大相模西地区の石仏

 

谷古田用水路取水口付近路傍 越谷市西方1


元荒川の近くにある越谷市役所の西の道路を南に向かい、川の流れに沿って道なりに進むと道路はゆっくりカーブして東へ向きを変える。しらこばと橋の南で県道115号線を横切りその先は大相模不動尊(大聖寺)の前を通り、やがて中川に架かる吉川橋を越えて吉川市内に至る。この道路は古くは県道52号線で「吉川県道」と呼ばれていたようだが、のちに南のほうにバイパスができてそちらが県道に指定され、旧県道のほうは市道に降格されたらしい。越谷レイクタウン周辺は新しい街で石仏は見られず、大相模地区の石仏はこの旧吉川県道に沿って見てゆくことになる。

さて、しらこばと橋の200mほど西、旧県道の南側の角のところに谷古田用水路の取水口があり、その近くの歩道のところに石塔が立っていた。脇に解説板が見える。


懇切丁寧な解説である。本来ならうまく読めない文字もこの解説のおかげで読み取ることができた。


庚申塔 享保8(1723)角柱型の石塔の正面 梵字「ウン」の下「庚申講中」両脇に造立年月日。その下に10名の名前が刻まれている。下部の丸い穴は何のためのものだろうか?


塔の左側面 これより左 吉川へ壱里 大さかみ内、その脇に これより右 市川まで五里。風化で塔の表面は多少デコボコしているが、彫りが深いためか文字はしっかりと残っている。


右側面には これより上 ぢおんじ三里はん。裏面には歌が刻まれていた。

 

閻魔堂橋脇遊歩道 越谷市相模町1-102


旧吉川県道は県道115号線を横切り右手に八条用水を見ながら進み、やがて八条用水とは離れて緩やかに左にカーブし吉川方面に向かう。相模町の石仏はこの旧吉川県道に沿って多く見られるが、八条用水の周りにもいくつか墓地などもあり、まずはこちらから見てゆくことにする。しらこばと橋交差点から八条用水沿いの道を500mほど進むと、閻魔堂橋の交差点の南西角の遊歩道の隅に石塔が立っていた。


庚申塔 文政10(1827)駒型の石塔の正面 日月雲の下に「青面金剛」


二段になった上のほうの台の正面 だいぶ風化が進み摩耗しているが、岩の間に三匹の猿が座るというあまり見たことのないユニークな構図の三猿が彫られている。これも江戸時代後期特有の「自由な三猿」と言えるだろう。


塔の右側面 西 ぢおんじ のじま、こしがや。北 ふどうそん。下の台の右側面 右端に西方村 山谷村とあり、その下に二十人近い人々の名前が刻まれていた。


右側は住宅のブロックとの隙間が狭くて、何回かトライしたが写真はうまく撮れない。塔のほうには南 草加 江戸 道。台のほうはうまく見えないが、右側面同様に人の名前が刻まれているようだ。

閻魔堂墓地 越谷市相模町1-108


閻魔堂橋の交差点から南に入るとすぐ左手の路地の奥に墓地があった。比較的最近整備されたものようだが堂宇は見当たらない。ここに閻魔堂があったらしい。奥のほうに石仏が整然と並んでいる。後列左側に庚申塔が見えるが、前列に六地蔵菩薩立像と中央にその主尊と思われる地蔵菩薩立像が並び、下部は見えにくいようだ。


後列の左端 庚申塔 宝暦9(1759)駒型の石塔の正面 合掌するこわもての青面金剛立像を浮き彫り。像自体に汚れが少なくはっきりした彫りなのだが、何かがおかしい・・・塔の左側面には造立年月日が刻まれている。


塔の右側面「奉供養庚申待二世安樂所也」この六臂の青面金剛像、なにがおかしいのか?第2手の左手に法輪を持つ。これは普通だが、そこに法輪らしい彫りが施されていないため、まるでせんべいでも持っているかのように見える。また、第3手左右には普通は弓矢を持つが、ここではそれが欠けていて、左手の本来矢があるところを赤い色で線が引かれているだけだ。遠目には矢のようにも見えるが・・・さらに、上部には日月を彫るものだが、ここでは全くその形跡もない。


