川崎・向畑の石仏

 

聖徳寺 越谷市北川崎18


県道102号線の新方小学校交差点から東に向かう道はゆるやかに右にカーブしてやがて堂面橋で古利根川を渡り松伏町へ抜けてゆく。新方小学校から500mほど進むと、道路左側に聖徳寺の入口があった。長い参道の奥に山門と本堂が見える。


入口から20mほど、参道左脇に普門品供養塔 天保9(1838)角柱型の石塔の正面 梵字「サ」の下に「普門品供養塔」二段の台の上のほう、正面に大きく「講中」と彫られていた。


塔の右側面に造立年月日。左側面は狭く写真は撮れないが、新方領川崎村と刻まれている。


正面に「講中」と彫られた台の右側面には16名の名前、右側面にも15名の名前が刻まれていた。


さらに奥へ進むと、参道右脇に小堂が立っていた。


小堂の中 地蔵菩薩立像。舟形の光背の縁はデコボコ、像も風化が著しく、銘などは確認できない。資料によると、お地蔵様に塩を供えたり掛けたりしてお参りする「塩地蔵」らしい。塩の作用によって石が溶けてしまうもので、いろいろなところでこのような「塩地蔵」を見かける。

参道を進むと山門の右側に墓地が広がっているが、その手前、参道の右側の一角にたくさんの石塔が集められていた。中央の物置の前、自然石に「三界萬霊塔」と刻まれた石塔が立っている。


物置の右側 前に比較的小さな石塔が三列、後ろは大き目な石塔がこれも三列に並んでいた。


前の三列の一番後ろ 右端に普門品供養塔 寛政12(1800)角柱型の石塔の正面 梵字「サ」の下に「普門品供養」塔の右側面に造立年月日。


こちらが上の段の三列。二列目の右端に馬頭観音塔、三列目の左に唐破風笠付きの回国供養塔が立っている。


馬頭観音塔 文政9(1826)角柱型の石塔の正面に「馬頭觀世音」右脇に造立年月日。左脇に個人名が刻まれていた。


唐破風笠付きの回国供養塔 享保7(1722)正面を掘りくぼめた中 上部に梵字「キリーク」その下に「奉納經日本回國成就供養」両脇に造立年月日。塔の両側面には蓮の花が浮き彫りにされていて、その片隅に銘が刻まれている。右側面に武州埼玉郡新方領川崎村、左側面には「為三界萬霊六道四生等」


物置の左側。前の段、後ろの段、ともに石塔が五列にひしめき合うように並んでいた。隙間なく並んでいるため下部が見にくく、写真もうまく撮れない。


前の段 三列目の左から二番目 庚申塔 宝暦3(1753)正面中央に「庚申講中」その右脇に造立年月日。左脇に武州埼玉郡新方領川崎村。資料によると塔の左側面に十名ほどの名前が刻まれているという。


後ろの段 二列目の左端 馬頭観音座像 寛政9(1797)下の塔部正面「中央還到本国信士」両脇に造立年月日。その上に六臂の馬頭観音坐像が乗っていた。


後ろの段 三列目右から二番目 庚申塔 安永2(1773)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。資料によると塔の右側面に「奉建立庚申供養」左側面に造立年月日が刻まれているとのことだが、現在は両側面とも全く見ることはできない。前の石塔との隙間から覗いてみたら青面金剛の足元に邪鬼の頭が見えていた。


後ろの段 最後列の右から二番目 庚申塔元禄9(1696)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。大きな駒型の庚申塔。目の前の石塔も大型のため下部は見ることができなかった。青面金剛の右脇「奉安置庚申供養」左脇に造立年月日。下部はかろうじて邪鬼の頭が確認できる。


その隣 最後列の右から三番目 大日如来坐像 宝暦4(1754)舟形の光背に胎蔵界大日如来坐像を浮き彫り。下の塔の正面「奉造立湯殿山大日如来」その両脇に造立年月日。最後尾で近づくことはできないが、資料によると塔の右側面に同行とあり、向畑村四人、増林村一人、左側面にも同行とあり、川崎村九人の名前が刻まれているという。

 


物置の周りの石仏群の左の端、通路に沿って七基の文字庚申塔が並んでいた。江戸時代後期の文化3(1806)から江戸時代末期の安政(1858)まで、いずれもよく似通った構成になっている。


