東明寺 志木市本町1-3-22
志木市役所付近、市場坂上交差点から県道113号線に入り、緩やかな坂道を
上ってゆく。道路左側、消防署と法務局出張所の間に東明寺がある。
境内に入って右側が墓地になるがその一角に六地蔵と石仏が並んでいた。
六地蔵菩薩立像
安永3(1774)個人の造立だが、きれいな状態が保たれている。
六つの台の正面には同じ戒名と年号。両端の台の側面に施主名が刻まれていた。
左に四基の石塔が並んでいる。右から念佛供養塔
寛文13(1673)笠付の文字塔。
正面中央
梵字キリークの下に「奉造立念佛供養二世安樂所敬白」左脇に年号。
右脇に武州新之郡中野村と刻まれていた。新之=新倉だろうか?
隣
地蔵菩薩立像 寛文7(1667)光背の多くの部分と体の一部を白カビで覆われる。
光背右「庚申供養也」寛文期に比較的多い地蔵菩薩の庚申塔であることがわかる。
その下に武州新倉郡蟇俣村。蟇俣=引又だろうが、このような表記例は他にも
あるのだろうか?光背左には年号が刻まれていた。
続いて阿弥陀如来坐像
延宝7(1679)こちらも光背には白カビが目立つ。
上部に梵字キリーク。光背右「奉造立念佛供養抜苦与樂所」光背左に年号。
その下に同行七人。脇に武州新倉郡中野村と刻まれている。
4番目
聖観音菩薩立像 寛文10(1670)左手に蓮の花を持ち右手は与願印。
光背右「奉修右意趣者念佛供養即心成佛所」その下に同行十四人と刻む。
光背左に年号。続いて武州新倉之郡施主敬白と刻まれていた。
ここにある四つの石塔は1667年から1679年といずれも江戸時代初期のもので、
同じ場所にこうして並んでいるのはそれだけでも大変価値があることと思う。
聖観音像以外の二つの像塔の白カビは気になるところだが・・・
敷島神社 志木市本町2-9-40
本町通り
本町1丁目交差点付近から東に入ると敷島神社の参道に出る。境内の奥に
「田子山富士塚」と呼ばれる大きな富士塚があった。頂上には木花咲耶姫命の祠が
あり、塚全体では100基近い石塔が立っているという。宗岡のほうにも似たような
富士塚が見られ、富士信仰が盛んであったことがわかる。
富士塚の西側、塀の前に6基の石塔が並んでいた。
右から
不動明王坐像 嘉永元年(1848)大きな基壇の上に二段の台を乗せ、その上に
重制の石塔という構成。縦長の塔の部分の正面に「成田山」と刻まれていた。
不動明王の片目だけ白くなっていて隻眼のようにも見える。火焔の光背の下、
剣と羂索を手にどっしりと座っている。
その下には滝を挟んで制吒迦童子と矜羯羅童子。彫りは細かく美しい。
下の塔の部分の右側面に年号。その脇に引又町中と刻まれていた。
二段の台の上のほうの台の各面には唐獅子が彫られている。これも凝った彫りだ。
その隣
東雲不動尊塔 明治34(1901)富士塚近くに祀られ修験道に関連するものと
思われるが「東雲不動尊」がなにかはよくわからない。
右側面に年号。左側面
納主とあり、数人の名前が刻まれていた。
その左 庚申塔
天保15(1844)青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。頭の後ろに
火焔をつけた光背を持つ。本格的な庚申塔である。
左手に合掌するショケラ。股の所に虎の頭が見える。その上は龍だろうか。
青面金剛の足元、正面向きの二匹の邪鬼がユーモラスな表情を見せている。
下の台の正面にはこれも立派な三猿が浮き彫りされていた。
台の側面にそれぞれ 左リ 宮戸道 右リ
江戸道と刻まれている。
塔の右側面「奉造立青面金剛王壹軀町内安全攸」右脇に武州新座郡引又町。
左脇に願主
星野半平。塔の左側面には年号。その下に引又町中と刻む。
さらにその隣
不動明王立像 寛政3(1791)燃え盛る火焔の光背を持つ。
塔の左側面には年号が刻まれていた。横から見ると彫りの厚みがわかる。
その左
猿田彦大神塔。こちらは銘は確認できず年代など詳細はわからない。
一番左
