岩槻区長宮

香取神社(上) 岩槻区長宮1101


国道16号線で元荒川を越えたすぐ先、南平野交差点を右折すると県道80号線に入る。200mほど先の信号交差点で道は大きく二つに分かれ、右の道は元荒川沿いに大野島を通り北越谷方面へ、左の道は県道80号線になり、増長を通り越谷の武里駅方面に向かう。この分岐となる交差点の付近から左に入りしばらく進むと奥のほうに大光寺がある。その山門の手前左側に香取神社があった。長宮には東のほうにもうひとつ香取神社があり、こちらのほうを上香取神社、東のほうを下香取神社と呼ぶらしい。鳥居の左側に三基の庚申塔が並んでいた。この場所は光線の具合が難しく、まともに見られる写真が撮れるまでには数回足を運ぶことになった。


左 庚申塔 明和7(1770)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。前回紹介した南平野の西福寺の本堂左の石仏群の中で見た安永5年の庚申塔とそっくりだ。


青面金剛は三眼、ドクロの首輪、三角形で右に折れた髪型、腕の付き方、その持物、ショケラの姿勢までほとんど一緒。頭上の瑞雲の処理の仕方も良く似ている。


両手の上に頭を置く丸まった邪鬼も三猿の様子も一緒。二鶏は西福寺のほうは邪鬼よりも高い位置に彫られていたが、こちらは邪鬼の両脇。よく見ると三猿の並び順が言わ猿と聞か猿が逆になっている。較べてみるとこちらのほうが風化が進んでいるのはその置かれた状況が違うためだろうか。造立年月日も6年しか違わないし、同じ石工さんの作品の可能性も高い。この二基の庚申塔のような三角の髪型の青面金剛と両手の上に顔を乗せた丸型の邪鬼の組み合わせは以前にも見てきたような気がする。どういった場所にあるか、どういった時期に作られたものか、その分布を調べてみると面白いものができそうだ。時間の余裕ができたらトライしてみたい。


塔の右側面に造立年月日。左側面には長宮村上組講中と刻まれていた。


中央 庚申塔 寛政8(1796)自然石の正面に「庚申塔」下の台はなかば土に埋もれところどころに文字らしいものが見える。左端は「講」資料によると造立年月日とともに、長宮村講中と刻まれているらしい。


右 庚申塔安政3(1856)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。


青面金剛の逆立った髪の毛の中にどくろの顔がはっきりと見える。


髪をわしづかみにされたショケラは青面金剛のももにしがみつき、足下には邪鬼の顔が二つ並ぶ。台の正面にやはりリラックスした形の三猿が彫られていた。


塔の右側面に造立年月日。左側面には長宮村 上組講中と刻まれている。


拝殿の左側の藪の中に順礼供養塔 元治元年(1864)塔の正面「 月山・湯殿山・羽黒山 西國・秩父 坂東・四國 拝禮」


塔の右側面 右から壽命経二萬巻 念佛二百萬遍唱 さらに戒名。その隣に歌が刻まれているが、文字の彫りが違い、どちらかが後刻されたものかもしれない。


左側面にも歌が刻まれている。左上に造立年月日。その下に長宮村 俗名とあり二名の名前が刻まれていた。    

大光寺 岩槻区長宮1101


山門を入ってすぐ、参道の右手にたくさんの無縁仏が整然と並んでいる。その中に講中のものがあるかもしれないと思って探してみたが、石塔の数も多くうまく見つけることはできなかった。


その先、鐘楼の階段の両脇に二基の石塔が立っている。


右の石塔は片岩の正面の上部に歌が、下部には人物が線刻されていた。


旅人?が菅笠を脱ぎ、背中の荷物を降ろして一休みしている姿を描いているようだ。


裏面にも文字が刻まれている。資料で調べてみると「亡父蘭陵は若年より書画風流の道をたのしみ あたりの童子を集め其教ためなりしが・・・・自画の像をいしに彫て永く後世に残さむ・・・・・」とある。最後に天明5(1785)の紀年銘。下の台の四つの面には長宮村、大野島村、平野村、増長村などから合わせて100人近い門弟たちの名前が刻まれていた。


