川崎・福岡の石仏

氷川神社 ふじみ野市川崎146[地図]


南古谷駅からまっすぐ南下して上福岡駅の南へ向かう県道335号線。新河岸川を越えてふじみ野市に入り最初の川崎交差点の少し手前を西に入った先に氷川神社がある。


朱塗りの鳥居の先、参道左側に小堂が並んでいた。


一番奥の小堂の中 弁財天 宝永2(1705)四角い台の上、舟形光背に鳥居冠の弁財天坐像を浮き彫り。


冠の中に蛇がとぐろを巻く。光背右脇に導師 九刕備前國沙門 玄廣。顔の横あたりに「辯財尊像」光背左脇「右之意趣者信心施主眼世 安穏後性前性子孫繁昌」さらにその横に造立年月日が刻まれている。


下部正面に武刕入間郡とあり、6人の名前が刻まれていた。

仙元神社 ふじみ野市川崎153東[地図]


氷川神社のすぐ東、小高い塚の上に角柱型の石塔が立っている。


仙元大菩薩塔 文久3(1863)塔の正面「仙元大菩薩」左側面に造立年月日。右側面「天下泰平五穀成就」下の台は二段。上の台の正面に講中と刻まれていた。「大菩薩」なのにいくつかの資料では「仙元神社」となっている。


仙元神社の塚の下、氷川神社との間の路傍に庚申塔が立っていた。


庚申塔 元禄15(1702)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。四つの手に戟・鉈・弓・矢を持つ。定番の法輪がないのも元禄期らしいというべきか?像の右脇「奉造立庚申尊像爲二世安樂者也」左脇に造立年月日。


足の両脇に二鶏を線刻。足元の部分は特に風化が進み、邪鬼と三猿の顔は一部損傷。芋虫のような邪鬼は猿よりも小さく?貧弱でアンバランス。三猿は両脇が内を向く構図。三猿の下の部分に武蔵州 入間郡 川崎村、施主廿壹人と刻まれていた。

 

阿弥陀堂墓地 ふじみ野市川崎2-7[地図]


県道335号線川崎交差点の北50mほど先、道路左側の消防署の裏に阿弥陀堂墓地がある。消防署を通り過ぎてすぐの路地を入った先に入口があった。正面に見える堂宇にはふじみ野市指定文化財「阿弥陀一尊図像板碑」が木製の仏壇の中に収められている。


入口の右側、木の陰に2基の丸彫りの石仏が並んでいる。


右 地蔵菩薩立像 正徳5(1715)丸彫りの地蔵像は白カビにまみれ宝珠を欠くものの、全体のバランスがよく堂々としている。


蓮台の下、石塔の正面に「念佛講中」右側面に造立年月日。さらに川崎村。左側面には大願とあり、個人名が刻まれていた。


左の石仏は大きく破損していて不完全。像の様子からは聖観音菩薩像のように思われる。石塔部正面に寛延3年(1750)の紀年銘。さらに居士戒名があり、これは墓石だろう。


その奥に7基の地蔵菩薩塔。左端は墓石で、残りの六基が六地蔵菩薩立像 寛政10(1798)。丸彫りの六地蔵だが、一基は本来の地蔵像が破損したためか、石塔の上には舟形光背の地蔵像が載せられていた。


右端の石塔の正面に川崎村 惣村中。200年以上の時を経て、現在の六地蔵は像も石塔部もバラバラで不完全な形だが、創建時には村の多くの人たちがこの六地蔵の造立に力を合わせたのだろう。


左端の石塔の正面に造立年月日。他の4基の石塔は無銘だった。


墓地に入って左側すぐ、角柱型の石塔が南向きに立っていた。その奥に5基の卵塔が並んでいる。


観音菩薩塔 元文4(1739)石塔の正面を彫りくぼめた中、中央に「奉納大慈大悲觀世音菩薩」両脇に造立年月日。


塔の右側面に武刕入間郡川崎村。その下に5名の名前。左側面は白カビが厚く読みにくいがやはり数名の名前が刻まれていた

 

養老橋西詰北路傍 ふじみ野市川崎239南[地図]


県道56号線、新河岸川に架かる養老橋の西詰、北側の路傍に小堂が立っていた。


小堂の中に丸彫りの地蔵菩薩立像 元文3(1738)実はこのお地蔵さまは2020.07.27の「川越の石仏」の記事の中で写真だけ紹介したことがある。


その時の写真がこちら。大事にされているのだろう、にぎやかに花が供えられ、衣装も新調されていた。


衣装のために詳細は分からないが、そのふくらみ具合から、右手に錫杖、左手に宝珠を持つ延命地蔵と思われる。帽子の下にふくようかで涼しげな表情のお顔をのぞかせていた。


像の下、角柱型の石塔の銘は摩耗して薄くなって読み取りが難しい。正面中央に「奉造立地蔵尊・・・・」光線の加減も悪く写真もうまく撮れなかった。両側面は堂の側板のため全体を見通すことはできないが、隙間から覗いて右側面に造立年月日、左側面には川崎村 念佛講中と刻まれている。

福岡河岸記念館前 ふじみ野市福岡3-4-2[地図]


養老橋の西詰から新河岸川沿いの道を南に進み、二つ目の路地を右に入ると登坂の途中に福岡河岸記念館がある。その東手前、階段の上に小堂が立っていた。


小堂の中、四角い台の上に角柱型の石塔、さらに敷茄子・蓮台を重ね、その上に丸彫りの地蔵菩薩坐像 宝暦元年(1751)?階段の脇の木の杭に「茂兵衛地蔵」と記されている。


像はやや表面が粗くなっているが、錫杖、宝珠は健在で尊顔も比較的美しい。


角柱型の石塔の正面、「ウハッキュウ」の下に二つの戒名。脇の寛延2(1749)宝暦元年(1751)の紀年銘は命日だろう。当然墓石ということになる。