大乗妙典供養塔 寛政7(1795)正面上部 梵字で光明真言を表し、その下に
「奉納大乗妙典供養塔」両脇に天下泰平
國土安全。左下に願主名を刻む。
塀沿いに少し歩くとポツンと石塔が立っていた。彫りもやや薄く読みにくい。
調べて見ると正面は「道志留弊」=みちしるべ
らしい。その下は志木宿との
ことだが一部は土に埋まっている。
塔の右側面
白子 東京 道。下部にこちらも薄いが十人ほどの名前が刻まれていた。
左側面 宮戸
岡不動 道。下部にやはり十数名の名前が見える。
裏面を覗くと年号
明治10(1877)が刻まれていた。下部には名前が刻まれる。
三面合わせると結構な数になる。
引又観音堂 志木市本町2-3-3
市場坂上交差点から川の右岸を下ってゆくと左の堤に観音堂が立っていた。
この付近に引又河岸があったという。
脇に志木市の解説板が立っていた。文化財の保護の意識が高いようだ。
丁寧な解説はとても勉強になる。
堂の中、左から
馬頭観音立像 明和6(1769)独特の「馬口印」を結んでいる。
その姿は九字を切る忍者に似ているような気がした。光背左に年号を刻む。
右に施主として星野氏の名前が刻まれている。
真ん中
聖観音立像 元禄10(1697)上部に梵字「サ」光背左に年号。光背右
「奉造立観世音菩薩午□安全迎所」どういう意味だろう?左下に引又村。
右
馬頭観音坐像。頭の後ろの大きな日輪光背が印象的だ。風化が進み
顔立ちなどもはっきりしないがなぜか惹かれるものがある。塔の右側面
一部が読めないがこちらにも星野氏の名前があった。
中道子育て地蔵 志木市本町6-24-32
県道113号線
柏町5丁目交差点から南に入り50mほど進むと左手角に小堂がある。
中には大きなお地蔵様が祀られていた。
地蔵菩薩立像
正徳5(1715)像だけで2m近く、台も含めると3mほどだろうか。
蓮台の下の台の正面
中央は上部が削れているが「奉造立地蔵菩薩」と思われる。
両脇には造立年月日が刻まれていた。
台の右側面には導師とあり僧名が刻まれている。
台の左側面
中央に武州新座郡舘村 右脇 為二世安樂 左脇 施主中とあった。
当時これだけの大きな地蔵像を作るのは、やはり大変だっただろう。
西川地蔵堂 志木市本町3-2-28
柳瀬川と新河岸川が合流するあたり、かつての「引又河岸」市場坂上交差点から
志木駅方面へ向かう本町通りは、かつてかなり栄えた宿場町だったということで、
現在でも数軒の古い商家が残っている。この本町通り
本町3丁目交差点の50m北、
東側路傍に真新しい小堂があり、ここにも大きなお地蔵様が祀られていた。
地蔵菩薩立像
正徳5(1715)やはり像が2mあまり、台を含めると3mほどになる。
かなり古いものだが美しい状態を保っている。
蓮台の下の台
正面中央に「奉造立地蔵尊為頓證菩提也」右脇に武州新座郡引又邑
左脇に
施主は西川四郎左衛門。これだけの地蔵菩薩像を個人で造立したというと
相応な財力はもちろんのこと、厚い信仰心をあわせ持っていたということだろう。
台の左側面には年号。中道の子育て地蔵尊と同じ正徳5年の造立である。幸町の
「大塚延命地蔵尊」(2015.05.27の記事)も同じ正徳5年の造立だった。この地域で
三体の大型の地蔵像があいついで造立されたのはなにか理由があるのだろうか?
本町薬局前 志木市本町2-4-43
本町通り
市場坂上交差点と本町1丁目交差点の真ん中付近、道路東側に「薬舗」
という看板を掲げた朝日屋原薬局がある。明治大正期に栄えた薬局の典型として
母屋、土蔵など建築物が国の登録文化財になっているらしい。店先の道路脇に
角柱型の大きな石塔が立っていた。
それぞれの面に大和田町、浦和町、與野町など近隣の町への里程が刻まれていた。
続いて膝折村、大井村、川越町。裏面を見ると明治44(1911)の建立。塔の前後に
埼玉縣
志木市とある。行政がこれを作ったとすると、市内、県内の違った町にも
同じような道標がある可能性もあるが、ちょっと記憶にない。