右から 庚申塔 天保11(1840)駒型の石塔の正面に大きな字で「庚申」下部に三猿を彫る。


塔の右側面、白カビがこびりつく中 上部に造立年月日。その下に細かい字で10名の名前。左側面上部には川崎村講中、その下に9名の名前が刻まれている。


2番目 庚申塔 天保4(1833)角柱型の石塔の正面を四角く彫りくぼめた中に「庚申」下部には三猿が彫られていた。


塔の右側面に造立年月日。左側面には川崎村講中十九人と刻まれている。


3番目 庚申塔 文化3(1806)駒型の石塔の正面 日月雲の下に雄渾な字体で「庚申」その下に聞か猿を彫る。


塔の右側面 上部に此方少行とあり、その下に西 のみち、北 かすかべ道と刻まれていた。さらに下部には見猿。


塔の左側面 南 こしがやみち。その奥に造立年月日。下のほうに武州埼玉郡新方領川崎村 拾八人講中。こちらの下部には言わ猿。たまに似たようなものを見かけるが、三面に三猿という構成になっている。


4番目 庚申塔 嘉永5(1852)駒型の石塔の正面、日月雲の下にこれも大きな字で「庚申」こちらでは三猿は見当たらない。土の中だろうか。


塔の右側面に造立年月日。その下に9名の名前。左側面には川崎村講中とあり、その下にやはり9名の名前が刻まれていた。


5番目 庚申塔 天保15(1844)角柱型の石塔の正面 日月雲「庚申塔」下部に三猿。


三猿は中央の猿が少し高い位置に座り三角形の構図になっている。


塔の右側面に造立年月日。その下にセハ人とあり8名の名前。左側面には川崎村講中。こちらもセハ人とありやはり8名の名前。


6番目 庚申塔 文政元年(1818)角柱型の石塔の正面、日月雲の下「青面金剛」両脇に天下泰平・國土安全。その下には比較的大きな三猿が正三角形の構図で彫られていた。


塔の両側面に造立年月日。左側面には川崎村講中と刻まれている。


左端 庚申塔 安政5(1858)駒型の石塔の正面 日月雲「庚申塔」中央付近に断裂跡がある。塔の側面は位置的な関係で見ることができないが、資料によると右側面に造立年月日、左側面に川崎村講中、下部にそれぞれ数名の名前が刻まれているらしい。

正面の最下部、泥がこびりついているように見えたが、半ば土に埋もれて小さな三猿が彫られていた。

 

観音堂 越谷市向畑885


聖徳寺の参道の「塩地蔵」の小堂のあるあたりの右側に墓地が広がっている。この墓地は聖徳寺の東隣にある観音堂の墓地だった。入口は聖徳寺の入口のすぐ東になる。


入口右の生け垣の裏に、まるで隠れるように小型の文字塔が立っていた。


庚申塔 文化11(1814)角柱型の石塔の正面 日月雲「庚申」塔の左側面 向畑村。右側面は生け垣に阻まれ見ることはできないが、資料によると造立年月日が刻まれているという。


入口左側、墓地の前に庚申塔。上部を唐破風笠風に彫り出して、その下に日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。側面は荒彫りで造立年などを表すような銘は確認できなかった。


彫りは明快で足の両脇の二鶏もはっきりしている。足元の邪鬼は頭部だけをあらわにし独特な雰囲気。その下の三猿も味があり面白い。


参道を進むと左手の大きなイチョウの木の前に三基の石塔が並んでいた。右奥には唐破風笠付きの六面石幢が見えている。


左 庚申塔 明治2(1869)自然石の正面上部に日月雲を線刻。その下に大きく「庚申」


裏面には歌が刻まれ、左脇に造立年月日が刻まれていた。


中央 地蔵菩薩立像 寛文11(1671)塔の半ば近くが土に埋もれているようだ。江戸試合初期らしくきれいな舟形の光背。梵字「カ」の下に合掌型の地蔵菩薩立像を浮き彫り。光背左脇に造立年月日。右脇に「庚講供養」と刻まれている。寛文期でもあり、地蔵菩薩を主尊とする庚申塔ということになるだろう。下部両脇に数名の名前が刻まれていた。


右 馬頭観音坐像 嘉永3(1850)駒型の石塔の上部に蓮座に座る三面八臂の馬頭観音を浮き彫り。彫りは細かく美しい。下の部分は風化が激しいが、右のほうに造立年月日がかろうじて確認できた。


