袋山の石仏

 

袋山観音堂墓地 越谷市袋山382


東武線大袋駅の西口からまっすぐ西に向かう広い道路を進み、二つ目の信号交差点を右折するとやがて袋山久伊豆神社の入り口のところに出る。ここを左折するとすぐ右手に袋山集会所があった。その左脇のお堂のあたりに持福院の入り口があり、さらにその西のブロック塀に囲まれた墓地が観音堂の墓地になる。


墓地に入ってすぐ左側 石橋供養塔 安永10(1781)角柱型の石塔の上、光背の前で合掌する地蔵菩薩坐像?光背両脇に二つの戒名。塔の正面中央に「石橋供養塔」その両脇に造立年月日が刻まれていた。


塔の右側面 右上に願主とあり、3名の名前。その下にも文字が刻まれているがこちらはうまく読み取れない。


塔の右側面 中央にこれより左 志んめいみち。右下に世話人とあり荻嶋村 六左衛門、左下に砂原村 庄蔵、西新井 喜四郎と刻まれている。石橋の近くの路傍に立ち、道標の役割も果たしていたのだろう。


石橋供養塔の反対側、入口右手のブロック塀の前にたくさんの石塔が並んでいた。ちょうどその前に水道やごみ箱がいくつも置いてあり、石塔の細部を確認するのを妨げられてちょっと厳しい状況。ここは石塔の数が多いので今回取り上げるのは写真奥に見える電信柱の右の六基の角柱型の文字塔までとしたい。


水道の後ろ 庚申塔 寛政12(1800)石塔の正面 梵字「ウーン」の下「庚申供養塔」両脇に造立年月日。下部は水道の流し台のために確認できない。


両側面の下部にそれぞれ十名ほどの名前が刻まれていた。この角度から塔の正面下部に三猿が彫られているのがわかる。


その隣 庚申塔 文政4(1821)正面 日月雲「青面金剛」下の台は二段になっている。


塔の左側面 武州越ケ谷領袋山村講中。右側面 中央に天下泰平・國土安全・五穀成就。両脇に造立年月日が刻まれていた。


上の台の正面に三猿。白カビが多く、遠目ではわからなかったが、かなりユニークで愉快な三猿。左右の猿は女性的なポーズで正面向きに座り、真ん中の聞か猿は後ろ向きで頭を大きく反り返っている。岩槻あたりでいくつか目にしたことのある構図だ。


下の台の正面には世話人とあり、30名ほどの前が刻まれ、右側面にはひらがな二文字でやはり30名ほどの名前が刻まれていた。


続いて 庚申塔 万延元年(1860)塔の正面 大きな文字で「庚申」台の正面に三猿だが、全体に摩耗していてはっきりしない。特に右の猿は風化のためだろうか下半身だけのように見える。


塔の左側面 達筆すぎて読みにくいが右上から萬延元年 九月吉日と造立年月日を刻み、さらに武州埼玉郡袋山講中。右側面には「四海泰平・悉皆豊登」と刻まれていた。


三猿の彫られた台の右側面には世話人とあり、10名の名前が刻まれている。下の台の正面にも文字が見えるが判読は難しかった。


その奥 庚申塔 嘉永元年(1848)塔の正面に「庚申塔」台は二段になっている。


塔の左側面に造立年月日。さらに武州埼玉郡袋山村講中。右側面には天下泰平・五穀成就と刻まれていた。


上の台の正面 これだけ苔に覆われていると文字が読み取れない。資料によると世話人七名の名前が刻まれているという。


前にごみ箱などもあり正面から全体を写すことはできないが、下のほうの台の正面には細かい字で30名ほどの名前が刻まれていた。

 


電信柱の先 庚申塔 寛延3(1750)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。


青面金剛の足の両脇に二鶏。足元の邪鬼は腕をM字型に張り頭を左にして左の肩のあたりを踏まれている。その下には正面向きの三猿。


塔の左側面に造立年月日。その右下に施主 袋山村。左下に同行拾四人。右側面には「奉造立青面金剛尊像」と刻まれていた。


その隣 庚申塔 享保18(1733)角柱型の石塔の正面を浅く彫りくぼめて日月雲、梵字「ウーン」の下に「大青面金剛」塔の両側面に造立年月日。全体に白カビが多く笠も欠けている。


