南区沼影

沼影観音堂 南区沼影1-6-30[地図]


JR武蔵浦和駅の南を通る「田島通り」を西に進むと、250mほど先の信号交差点の右手前に沼影観音堂があった。参道の先、幟立ての向こうに観音堂。入口両脇に大きな二基の丸彫り重制が立っている。


入口右脇 地蔵菩薩塔 享保17(1732)重厚な敷茄子、蓮台の上に丸彫りの地蔵菩薩立像。錫杖の先を欠き、首に補修跡があるが、彫りはきれいに残っていて、尊顔は峻厳、堂々たる佇まいはやはり享保期の地蔵菩薩塔らしい。


石塔の正面に「三界萬霊」右側面に造立年月日。左側面に天下泰平、國土安穏。


裏面にも銘があった。右から 信州善光寺浅草観世音。中央に「奉納四十八度供養」左に武刕足立郡沼影村。さらに願主一名の名前が刻まれている。


入口左脇 正観音菩薩立像 元文4(1739)左手に未敷蓮華を持ち、右手は一部破損しているが与願印。


塔の正面「一切供養」左側面に造立年月日。右側面には武州足立郡笹目郷。続いて願主二名の名前。さらに施主 村中。裏面には偈文が刻まれていた。


聖観音塔の裏、東向きに庚申塔 宝永5(1708)大きな角柱型の石塔の上に青面金剛像付きの四角い台が乗る。


角柱型の石塔の正面、梵字「ア」の下に「奉造立庚申像爲二世安樂也」両脇に造立年月日と願文。下部に施主9人の名前。右側面に武蔵國足立郡笹目領沼影村と刻まれていた。


四角い台の上の青面金剛は蛇冠、釣り目で口をへの字にした忿怒相。たぶん六臂と思われるが、合掌手以外は破損、右上の手に棒のようなものを持っているように見えるがこちらも判然としない。台の正面に頭を右にした邪鬼が横たわり、その下に三猿が彫られている。


一見坐像に思える青面金剛だが、台の上にあぐらを組んでいるのではなく、ただセメントで接着した形、腹部から下は確認できなかった。断裂した立像の上の部分を角柱型の石塔に乗せたのではないだろうか。


続いて三基の馬頭観音の文字塔で明治28年、明治41年造立。いずれも施主は個人だった。


その先の小堂の中 丸彫りの六地蔵菩薩立像 宝暦9(1759)お世話するかたがマメなのだろうか、季節季節でいつも目新しい衣装。この冬はマフラーを巻いていた。


左端の台の正面に造立年月日。さらに願主二名の名前。続く二基は「講中」とあり、その下に数名の名前。


右の三基。右端には戒名と命日が、残りの二基はやはり「講中」その下に数名の名前が刻まれている。


小堂の右脇 地蔵菩薩立像 明和4(1767)こちらはビニール傘をさしていた。


厚い衣装に覆われ露出部分がほとんどないが、尊顔はふくよかで慈愛に満ちている。


台の正面 梵字「カ」の下に「十方施主二世安樂」その両脇に造立年月日。左側面に願主一名の名前。右側面に沼影村と刻まれていた。



参道を進むと、右側に石塔が三列に並んでいる。前の二列は西向きに立っていた。多くは墓石だが、その中にもいくつか見るべき石仏がある。


真ん中の列の右から2番目 正観音菩薩立像 元禄10(1697)舟形光背に左手に未敷蓮華を手にし左手与願印の聖観音像を浮き彫り。全体に白カビが厚くこびりついていた。光背右脇「念佛供養爲十六村菩提」左脇に造立年月日。その下に沼影村 願主 念心と刻まれている。


1列目と2列目の間の突き当り、南向きに馬頭観音塔 弘化5(1848)角柱型の石塔の正面 梵字「ウン」の下に「馬頭觀世音菩薩」両脇に造立年月日が刻まれていた。


その隣、2列目と3列目の間の突き当りに敷石供養塔 安永4(1775)角柱型の石塔の正面 梵字「ア」の下に「觀音堂敷石建立供養塔」両脇に十方施主 有無兩縁。下部両脇に沼影村中。