足元に邪鬼と三猿が彫られているが、三猿はそれなりの仕事がされているのに対して、邪鬼のほうはのっぺらぼうに目鼻だけという、なんだか投げやりな状態である。資料では弓矢がないことと法輪の状態から考えて「未完成の庚申塔」としているが、そう判断するのが妥当だと思われる。施主名などが見られないことから、仕事途中、何らかの事情があって注文がキャンセルされたというようなことがあったのだろうか?いずれにしてもこのような状態のものを見たことはなく、ある意味貴重なものといえるだろう。


その隣 庚申塔 明和7(1770)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。


青面金剛の足元に仏頂面をした邪鬼がうずくまる。そのお尻の脇に雄鶏が彫られている。線刻されたもの、半浮彫りのもの、本格的な彫りのもの、二鶏もいろいろあるが、このように外を向いて彫られているのはかなり珍しいと思う。その下にはしっかりした三猿が彫られていた。


3番目 庚申塔 享保7(1722)駒型の石塔の正面日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。頭には蛇が巻き付く。両脇に造立年月日が刻まれている。


下部は見にくいが正面向きでM字型に腕を張る邪鬼。その下に大きめな三猿。さらにその下の部分にひらがなで13名の名前が刻まれていた。

 

山野自治会館前墓地 越谷市相模町1-128


県道49号線日光街道から県道52号線に入り東に進む。葛西用水を越えて100mほど先を左折すると突き当りに墓地があった。道路を隔てた向かいに山野自治会館がある。墓地の入り口近くには小堂が立ち、その奥に宝篋印塔が見える。


小堂の中、手前に二基、奥に一基の石塔が並んでいた。


左 地蔵菩薩立像 正徳4(1714)舟形光背の上部に梵字「カ」頭の後ろには円形の頭光背。右脇に「念佛講二十二人」その下に願主 個人名。左脇に造立年月日が刻まれている。


右 十三仏供養塔 安永5(1776)角柱型の石塔の正面 上部に虚空蔵、その下に勢至、阿弥陀、阿閦、大日。その下の段に地蔵、弥勒、薬師、観音。さらに不動、釈迦、文殊、普賢と十三仏の名前を刻む。両脇に造立年月日。右下に講中とあり、左下には願主 個人名が刻まれていた。


後 不動明王立像。銘を確認することはできず詳細は不明。右手に剣、左手に羂索を持つ。風化のため炎の光背は一部破損が見られ、顔などの様子はよくわからない。

その奥に宝篋印塔 寛延2(1749)屋根型の笠を持つ。


基礎部三面に願文が刻まれている。最後の面 武州埼玉郡西方村 大徳寺現住快眞。資料ではこの墓地を大徳寺墓地としているが、この銘もそれを裏付けるものだろう。続いて造立年月日。最後に施主は個人名が刻まれていた。




宝篋印塔の周りに石塔が並んでいる。東側に数基。風化が進み状態はあまりよくない。


左端 庚申塔 寛政11(1799)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。白カビが目立つ。塔の右側面に造立年月日。


近づいてみても細部はおぼつかない。ショケラはかなり大きい。足の両脇にかすかに二鶏が見える。邪鬼は両手両足を折ってうずくまっていた。


台のすぐ前に大きな石が置かれていて台の正面が見えない。資料で見ると烏帽子をかぶり御幣、桃果を手にした着衣の三猿が彫られているらしい。ユニークな三猿だけに見ることができず残念だ。台の両側面にはそれぞれ十数名の名前が刻まれていた。


中央付近 庚申塔 寛政9(1797)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。これも白カビが多い足元に邪鬼と三猿を彫る。


さらに近づいてよく見てみると、左の言わ猿は左手で口を押え右手には桃果を持ち、右の見猿は左手だけで両目を覆い右手に日の丸模様の開いた扇子を捧げ持っていた。岩槻でよく目にした「自由な三猿」と同じ系統の石工さんの仕事だろうか?時期的にも重なるようだ。(2017.05.24の記事「自由奔放な猿たち」参照)


塔の右側面に造立年月日。その脇に願主當所 秋山利助。左側面 こちらも願主當所とあり 秋山平左衛門。親戚だろうか?