小型の石塔が三基。お互いにくっついて立っていて、側面は文字を確認するのがやっとだ。


右 庚申塔 天明2(1782)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。足の両脇に二鶏。下部が多く土の中に埋まっていて不明だが資料によると青面金剛は二匹の邪鬼の頭を踏んでいるらしい。塔の左側面に造立年月日。右側面「天下泰平・國土安全」


中央 庚申塔 安永5(1776)駒型の石塔の正面 日月雲 梵字「ウーン」の下に「庚申青面金剛」塔の表面が風化のために丸くなってしまって文字は読みにくい。右下に安永五とかろうじて見える。塔の左側面は銘は確認できない。右側面には二段にわたって九名の名前が刻まれていた。


左 出羽三山供養塔 文化15(1818)角柱型の石塔の正面 日月雲 梵字「バン」の下「月山・湯殿山・羽黒山 供(養塔)」こちらも結構深く埋まっている。塔の左側面は全体を見ることができないが「文化」の文字が見える。右側面には「天下泰平・國土安全と刻まれていた。


少し離れて 庚申塔 元禄13(1700)駒型の石塔の正面 最上部に梵字「ウーン」日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち?六臂。光背右脇に造立年月日。左脇には「奉供養庚申講施主同行二世安樂攸」


青面金剛の足の両脇に奉加施主 三十五人。足元は岩の台で、邪鬼・二鶏はいない。その下に十数名の名前。さらにその下には三猿の上半身だけが見えていた。


さらにその奥 庚申塔 享保2(1718)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。塔の右上が大きく欠けている。右脇「奉供養庚申待講中二世安樂攸」左脇に造立年月日が刻まれている。


足元の邪鬼は土下座して背中を踏まれ苦し気。リアルな感じがいい。その下に正面向きに三猿。その両脇に二鶏が彫られていた。


墓地の入り口近く、石橋供養塔の西に六地蔵が並んでいる。その左隣に同じような大きさの石塔が立っていた。


馬頭観音菩薩坐像 天明2(1782)駒型の石塔の上部に六臂の馬頭観世音菩薩坐像を浮き彫り。その下中央に「馬頭觀世音供養」両脇に造立年月日。さらにその下の部分に女性4名の名前が刻まれている。



六地蔵菩薩立像 享保元年(1717)舟形の光背に地蔵菩薩立像を浮き彫り。光背の銘は六基とも同一で左脇に造立年月日、右脇に「奉供養六地蔵念佛講中敬白」と刻まれていた。

 

袋山薬師堂墓地 越谷市袋山266


袋山観音堂から南へ向かい、須賀用水沿いの道に出る少し手前、道路右側に薬師堂があった。入り口の両脇に一対の石灯籠が立っている。正面の建物が薬師堂。その南が墓地になる。


石灯籠は四段の台の上に立っていた。左右の石灯籠は構造もその銘もほぼ変わらない。


竿部正面に聖観音菩薩立像を浮き彫り。舟形の光背を持ち、蓮台の上に立つその姿は素朴な印象を受ける。


右側面に紀年銘。文字が薄く、享保か享和かはっきりしない。


左側面に願文。入り口右の石灯籠のほうの左側面には銘が見当たらない。両者はこの面だけが違う。


裏面 武州埼玉郡袋山村 遠藤□□兵衛と刻まれていた。


入口左の石灯籠の後ろのあたりに石塔が並んでいる。


石灯籠の後ろ、ブロック塀の近くに庚申塔 文化4(1807)角柱型の石塔の正面 日月雲「庚申塔」塔の右側面に造立年月日。左側面に袋山邑講中。ブロック塀が近すぎて正面から写真が撮れない。


下部の台の正面に三猿が彫られていた。石塔は深く埋まっていて、三猿は下半身が見えない。


台の右側面 奥のほうに セわ人とあり、その下にひらがな二文字の名前が15個、資料によると左側面にも15個のひらがな二文字の名前があるというが、たぶん土の中だろう、確認はできなかった。合わせて30人の女性の庚申講、男性を含まないケースは相当珍しいようだ。


その隣 大乗妙典供養塔 安永3(1774)角柱型の石塔の上に地蔵菩薩?坐像が乗る。


前掛けをして頭巾をかぶり、石塔の上にチョコンと乗った姿は子供らしくかわいい。


塔の正面を彫りくぼめた中 中央に「奉納大乗妙典六十六部供養塔」上部両脇に造立年月日。右下 先祖代々 為一切聖霊 越谷領袋山村。左下に當村為一切志。その下に行者圓心と刻まれていた。