左 手水石 元文5(1740)四つの面が同じ形の直方体の石塔の上に水入れを置き、塔の正面に「水盤」と彫る。右側面には華林山大光寺 第十五世天山代と刻まれていた。


右側面と裏面には苔が厚くこびりつき文字を読み取ることができない。資料によると右側面は施主 長宮邨とあり個人名。裏面には造立年月日が刻まれているという。


参道の左側、小堂が立ち、その中に本堂に向かい合うように石仏が並んでいた。


左端 地蔵菩薩立像 年代不詳。丸彫りで錫杖、宝珠とも健在。像全体の大きさから見ると錫杖が小さく感じる。像、台いずれも銘が見当たらなかった。


隣 地蔵菩薩立像 昭和55(1980)新しいもので紀年銘以外に文字らしいものは見られない。


続いて 六地蔵菩薩立像 元治2(1865)横長の石に六地蔵菩薩立像を浮き彫り。両側面に造立年月日。


裏面 造立の 講の仲間極楽へ ミちびきたまひ 六地蔵尊。続いて長宮村 女講中と刻まれていた。


その奥に六地蔵菩薩立像 文政9(1826)舟形の石塔の正面に三段に各二体、合わせて六体の地蔵菩薩立像を浮き彫り。


両側面に渡って造立年月日が刻まれている。


台の正面と両側面に合わせて50人ほどの名前。おたえ、おろくなど頭に「お」の付く名前が多い。


その隣 六地蔵菩薩立像 寛政2(1790)隣の六地蔵塔とよく似ている。


左側面に造立年月日。下のほうに数人の名前。


右側面には二つの法名と命日。こちらも下のほうに数名の名前が刻まれていた。


右端 地蔵菩薩立像。赤い頭巾とちゃんちゃんこを着ていて像の様子はわからないが錫杖と宝珠を持つ延命地蔵と思われる。蓮台や下の台に銘は無く、像の背面をのぞいてみたかったが、いつか見る機会もあるだろうと今回はあきらめることにした。

 

 

長宮香取神社(下) 岩槻区長宮724


大光寺から県道80号線を東に向かい、川通中学校の少し手前の細い道をを左に入り100mほど歩くと、右手に香取神社があった。境内地は広く、運動会もできそうな広場になっている。西側のフェンスの前にたくさんの石仏が並んでいた。


左端 敷石供養塔 文化元年(1804)塔の正面中央「敷石供養塔」上部両脇に渡って造立年月日。右下に長宮村、左下に氏子中と刻まれている。


右側面には23名の名前を三段に分けて刻む。


左側面も同様に24名の名前。裏面にも29名の名前が刻まれ、全部で合わせて76名の氏子が敷石の奉納に関わったということだろう。


続いて 庚申塔 安永8(1779)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。


像全体に風化が見られ細部は確認しにくい。三角形の髪型の青面金剛。ショケラは足を折り曲げ腰のあたりにしがみつく。


足下に首をかしげた丸い体形の邪鬼。三猿は正三角形の構図で、下の二猿は向き合っている。言わ猿の両脇に二鶏を彫り、この下の部分は全体として五角形のシンメトリックな構図になっていた。


塔の右側面に造立年月日。左側面には武州埼玉郡岩槻領長宮村施主講中と刻まれている。

その隣から大小四基の記念碑が並び、続いて小さな赤い鳥居の社が立っていた。


社の隣 庚申塔 嘉永7(1854)台は一番下の薄いものも入れると三段。三猿を彫った台の下の大きな台の正面に多くの名前が刻まれていた。


日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。彫りは細かく技巧的。青面金剛の波打つ髪の中にどくろの顔が見える。髪をむんずとつかまれたショケラは足を折り曲げ合掌していた。


