西区島根

大泉寺墓地 西区島根413向い[地図]


県道57号線、西区に入ってしばらく北へ進むと島根交差点で道は大きく左へカーブする。次の押しボタン信号交差点を左折して100mほど先、道路右側に大泉寺墓地があった。入口から小堂が二つ並んでいるのが見える。


手前の小堂の中には二基の青面金剛庚申塔が並んでいた。


右 庚申塔 宝暦3(1753)笠付き角柱型の石塔の正面を深く彫りくぼめて、日月雲は外に、中に青面金剛立像 合掌型六臂。


高く結い上げた髪の頂点に蛇の頭がのぞく。持物は矛・法輪・弓・矢。


足の両脇に二鶏。邪鬼は頭を踏まれ苦しそう。三猿は左の猿が内向き、右と中央の猿が左向きと、ユニークな構図。一番下の台の主面に「講」と見える。たぶん講中だろう。


塔の右側面に造立年月日。その下に四名の名前が刻まれていた。


左側面 武州足立郡植田谷領嶌根邑 願主とあり、こちらは三名の名前が刻まれている。


左 庚申塔 享保3(1718)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。


やはり頭上に蛇を乗せている。こちらも持物は矛・法輪・弓・矢。


二鶏、邪鬼と足元の様子も右の庚申塔とよく似かよっている。三猿は中央が正面向きで両脇は内向き、ここだけが違っていた。


奥の小堂の中には二基の同じような規模の丸彫りの地蔵菩薩塔が並んでいる。


右 地蔵菩薩塔 宝暦4(1754)静かな表情で佇むお地蔵様。宝珠を持つ手が欠けていた。


角柱型の石塔の正面中央「當村念佛講男女」両脇に造立年月日。右側面に植田谷領 島根村と刻まれている。


左 地蔵菩薩塔 享保3(1718)四角い台の上、角柱型の石塔に蓮台に立つ丸彫りの地蔵菩薩像。こちらも左手の宝珠を欠く。


角柱型の石塔の正面中央に「講中敬白」両脇に造立年月日。左側面は無銘。右側面に嶋根村と刻まれていた。


入口左側、ブロック塀の前にも石塔が並んでいる。


道標 寛政12(1800)石塔上部は大きなくぼみ穴ができていて凸凹になっていた。全体を白カビが覆い銘は読みにくい。何回か試みてなんとか読み取れた。中央に北 あきは道。右下に嶋根村、左下に願主名。


右側面に造立年月日。左側面には 南 川こへミちと刻まれている。


その奥に六地蔵塔 寛政2(1790)舟形光背、梵字の下に地蔵菩薩立像を浮き彫り。それぞれの光背に施主名。左端の光背右脇に造立年月日が刻まれていた。


ブロック塀に沿って墓地の奥に進むと、右側に二基の石塔が並んでいた。


左 四国移霊場標石 天保7(1836)大きな四角い台の上 角柱型の石塔の正面に「弘法大師」左側面に造立年月日。さらに嶋根邑 願主とあり個人名。


正面「弘法大師」の右脇に小さな字で足立八十八ヶ所 第十番。左脇に十一番 ニ 十丁と刻まれている。


右側面 阿弥陀三尊種子の下「日本回國供養塔」両脇に天下和順・日月清明。真言宗の寺院でよく見られるスタイルの四国移霊場標石。こちらは回国供養塔を兼ねている。


右 大乗妙典六十六部供養塔 正徳3(1713)2mを超す背の高い緑色片岩の正面、上部に大きく梵字「ア」その下に「奉納大乗妙典六十六部供養成就所 謹白」塔のなかほど両脇に造立年月日。


下部右脇に武刕足立郡嶌根村、左脇に回國行者 柴崎清兵衛と刻まれていた。

 

東光院 西区島根690[地図]


県道57号線、島根交差点から治水橋方面に進んで二つ目の信号交差点を左折したあたりに東光院がある。入口はお寺の南にあるが、道が狭く私道が入り組んでいてわかりにくい。入口から山門付近は最近整備されたものらしく、大きな寺標、石灯籠が並んでいた。