さらにその近くに二基の丸彫りの石地蔵が並ぶ。どちらもかなりの白カビに覆われている。左 地蔵菩薩立像 享保11(1726)頭部に補修の跡。こちらは個人の墓石のようだ。


右 地蔵菩薩立像 享保11(1726)こちらは台の正面に□□法師とあり、僧の墓石だった。

 

袋山釈迦堂墓地 越谷市袋山245東隣


東武線大袋駅の西口からまっすぐ西に向かう大きな道路、二つ目の信号を左折して南へ200mほど進むと、変則的な三差路の角の所に古峯神社の祠が立っていた。同じ敷地内に釈迦堂があり、その南が比較的大きな墓地になっている。その入り口付近、釈迦堂の建物のすぐ南に十数基、写真左手方向の一角にまた数基、庚申塔をはじめとして多くの石塔が集められていた。


釈迦堂の南、前列後列とも六基の石塔、昭和61年にこちらに整理されたものらしい。たまたまお会いしたご婦人の話では、あちこちに倒れていたりしたものを、ご先祖様が大事にしていたものだからと、みんなで話し合ってきれいにして立て直したものだという。


前列左から 板碑型の墓石 寛文12(1672)は「不生位」とあり僧の墓石、その隣の丸彫りの地蔵菩薩立像 天保3(1832)は個人の供養のためのものだった。


前列3番目 庚申塔 延享4(1747)駒型の石塔の正面 日月雲「奉供養庚申塔」両脇に造立年月日。その下に講中13名の名前が刻まれている。


前列の石塔の前にはいずれも線香立てが置かれていて、石塔の下部を正面から見ることが難しい。横から覗くとそこには小さな三猿が彫られていた。


前列4番目 不動明王立像 正徳2(1712)剣と羂索を手にヌっと立つ不動明王は、江戸時代初期らしく素朴ながら不気味な迫力を感じさせる。舟形の光背上部に炎を表し、右脇に助久法師 不生位。その下に施主は個人名。左脇に造立年月日が刻まれている。こちらも僧侶の供養のために建立された石仏のようだ。


前列5番目 名号塔 天保2(1831)角柱型の石塔の正面に「南無阿弥陀佛」塔の右側面に造立年月日。左側面には袋山村とあり世話人三名の名前が刻まれていた。


下の台の正面、両側面それぞれに十数名の名前。三面を合わせると五十数名という大人数になる。


前列右端 地蔵菩薩立像付き供養塔 天保12(1841)角柱型の石塔の正面上部を舟形に彫りくぼめて、その中に錫杖と宝珠を持った地蔵菩薩立像を浮き彫り。その下は白カビの付着が著しく文字はうまく読めないが、梵字の文が三行に渡って刻まれているという。塔の左側面は無銘。右側面には造立年月日が刻まれていた。


後列左端 庚申塔 享保3(1718)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。第2手、第3手の付き方が「川口型」に似ていて面白い。口をへの字にした邪鬼は頭を向かって右のほうにして横たわる。右脇「奉供養庚申待講中二世安樂攸」左脇に造立年月日。塔の下部は線香立ての陰になっていて見えない。


不満顔をした邪鬼の下に比較的大きな三猿。その両脇に二鶏もしっかりした彫り。さらにその下の部分に袋山村とあり8名の名前が刻まれていた。


後列2番目 庚申塔 正徳3(1713)舟形の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。青面金剛の足が邪鬼の背中まで届いていないようにも見える。頭を左にして横たわる邪鬼の下に三猿。こちらは二鶏は見当たらない。


塔の左側面は無銘。右側面に造立年月日。さらに「奉供養庚申講中二世安樂攸」その下に袋山村と刻まれていた。


後列3番目 庚申塔 寛文8(1668)板碑型の石塔の正面を窓型に彫りくぼめた中、上部には金剛界大日如来を表す梵字「バン」の下「奉造立庚申待結衆所願成就所」その両脇に造立年月日。中央をさらに彫りくぼめて大きな三猿を彫る。三猿の下には大願 袋山村とあり、11名の名前が刻まれている。


後列4番目 庚申塔 享保19(1734)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。足の両脇に二鶏。足元に邪鬼。さらにその下に三猿。左の猿だけが内を向き、残りの二匹の猿が正面を向くという構図は珍しい。