青面金剛の足下には狛犬のような顔をした二匹の邪鬼の頭。下の台の正面に自由で生き生きとした三猿を彫る。二鶏の姿が見えないのは少し寂しい気がする。


塔の右側面に造立年月日。左側面には武州埼玉郡長宮村と刻まれていた。


続いて大黒天 文政元年(1818)角柱型の石塔の正面を深く彫り窪めて大黒天像を浮き彫り。下の台の正面に「甲子」さらのその下の台の正面に50人ほどの名前が刻まれている。


塔の右側面に造立年月日。左側面には「長宮村」


その隣 馬頭観音塔 明治8(1875)塔の正面中央「馬頭觀世音」両脇に造立年月日。左下に個人名が刻まれていた。


その隣も馬頭観音塔 嘉永6(1853)正面中央に「馬頭觀世音」右側面に造立年月日。左側面に施主 個人名が刻まれている。

 


二基の馬頭観音の文字塔の次に庚申塔 宝暦4(1754)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。青面金剛の頭上に梵字「ウン」を彫る。


かつては路傍に立っていたものだろうか、全体に白カビが積もっていた。足を折り曲げ四つん這いの邪鬼は頭と背中のあたりを踏まれていて、そのお尻の上に真っ白な雄鶏が乗っている。三猿は両側が中向きに足を投げ出して座る。


塔の左側面に造立年月日。その脇に長宮村講中敬白。


右側面「奉供養大青面金剛」続いて天下泰平 國土安穏 五穀成就と刻まれていた。


その隣 庚申塔 明和7(1770)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。先日紹介した大光寺の山門脇にあった香取神社の庚申塔とそっくり。造立年月日まで一緒だ。台の正面に名前が刻まれているというが確認できなかった。


青面金剛は三眼で三角形の髪型。腰の脇のショケラは足を折り曲げている。


足下に丸まった邪鬼。その両脇に二鶏。その下の三猿の構成や様子まで全く同じだ。


塔の右側面は無銘。左側面に造立年月日。続いて長宮村と刻まれている。


その隣 馬頭観音坐像 文政12(1829)角柱型の石塔の正面上部 蓮台に円形の光背を負った六臂の馬頭観音坐像を浮き彫り。その下は五重になった台だろうか。


やはりこちらも白カビが多く、像容ははっきりしないが、髪を逆立て、忿怒相か。塔の右側面に造立年月日。左側面には長宮村と刻まれていた。


続いて庚申塔 安永6(1777)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。風化が進んでいて青面金剛の表情なども確認できない。


青面金剛の足下で屈服する邪鬼の両側、真っ白な部分は二鶏だろうか。三猿は両端が中を向く構図。


塔の右側面に造立年月日。左側面に長宮村。このあとは記念碑などが並んでいる。


拝殿の左脇の一角にも石塔が並んでいた。


左から庚申塔 寛政10(1797)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち?六臂。石質が悪いのだろう、塔全体にかなり剥落が見られる。


青面金剛の足下には邪鬼だろう。その右脇には雄鶏が見えるが、左脇の部分は大きく欠けていて雌鶏の姿は見えない。下部には三猿を彫る。左の猿は御幣を肩にかつぎソッポを向いていた。


塔の右側面に造立年月日。左側面には中下講中と刻まれている。


その隣 馬頭観音立像 安永2(1773)舟形光背に馬口印を結んだ慈悲相の馬頭観音を浮き彫り。光背右脇「奉造立馬頭觀世音」その下に長宮村。左脇に造立年月日。その下には施主として個人名が刻まれていた。続く二つの石祠は天満宮かと思われる。

 

長宮庚申塚 岩槻区長宮62付近


大光寺の入口から県道80号線を東に進む。大野島方面への道との分岐となった信号交差点から400mほど先の左側路傍、ちょっと奥まったところにいくつかの庚申塔が並んでいた。雑草が多く、中へ進むのも結構苦労する。後日細かい部分を確認したくて再訪したのだが、その時は夏のことで雑草が高く生い茂り塔が全く見えない状況だった。もしかしたら真冬しか見られないシチュエーションなのかもしれない。