参道の右側、寺標のすぐ後ろに大きな馬頭観音塔 文政12(1829)が立っている。


四角い台の上、角柱型の石塔の正面中央に「馬頭觀世音」右脇に天下泰平、左脇に國土安全。


塔の右側面 西 川ごへ 二リ半。北 あきはへ 一リ半。


左側面 東 よのへ 一リ。南 はやぜへ 三リ。四方向四地名の道標になっていた。


塔の裏面には大きく造立年月日が刻まれている。


下の大きな四角い台の正面 中央に村々助力とあり、まわりに塚本村、二ッ宮村など近隣の村から多くの人たちの名前が上下二段に刻まれていた。


こちら台の右側面 右から本村 林光寺から始まって上下三段に渡り中ノ林村、飯田村などからやはり多くの名前が見える。


左側面にも八王寺村、嶌根村、在家村宿村などやはり上下三段に多くの名前が刻まれていた。三面合わせると30以上の村から180人余りの人たちの助力があったようだ。


裏面には右から武州足立郡 植田谷領 嶋根村とあり、世話人十二名の名前。さらに願主 馬喰 星野 藤助。左端に与野町の石工の名前が刻まれていた。この大馬頭観音塔は荒川の堤の上、旧川越街道沿いに祀られていたもので、荒川左岸一帯の整備工事に伴ってこちらに移動されてきたものらしい。


山門の手前、参道左脇にたくさんの石塔が並んでいる。その多くは馬頭観音の文字塔で、前列に文化6(1809)文政10(1827)文久2(1862)江戸時代造立のものが三基、残りの六基は明治時代のもの、また後ろの列はいずれも明治から昭和にかけて造立されたものだった。村の辻々にあった馬頭観音塔が土地の整理などに伴い、管理のためにこちらに集められたものだという。


後列左から二基目 牛頭観音 馬頭観音塔 昭和23(1948)右には地先祖馬頭觀世音、左に牛頭觀世音と刻まれている。「牛頭觀世音」は稀に見かけるが馬頭觀世音と併記されたものは初めて見た。

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後列右端 観音菩薩塔 延享3(1746)角柱型の石塔の正面中央に「南無觀世音菩薩」塔の右側面に「奉讀誦普門品三万七千巻爲二世安樂」左側面に造立年月日が刻まれている。


18基の文字塔の奥 観音菩薩塔 安永4(1775)角柱型の石塔の上に蓮台、その上に観音菩薩像だが、坐像ではなく立像がももから下が欠けたまま乗っているように思われる。観音様は左手に未敷蓮華を持ち、左手をそのつぼみに寄せていた。


角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中に「遍山顧心庵主」尼僧の墓石らしい。右側面に命日、左側面に偈文が刻まれていた。



右端 山門近くに馬頭観音塔 昭和29(1954)右に新秩父二十六番札所とあり、こちらはもともと東光院のために造立された石塔であろう。
右端 山門近くに馬頭観音塔 昭和29(1954)右に新秩父二十六番札所とあり、こちらはもともと東光院のために造立された石塔であろう。


参道の右脇には六地蔵の小堂があり、その脇に宝篋印塔が立っていた。


宝篋印塔 明和2(1765)屋根型の笠を持つ江戸時代中期以降の宝篋印塔。


基礎の正面中央に「奉納大乗妙典六十六部 日本廻國供養塔」両脇に造立年月日。左側面に武州足立郡植田谷領嶋根村願主 湯沢藤七と刻まれている。


左側面には湯嶋天神前、春木町、目黒など江戸の町の商人たちの名前が並んでいた。島根村と江戸の商人、どんな関係があるのだろう?


裏面には近隣の村の名前がいくつか見られる。中央には當村とあり、11名の名前が刻まれていた。


小堂の中 丸彫りの六地蔵塔 文化6(1809)左端の石塔の正面に造立年月日。


右端の石塔の正面中央に願主當村。両脇に施主十方 善男女と刻まれている。


山門を入ってすぐ左に立派なお堂が立っている。


中には二基の五輪塔が並んでいる。扉は閉まっていて近づいて拝見することはできなかった。近くに立てられた解説板によると、この二基の五輪塔は同一形状で、戦国時代の永禄13(1570)に造立されたものだという。東光院には他にも正平7(1352)の板碑が残されており、創建年は不詳ではあるが古くから地域の信仰を集めてきたものと考えられる。