塔の左側面「奉待庚申講中為二世安樂」その下に9名の名前。右側面に造立年月日。その下にはひらがなで12名の名前が刻まれていた。男女混合の庚申講中だろうか。


後列5番目 庚申塔 宝暦9(1759)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。彫りは厚く力強い。大魔神のような風貌の青面金剛。足の両脇に立派な二鶏。足元の邪鬼は正座をして踏みつけにされている。その下に三猿。さきほどの享保19年の庚申塔の三猿と同じように左の言わ猿だけ内を向く形。面白い。


塔の左側面に造立年月日。その下に5名の名前。右側面に「奉供養庚申塔」その下には袋山村 四丁野組とあり、やはり5名の名前が刻まれていた。


後列右端 庚申塔 宝永3(1706)正面に日月雲を彫った唐破風笠。角柱型の石塔の正面 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。


足の両脇に二鶏を薄く浮き彫り。足元の邪鬼は頭を右にして寝そべる。その下に三猿。三猿の下の部分に13名の名前が刻まれている。


塔の左側面に造立年月日。その左下脇に武州埼玉郡越ケ谷領袋山村。右側面 梵字「ウン」の下「奉供養庚申待講結衆二世安樂攸」その左下に2名の名前が刻まれていた。

 


墓地に入ってすぐ、左手に四基の庚申塔と石地蔵が立っていた。庚申塔はいずれも角柱型の文字塔で、左側から大きい順に並んでいる。


左から 庚申塔 嘉永7(1854)石塔の正面 日月雲「庚申」台は二段で上の台の正面に三猿、下の台の正面に「下組」その下に21名の名前が刻まれていた。袋山は南北に長く、北のほうが「上組」南のほうが「下組」となるらしい。


三猿はハッピを着ていて、右の見猿は後ろを振り返りながら右に歩き出そうとしている、中央に座った聞か猿が左手で見猿を指さし、左の言わ猿は肩に御幣を持ち左方向に歩き出す、なんとも楽しい動きのある三猿になっている。


塔の右側面に武蔵國埼玉郡越ケ谷領 袋山村。続いて造立年月日。左下に「講中」左側面には「天下泰平・村内安全 五穀成就・萬民豊樂と刻まれていた。


下のほうの台の右側面に世話人を含めて8名の名前、左側面は白カビの中、文字は薄く読みにくいが女連名とあり、ひらがな二文字で21名の名前が刻まれている。


2番目 庚申塔 文政7(1824)石塔の正面 日月雲「青面金剛」こちらも台は二段になっていた。


上の台の正面の三猿はやはり着衣姿で、中央の言わ猿は烏帽子をかぶり右ひざを立てて座る。岩槻で多く見られた自由な三猿と同じ系統のユニークな三猿になっている。下のほうの台の正面、右上に講中とあり、その下に17人の名前が刻まれていた。


塔の左側面に造立年月日。その脇に武蔵國埼玉郡袋山村講中。右側面には「天下泰平・國土安穏 日月清明・五穀成就」と刻まれている。


下の台の側面に文字が見えるが隣の石塔の台との隙間が狭く写真はうまく写せない。左側面には世話人3名の名前、右側面にはひらがな二文字で19名の名前が刻まれていた。このあたりの構成は左の庚申塔とほぼ同じだが、文字の位置は左右が逆になる。


3番目 庚申塔 文化元年(1804)塔の正面 日月雲「青面金剛」下部に三猿を浮き彫り。


三猿は左右の猿が内側を向く形。丸みのある体形でチョコンと座った姿がかわいい。


塔の両側面に渡って造立年月日が刻まれていた。ここに並ぶ四基の庚申塔の文字は、癖のないきれいな楷書体でとても読みやすい。


台の正面に12名、左側面に11名の名前。右側面には手前からおつま、おりん、おしい、というように頭に「お」が付いた21名のひらがな三文字の名前。男女ほぼ同じような数になる。


4番目 庚申塔 安永4(1775)塔の正面 日月雲「青面金剛」下部に三猿を浮き彫り。


三猿は左の言わ猿だけが右を向き、あとの二匹は左を向くというちょっと珍しい構図。


塔の両側面に渡って造立年月日。


台の正面に12名の名前が刻まれていた。この庚申塔だけ台の側面に銘が見当たらない。


右端 地蔵菩薩立像 享保11(1726)平たい台の上に石塔、その上に丸彫りの像。ふくよかなお顔のお地蔵さまが静かに佇んでいる。


塔部正面中央「奉建立□地蔵尊為二世安樂」両脇に造立年月日。


右側面に武州埼玉郡越ケ谷領袋山村。左側面に壱十八人。



下の平たい台の正面には十数人の名前が刻まれていた。