右端 光明真言・名号供養塔 明和5(1768)二段の台の上、角柱型の石塔の正面「奉唱満 光明真言 彌陀宝号 供養」塔の右側面に造立年月日。


上のほうの台の四つの面にたくさんの戒名が刻まれていた。


宝篋印塔の南に石橋 敷石供養塔 文化14(1817)角柱型の石塔の正面 梵字「ウン」の下「石橋 敷石 造立供養塔」塔の下部は前に置かれた線香立てのために正面からは見えない。


塔の右側面に造立年月日。左側面には武州埼玉郡忍領東方出産願主と刻まれている。


墓地の奥のほうにもいくつか石塔が並んでいた。

中央付近 阿弥陀如来立像 寛文9(1669)大きな舟形光背の上部に梵字「キリーク」その下に阿弥陀如来立像を浮き彫り。光背右脇「念佛為講中」左脇に造立年月日が刻まれている。

 

馬頭橋北路傍 越谷市相模町2-213


八条用水の閻魔堂橋の次の橋は馬頭橋になる。橋の交差点の北東の角、住宅のブロック塀の前に大きな石塔が立っていた。写真右に見えるのが馬頭橋、その先の並木道が八条用水右岸の遊歩道、正面の道は八条用水左岸沿いの自動車道である。


正面に馬頭観音立像を浮き彫りした角柱型の石塔の上に不動明王坐像が載る。豪華な組み合わせともいえるが、両者の間に積極的な関係性は考えにくい。この石塔は地元では「ばとかんさま」と呼び、目の前の橋が「馬頭橋」である。不動明王像はあとから載せられたものかもしれない。


炎の光背の前に座る不動明王。右手に剣、左手には羂索を持つ。光背上部は風化のために欠けていて、途中には斜めに断裂跡が残っていた。


馬頭観音塔 明和7(1770)角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中に三面六臂の馬頭観音立像を浮き彫り。頭上に馬頭がくっきり。馬頭観音の顔はつぶれていてはっきりしない。


塔の右側面「奉納為二世安樂」右脇に草加迄二里、左脇に越ケ谷迄十二丁。下部には武蔵下総 馬喰講中。馬喰だけの講とは珍しい。続いて當所 願主とあり一名の名前が刻まれていた。


左側面には 是より左 不動尊道。その両脇に造立年月日が刻まれている。

福寿院墓地 越谷市相模町7-221前
馬頭橋から北へ向かい旧吉川県道に出たあたりに相模町郵便局がある。そのすぐ東を北に入り、またすぐ先を左折して西に向かうと、道路北側に墓地があった。入り口付近、六地蔵の小堂の左に石塔が並んでいる。


二基の馬頭観音の文字塔と青面金剛像庚申塔。その後ろの自然石の石塔は「青面金剛上師十誓願」青面金剛の十の御利益を記したもので、裏面に天保9(1838)の銘が刻まれていた。


左 馬頭観音塔 。紀年銘が確認できず詳細は不明。駒型の石塔の正面 梵字「カン」の下「馬頭觀世音」塔の左側面に藤塚 紺屋長吉。藤塚はこのあたりの字のようだ。


右 馬頭観音塔 天保5(1834)駒型の石塔の正面に「馬頭觀世音」その右脇に造立年月日。両側面には銘が見られない。


その後ろ 庚申塔 明和9(1772)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。前の二基の馬頭観音塔で下部が隠れ、正面から塔の全体を写すことはできなかった。


二基の馬頭観音塔の間から広角レンズを使って下部を撮った一枚。青面金剛の足の両脇に二鶏。雄鶏の尾羽がなかなか見事。邪鬼は頭を左に脱力している。その下に三猿。一部は土の中のようだが、何とか確認はできる。


塔の右側面 上部に造立年月日。その下に山谷 講中 藤塚 とあり、さらにその下に三人の名前が刻まれていた。


左側面にはおつや、おぎん、おりま などひらがな三文字の名前が四つの段に渡って刻まれている。女性が中心の講中なのだろう。

墓地の中に入ってゆくとその中央付近に宝塔と石地蔵が並んでいた。


地蔵菩薩立像 天明8(1788)舟形光背、梵字「カ」の下に錫杖と宝珠を手にした地蔵菩薩立像を浮き彫り。光背右脇「奉造立地蔵菩薩像」左脇に「日本廻國供養」その下に圓戒法師。さらにその脇に小さく造立年月日が刻まれている。


台の正面は線香立てのために読めない。左側面には世話人とあり8名の名前が刻まれていた。

 

十一面観音堂 越谷市相模町6-381付近


旧吉川県道をさらに東へ進む。大聖寺の150mほど西の道路北側、住宅と商店の間の路地の奥に十一面観音堂の入口がある。路地は狭く意識して探さないと気づきにくい。「十一面観音堂」の表札のかかった門柱の奥にお堂が見える。門柱の右脇に一基正面向きの石塔、参道右側に数基の石塔が整然と並び、参道左側には小堂が立っていた。