塔の左側面に造立年月日。右側面に供養石施主とあり二名の名前。その下には願主とあり四名の名前が刻まれている。


3列目の石塔は東向きに立っていた。突き当りに庚申塔の文字塔。さらにその先の石塔の中に宝篋印塔が見える。


まずは弘法大師四国移霊場標石 天保5(1834)角柱型の石塔の正面に大きく「弘法大師」塔の右側面に造立年月日。左側面に伊豫國八坂寺移 第四十七番。その下に沼影村 遍照院と刻まれていた。


墓石を挟んでその先に出羽三山百観音供養塔 天保6(1835)角柱型の石塔の正面「月山 湯殿山 羽黒山 坂東 西國 秩父 供養塔」右側面に造立年月日。左側面中央に「正觀世音」右上に足立坂東十二番、下部に沼影村 廣田寺。沼影観音(廣田寺)は足立坂東三十三ヶ所霊場の12番である。


突き当りに南向きに庚申塔の文字塔。角柱型の石塔の正面「庚申塔」「塔」のあたりに断裂跡があり、かなり傷んでいたものらしい。倒れないように両脇をあらたに補強されていた。


塔の左側面 西 あきがせ ひきまた □。最下部は隠れている。


右側面は一部剥落、東 □らハ □□び。うらわ、わらびと思われる。紀年銘は見当たらず造立年などは不明。


観音堂近く、右手前に宝篋印塔 宝永7(1710)隅飾型の笠と発達した相輪を持つ。基礎に97文字の偈文。基礎正面に造立年月日。左脇に沼影村念佛講中と刻まれていた。


参道左側、観音堂の手前に「いぼ地蔵堂」が「立っている。その裏から奥が広い墓地になる。

観音堂の近く、卵塔などの多くの墓石が並ぶ中に念仏供養塔 享保14(1729)舟形光背に合掌する地蔵菩薩立像を浮き彫り。光背右脇に「念佛供養法界普潤」左脇に造立年月日。


さて、前回までは気が付かなかったのだが、地蔵堂の裏にご覧のような石塔の残欠が並んでいた。こちらは酒井さんの石仏ノートに載っていて、川口市の石仏愛好家Yさんが発見したものだという。


左は頭部と足元の部分が欠けた丸彫り像の胴体部分。体の前で合掌していて、腰のあたりに腕がもげた跡が残っている。青面金剛の六臂像とみて間違いなさそうだ。入口付近にあった重制庚申塔の丸彫り青面金剛像と似ているように思える。


右は腹部あたりから断裂したらしい丸彫り像の残欠。右手に矢を持つ手がはっきりと確認できた。こちらも青面金剛像だろう。左右どちらの像も立像の一部分と思われる。


「石仏ノート」にはもうひとつ、庚申塔の台石があるということで探してみると、こちらは入口近くの三基の馬頭観音文字塔の左端の裏、草の中に隠れるように置かれていた。


裏に回ってみると、上部に足の跡らしきものが見え、その下に頭を右にした邪鬼、さらにその下には正面向きの三猿が彫られている。


両側面の下部にそれぞれ鶏が浮き彫りされていた。地蔵堂の裏のどちらかの青面金剛像の台だったのだろう。丸彫りの青面金剛立像は大変珍しいものだが、ここには三基の丸彫り青面金剛立像の庚申塔があったと考えられる。

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観音堂の裏には沼影自治会館がある。その敷地内に祠が立っていた。


祠はいつも鍵がかかっている。格子越しにのぞいて見ると一石に七体の坐像が彫られていた。確認はできなかったが左側面に造立年月日、右側面に庚申供養沼影村廣田寺と刻まれているという。元禄14(1701)造立、七仏を主尊とする江戸時代初期の庚申塔ということになる。


石塔の下部、中央は猿で、両脇はどうやら狛犬らしい。他に類を見ない珍しい庚申塔と言えるだろう。