央に□□村之講中 二十八人。左 (正徳)六天丙申二月吉日。六・丙申から正徳6年と考えられる。


裏面中央に 江戸柳原石屋 源兵衛と刻まれていた。江戸柳原は今の台東区、荒川近く。江戸創成期、江戸城築城や土木工事などのために多くの石工たちが集められていたが、江戸の町作りの完成後は大きな仕事がなくなり石塔、墓石などの石造物作りに移っていったらしい。江戸城の石垣に用いられた石材が残っていたため、江戸では大型の石仏が大量に作られ、河川舟運の発達によって完成品、半完成品をそのまま埼玉など、関東各地に運ぶことができたのだろう。


入口左手に 徳本名号塔 文政5(1822)角柱型の石塔の正面に独特な書体で「南無阿弥陀佛」下部に花押。下の蓮台、敷茄子はともに四角い。


塔の右側面 武州足立郡 内野上村 講中 近村々助力。その下に世話人とあり九名の名前が刻まれていた。


塔の左側面に造立年月日。その横に寛政4(1792)の命日と戒名があり、内野上村施主 妙教と刻まれている。右側面に刻まれた銘「内野上村講中」から、この名号塔は講中によって造立されたものということになると思うのだが、こちらの側面の銘をどう考えたらよいのだろう?墓石を兼ねているのか?さらに下部には並木村とあり六名の名前と、世ハ人 上小村田 藤兵衛と刻まれていた。両側面の銘の内容の関連性がいまひとつよくわからない。


参道左側、名号塔の後ろの小堂の中に六地蔵菩薩塔が並んでいた。こちらは紀年銘が見当たらす造立年は不明だが、石質は固そうな感じがする。


左端の塔の足元の部分に武州足立郡 内野上村とあり二名の名前が刻まれていた。


六地蔵の小堂の右脇、ブロックをバックに二基の石塔が北向きに並んでいる。


左 名号塔 明和6(1769)隅丸角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中「南阿弥陀佛」上部両脇に造立年月日。右下に願主、左下に一名の名前。外枠に講中 廿九人と刻まれていた。


左側面に十数人の俗名、右側面に16の法名。僧俗合わせて29人ということだろうか?


右 地蔵菩薩塔 文化6(1809)舟形光背に地蔵菩薩立像を浮き彫り。白カビが多い。光背右脇に造立年月日。左脇に村中善男女と刻まれている。


参道右側、左側の六地蔵と向き合うように小堂が立っている。小堂の中 六地蔵菩薩塔 天明4(1484)舟形光背に浮き彫りされた六体の地蔵菩薩立像。サイズ形とも揃っているが、一部色が違うのは補修されたものか。


右から2番目の光背に内野上惣邑中、願主 孫七。3番目の光背に造立年月日。4番目に石工飯田新田邑、田中治兵衛と刻まれていた。


参道を進んでゆくと右手に宝篋印塔と大きな角柱型の石塔が並んでいた。


右 宝篋印塔 天保6(1835)屋根型の笠を持つ。大きな基壇、二段の台の上、基礎、塔身ともに蓮台がつく装飾的な江戸時代後期らしい宝篋印塔。基礎の正面に豎者法印恵觀、高僧の墓石だろうか。


その隣 大乗妙典供養塔 安政4(1857)四角い台の上の角柱型の石塔の正面「大乗妙典一千部供養塔」普通に見るのは「六十六部」だが、納経供養塔で千部となると、これはとんでもない数になる。


塔の左側面 天下泰平 國土安穏。その下に一金壹両 地代。何の地代だろう?


右側面に造立年月日。その下に願主 施主とあり、それぞれの名前が刻まれていた

桜堂北三差路 西区三橋6-1402南[地図]


桜堂のあたりから道はのぼりになり、その先は三差路になっていた。左に進むと県道165号線で川越線を越えて国道16号線宮前IC西交差点。右の脇道は新大宮バイパスと国道16号線の交差、宮前IC付近に出る。


三叉路の右奥の小堂の中 庚申塔 寛政2(1790)小堂の格子のすき間からなので塔の下部までは見られない。駒型の石塔の正面を彫りくぼめた中 日月雲「庚申」下の台の正面に三猿が彫られているらしいが今回は確認できなかった。


塔の左側面 武州足立郡 上下内野上村。


その下 願主一名、世話人二名の名前、助力惣村中。右 平方道と刻まれている。


右側面に造立年月日。


さらに東方 あげお おけがわ 道と刻まれていた。

大宮西中学校西の畑 西区三橋6-1420-13北[地図]


三差路右側の道を少し歩くと、道路左側の畑の中に小堂が立っていた。


小堂の中 馬頭観音塔 安永6(1777)舟形光背、梵字「サ」の下に慈悲相二臂の馬頭観音立像を浮き彫り。


風化が進み白カビも多い。馬口印を結ぶ馬頭観音。頭上の馬頭は明快。光背右脇に「三界萬霊等」左脇に造立年月日。左下に施主 上村とあり、個人名が刻まれていた。