門柱右脇 庚申塔 寛政10(1798)角柱型の石塔の正面 日月雲「清明金剛」「青面」を「清明」としたのは誤字というよりも言葉遊び、洒落ではないだろうか?両脇に造立年月日。下部に三猿が彫られている。


塔の右側面に「新坂東五番」寺標でもあったようだ。塔の左側面には11名の名前が刻まれていた。


参道右側に並ぶ十基の石塔。右端の板碑型の石塔は個人の墓石。残りの九基の石塔はそれぞれに趣が違っていてバラエティに富んでいる。


右から2番目 文字庚申塔 安永7(1778)角柱型の石塔の正面 日月雲「庚申塔」全体に風化が進んでいて一部剥落も見られる。塔の両側面に造立年月日。左側面下部に4名の名前が刻まれていた。


その隣 文字庚申塔 嘉永3(1850)角柱型の石塔の正面 日月雲「青面金剛」塔の右側面は無銘。左側側面に造立年月日。資料によると塔の下には正面に三猿を彫った大きな台がついていたようだが、写真の通り、現在はその台を見ることはできない。


続いて六観音供養塔 享保17(1732)上両隅を丸くした角型の石塔の正面を彫りくぼめて、上部に梵字「サ」その下に「奉造立六觀世音為二世安樂攸」両脇に造立年月日。下部にいくつか名前があるようだがうまく読み取れなかった。


右から5番目 地蔵菩薩を主尊とする庚申塔 享保9(1724)背の高い駒型の石塔の上部に地蔵菩薩立像を浮き彫り。残念ながら顔のあたりは破損している。塔の中ほどに輪廻車の四角い穴が開いていた。輪廻車付きの地蔵御菩薩像塔は時々目にする。与野本町の正圓寺、富士見市大久保の車地蔵、越谷市平方の観音堂など、このブログでもいくつか取り上げた。


塔の下部中央に「奉供養庚申待為二世安樂也」両脇に造立年月日。下部両脇に講中 十五人敬白と刻まれている。


その隣 庚申塔。紀年銘が確認できず造立年月日は不明。駒型の石塔の正面日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。


下部は線香立ての陰で見にくい。ブルドッグ脳央な顔の邪鬼がうずくまり、その下に三猿が彫られているが一部は土の中に埋まっているようだ。


塔の両側面には おしげ、おかん、など合わせて20名ほどのひらがなの名前が刻まれている。女人講中と思われるが、越谷市ではこのような女人講中による庚申塔がかなり多いようだ。


続いて三猿庚申塔 宝永6(1709)駒型の石塔の正面を彫りくぼめて、梵字「ウン」の下「「奉供養庚申待為二世也」両脇に造立年月日。右下に同行十四人、左下に願主敬白。塔の最下部に三猿が彫られていた。


その隣 十九夜供養塔 元禄12(1699)舟形光背の前に二臂の如意輪観音坐像を浮き彫り。光背右脇「為十九夜念佛供養二世安樂也」左脇に造立年月日。さらに西方村 同行卅三人。月待塔の中でも十九夜塔はそのほとんどが女人講、念仏講によるもので、如意輪観音の刻像塔が多いということだ。


左から2番目 地蔵菩薩立像 宝永7(1710)舟形光背、梵字「カ」の下に地蔵菩薩立像を浮き彫り。


全体に白カビがこびりつく中、右脇に「為覺心禅門堂寮開也」左脇には造立年月日が刻まれている。


左端 一石六地蔵塔 万治3(1660)江戸時代初期らしく板碑型の石塔の正面、阿弥陀三尊種子の下に六体の地蔵菩薩立像を浮き彫り。右縁に「奉念佛供養男女四拾三人」左縁に造立年月日が刻まれていた。


参道左側の小堂の中に六地蔵。その脇に角柱型の石塔。と思っていたら・・・


小堂の中の六体の石仏。右から3番目は如意輪観音坐像だった。右端の石仏はお地蔵様らしくない忿怒の相。その隣の石仏は右手は与願印とこれもお地蔵様らしくない。寄せ集めと言わざるを得ないが、ここに集められたその経緯はわからない。


小堂の左脇 文政2(1819)角柱型の石塔の正面 大きく「敷石供養塔」その両脇に造立年月日。


右下には新方領増林村産とあり続いて願主2名、さらに世話人とあり、その下に5名の名前が刻まれていた。

 