左前 庚申塔 文化4(1807)塔の正面 日月雲「庚申塔」塔の右側面に造立年月日。左側面には世話人とあり、5名の名前。下の台の正面には三猿が彫られていた。


少し下がって後ろに三基の庚申塔が並ぶ。まず庚申塔 寛政10(1798)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。下の大きな台の正面に世話人二人、さらに おま寿、おかん、おきみなど、いずれも頭におがつく10人の名前が刻まれている。台の両側面にもそれぞれ11人の名前があり、女講中32人ということになるだろうか。


塔の正面を深く彫り窪めて、中に三眼の青面金剛。頭の後ろに円光背を持ち髪を逆立てて恐い顔でにらみつける。不動明王のような風貌。頭上の日月雲から足下の邪鬼まで、彫りは細かく技巧的だ。


獅子のような顔をした邪鬼。その下に面白いポーズの三猿を正三角形の構図に、さらにその両脇には二鶏が美しく彫られていた。


その隣 庚申塔 享保5(1720)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。後上右手に小さなショケラをかかげ持つ「岩槻型」M字型正面向きの邪鬼とやはり正面向きの三猿。これもよく見る組み合わせだが、二鶏が三猿の下というのは珍しい。


塔の左側面に造立年月日。右側面「奉造立青面金剛尊容一基善修等輩如意満足祈所」その下に諸檀主敬白。左脇に従是ぢおんじ道すぐと刻まれていた。


その右 庚申塔 寛政6(1794)塔の正面 日月雲「庚申塔」その下の三猿は両端が横向きで足を投げ出している。


塔の右側面に造立年月日。その両脇に武州埼玉郡長宮村と刻まれていた。


その前に庚申塔 文政11(1828)角柱型の石塔の正面 日月雲の下、大きく「庚申塔」下の台の正面に三猿。


三猿は岩槻らしく自由で奔放。右の言わ猿は後ろ向き、中央の聞か猿はあぐらを組んで左耳だけふさぐ。左の見猿はだらしない姿勢ですわりソッポを向いている。


下のほうの台の左側面、初めに世話人二人に続き、おみき、おとよ、おつめ、などたくさんの女性の名前が刻まれていた。右側面にもやはり多くの女性と思われる名前が刻まれている。さきほど見た寛政10年の庚申塔でもそうだったが、幕末も近くなると庚申講も女性中心の講が多くなるのだろうか。

資料によると天明5年の庚申塔の文字塔があるらしいのだがこの時は気が付かなかった。その後、二度ほど行ってみたのだが中まで入ることができず、いつか機会を見て確認したいと思う。

長宮自治会館東 県道80号線南側路傍 岩槻区長宮154付近


庚申塚から東へ50mほど、県道80号線の南側路傍、ブロック塀の中に石塔が立っていた。


巡礼供養塔 造立年不明。塔の正面上部に阿弥陀三尊を梵字で表しその下に「奉納西國 秩父 坂東 湯殿三山」両脇に天下泰平 國土安全。下部には10名の名前が刻まれていた。


塔の左側面 此方 こしかや二里、のじま一り。その下にやはり6名の名前が見える。


左側面には是 岩附ぢおんじ一里。こちらも7名の名前が刻まれ、合わせると23名になる。

長宮香取神社(下)入口近く 県道80号線南側路傍 岩槻区長宮223脇


さらに100mほど東に進むと、南に入りこむ細い道の入口あたりに石塔が立っていた。


六地蔵菩薩塔。舟形の石塔の正面に六地蔵菩薩立像を浮き彫り。六体の地蔵像の間に四つの戒名。塔の下部に寛保から延享の四つの紀年銘が見えるがこれは命日だろう。側面、裏面に銘が無く造立年月日は確定できないが、おそらく1750年頃のものと思われる。