大聖寺 越谷市相模町6-442


元荒川のしらこばと橋の次の大きな橋は「不動橋」で北が東越谷になる。橋南の交差点の西に大相模不動尊 大聖寺がある。旧吉川県道に向かって立つ立派な山門は文化元年(1804)建立のもので、越谷市の有形文化財に指定されている。山門から本堂まで長い参道が続いていた。


本堂近くに新名所?「大相模ぴんころ地蔵尊」平成23年に奉納されたという真新しい石地蔵。


本堂脇に「なでぼとけ」おびんずる様。以前、川口市西立野の西福寺で見た記憶がある。


本堂右側 鉄柵に囲まれて大きな宝篋印塔 元文3(1738)が立っていた。江戸時代中期らしく屋根型の笠を持つ。


基礎部に造立年月日。武州崎玉郡大相模村眞大山大聖寺別當法印英山の銘が刻まれれていた。


本堂のまっすぐ東に東門がある。ここから本堂までの参道は通称東門通と呼ばれ、この参道沿いに多くの古い石仏を見ることができる。


東門右脇 道標 文久2(1862)角柱型の石塔の正面上部を四角く彫りくぼめた中に不動三尊を梵字であらわし、その下に是より 大さがみふどうそん 十三丁。塔の右側面に造立年月日。左側面に「天下泰平 國土安穏」と刻まれている。


門をくぐり境内に入ると参道の左右に多数の同じような大きさの文字庚申塔が並んでいた。天保9(1838)に奉納された「百庚申」で、当時のものが現在でも97基残っている。資料によると平成16年に現在のご住職が3基の庚申塔を造立して今は本来の100基になったという。


参道右、百庚申の奥にも多くの石塔が立っていた。


まずは三猿庚申塔 寛文7(1667)江戸時代初期に特徴的な板碑型石塔。下部には大きな蓮華とその蕾が彫られている。


正面中央に素朴な三猿を彫る。上部に梵字「ウン」その下「庚申待講中 奉供養 為二世安樂」両脇に造立年月日。三猿の下の部分に10名ほどの名前が刻まれていた。


続いて大きな台の上に庚申塔 天保10(1839)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。


若干のカビはみられるものの堂々たる立ち姿は圧倒的。逆立つ髪の真ん中には蛇がとぐろを巻き、ドクロの首飾りをした三眼忿怒相の青面金剛は大きなショケラをぶら下げている。日月雲から青面金剛の足元まで、彫りは細かく緻密で江戸時代後期らしい雰囲気が漂う。


邪鬼、三猿、二鶏は三段に分かれて彫られていた。獅子のような髪をした邪鬼はうずくまりながらも顔だけを上に向け青面金剛を見上げている。その下の段の三猿は手足の指の先までも丁寧な彫りで猿の体温まで伝わってきそうだ。右の見猿は御幣をかつぎ、左の言わ猿は桃果を持っていた。さらに最下段の二鶏が他に例を見ないほどの力作で、その構図も動きがあって面白く、トサカ、尾の先まで細かく表現されていて、この面だけでも一幅の絵を見ているようだ。



塔の右側面に造立年月日。左側面に「天下泰平 國土安穏」


二鶏の彫られた台の右側面 當村町内組講中とあり20名ほどの名前が、左側面に7名の名前が刻まれ、続いて世話人6名、最後に関八州石工司子孫 草加宿神流斎 青木 宗義と石工名があった。どこかで見た記憶があったのでさかのぼって調べてみると、川口市江戸袋 東光院の六地蔵の石工と同じ石工だった。(2015.04.14の記事)


その奥には一対の大きな石灯籠 寛政9(1797)が立ち、周りに多くの石塔が並んでいる。


右の台の正面には仔馬とそれを気遣いながら一緒に駆ける親馬が彫られ、その下の台に馬口中?これはどうもはっきりしない。


左の台の正面にものんびり走る仔馬が彫られ、その下の台のほうには「連中」こちらは普通に読めた。


石灯籠の裏 右に弁才天塔 天保3(1832)正面に「江ノ嶋辯才天」左には馬頭霊神塔 嘉永4(1851)正面に「馬頭霊神」これは初めて見る。江戸時代後期になると馬頭観音が本来の意味から離れて馬の供養のためのものとなってゆくが、観音菩薩=仏に対して、神道系の「馬頭霊神」が考えられたのだろうか?


石灯籠の西側 四基の馬頭観音の文字塔が集められている。右から2番目は天保年間の馬頭観音塔。残りの三基は明治期のものだった。

 


東門通り参道左側、百庚申の先にも多くの石塔が並んでいた。


庚申塔 享保4(1719)四角い台の上、駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。白カビと苔のために薄く緑がかった塔の表面はあまりはっきりしない。下の台の正面には9名の名前に続いて東光院、智性院と刻まれている。


ずんぐりした邪鬼が頭を右にしてうずくまり、その下に三猿。右下に「奉供養庚申待為二世安樂也」左下には造立年月日が刻まれていた。


その隣 庚申塔 天明3(1783)駒型の石塔の正面 梵字「ウン」の下「青面金剛」


塔の右側面に造立年月日。左側面には四段に18名の名前が刻まれている。


続いて普門品供養塔 文化6(1809)大きな台の上、角柱型の石塔の正面 梵字「サ」の下に普門品讀誦二十万巻餘供養塔」両脇に天下泰平 國土安穏。


塔の両側面に願文。裏面に造立年月日。続いて現住光瑛代立と刻まれている。


下の台の四つの面には細かい字でおびただしい数の人の名前が刻まれていた。台正面には東方村から始まって千疋村、四条村など近隣の村が並び、他の三つの面にもあわせて50余りの村の名前を見ることができる。


その先の聖天堂の裏、大きな基壇の上に庚申塔が立っていた。手前両脇に猿を従えているが、三猿というわけでもなく、ここが不動信仰の本場だけに不動三尊に倣って三尊形式をとったものだろうか。


庚申塔 天保9(1838)青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂か?近づいてみると全体に破損個所が多く、ところどころ剥落が見られる。残された部分の彫りが細かく美しいだけに、青面金剛の顔、邪鬼の体などが大きく欠けているのは惜しい。


台は二段になっていて上の台の正面に三猿が彫られていた。「自由な三猿」らしく左の猿は左を向き、中央の猿は右手をついて座り込み、右の猿は後ろ向きで頭をそらしているようだ。


塔の右側面に造立年月日。左側面に大きな字で「百庚申供養」参道両脇の百庚申の「親庚申塔」なのだろう。この庚申塔も百庚申と同じく大聖寺の北の土手道のほうにあったもので、大聖寺の伽藍の火災、関東大地震に遭いはなはだしい破損を受けたものを、元荒川河川工事を機に、平成三年に当地に移設したものだという。


下の台の正面は剥落が著しく、銘は確認できない。左右両面にはかなり広い範囲の村々の多くの人たちの名前が並んでいる。さらに裏面には世話人四人の名前に続いて越ケ谷宿住人とあり石工 小嶋長兵衛作と刻まれていた。


脇侍?の猿のほうには紀年銘が無く、後ろの庚申塔と同時に奉納されたものか確証はないが、雰囲気はよく似ていてセットのものと考えたいところだ。それぞれの台の正面に「庚申」「供養」と刻まれている。


さらに進むと左手の築山の上に鐘楼が立ち、その北のふもとに多くの石塔が並んでいた。ここまで来ると本堂も近い。


左端 百堂供養塔 貞享2(1685)角柱型の石塔の正面「奉供養百堂石灯籠 一基」該当する石灯籠は確認できなかった。塔の左側面に造立年月日。右側面には武州大相模西方村願・資料によると最後は「願主」となるが現在は土の中に埋もれている。


その隣 やや小型の宝篋印塔 安永4(1775)屋根型の笠を持つ。


次は左 不動三尊の脇侍 制吒迦童子。主尊の不動明王像と矜羯羅童子像は見当たらない。銘も確認できず詳細は不明。


右の石塔は初めて見る。自然石の正面 卍の下の象形文字は「亀」なるほど、そんな感じがする。右脇に鶴は千亀は萬歳。左脇に歌が刻まれている。紀年銘は見当たらなかった。


続いて 不動三尊像。中央に不動明王立像。両脇に矜羯羅童子と制吒迦童子。小堂の中ではよく見るが屋外でこのような形で並ぶのは珍しい。


炎の光背の前に立つ不動明王。カビが所々に見られるものの彫りはきれいに残っている。下の台の正面に安永3(1774)の銘があるが、資料では台はこの石塔の本来のものではないとされていた。


その隣 敷石供養塔。自然石の正面「東門通 垢離取場 敷石供養塔」この東門通りの敷石を奉納したときに造塔されたもののようだ。これも紀年銘が見当たらない。この先には本堂再建時にされた寄附の記念碑が四基並んでいる。