観音堂近く、墓地の端に六地蔵石幢 享保5(1720)大きな宝珠を持った唐破風笠付きの六面石幢の各面に地蔵菩薩立像を浮き彫り。像の下には地蔵名が刻まれている。


下の台は四面。線香立ての置かれた面には数人の名前が刻まれ、その左の面、中央に「奉造立六地蔵尊為二世安樂」その両脇に造立年月日。さらに向畑村 本願などとあり四名の名前。


次の面は中央に数人の名前。最後の面は大きく破損している中に、ようやっと見えるくらいの状態で文字が確認できるがうまく読み取ることはできなかった。


観音堂の同じ敷地内に薬師如来を祀ったお堂がある。このお堂には観音堂の入り口にのすぐ東にあるもう一つの入口から入ってお参りするようになっている。入口の両脇に二基の石塔が立っていた。


入口左 庚申塔 安永5(1776)駒型の石塔の正面、日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。青面金剛の顔は削れているが人為的なものかもしれない。足の両脇に二鶏。邪鬼は力なく横たわる。最下部に大き目な三猿。


塔の両側面上部に造立年月日。両側面の中ほどにいずれも講中とあり、その下には合わせて十数名の名前が刻まれていた。


入口右 庚申塔 宝暦5(1755)上のほうから七割がた白カビに覆われ、文字は読みにくい。駒型の石塔の正面 梵字「ウーン」の下に「奉□庚申供養為二世安樂也」両脇に造立年月日。下部に敬白と刻まれる。資料によるとその下に三猿とあるが現状では確認はできない。


塔の右側面 講中とあり、新方領向畑村、続いて六名の名前、左側面にも講中とあり六名の名前が刻まれていた。

 

北向地蔵尊 越谷市向畑


堂前の観音堂のすぐ先のT字路を右に入ると古利根川に沿って越谷市街方面に向かう。今にもあふれそうに満々と水をたたえて流れる古利根川。水面に朝の光がキラキラと美しい。県道102号線と合流する少し手前、道路左側の住宅の前に小堂が立っていた。


小堂の中 地蔵菩薩立像 元文3(1738)格子越しにも恰幅の良い大きな丸彫りの石地蔵は頼もし気で、多くの村の人々の暮らしを温かく見守ってきたのだろう。下部は暗く写真は撮れなかったが、台の正面中央には「為三界萬霊有無縁兩等」と刻まれているという。

墓守堂 越谷市向畑677西隣


県道102号線と合流して200mほど行くと、斜め右に入ってゆく道がある。その入り口付近、道路右側に墓地があった。小堂の中に石地蔵が並んでいるのが見える。左の建物には十一面観音が祀れていて、地図で見るとここは墓守堂となっているが資料では十一面観音堂として紹介されていた。


丸彫りの六地蔵菩薩立像。かなり新しい雰囲気だが銘は確認できなかった。その裏に舟形光背型の六地蔵が並んでいる。こちらは風化が進み、それなりに古いもののようだがやはり造立年を表すような銘は見つからなかった。


小堂の左脇に石塔が並んでいる。手前二体の石地蔵は六地蔵の片割れか?その奥の石塔は個人の墓石だった。


続いて普門品供養塔 文化2(1805)角柱型の石塔の正面 梵字「サ」の下「普門品供養」塔の両側面に造立年月日。下の台の正面に世話人、願主含めて13名の名前が刻まれている。


その隣 秩父一番供養塔 寛政5(1793)駒型の石塔の正面上部に光背付きの蓮座を彫りだし聖観音菩薩立像を浮き彫り。その右脇に「秩父一番」左脇に造立年月日。秩父観音霊場一番妙音寺参拝の記念に建立されたものだろうか。像の下に願主2名。さらにその下に21名の名前が刻まれていた。


一番奥に 念仏供養塔 天明元年(1781)上の両隅が丸い角柱型の石塔の正面中央「奉稱念佛壹億萬遍供養塔」一億万遍とはとてつもない数字だ。上部両脇に造立年月日。右下 當村願主、左下に個人名だが、その脇には九十六歳と刻まれていた。時代を考えると驚くほどの長寿である。


十一面観音堂の裏に古い石塔が並んでいる。正面に大きな板碑型の石塔が三基。右端は個人の供養塔だった。


中央 名号塔 万治元年(1658)中央「南無阿弥陀佛為逆修松岩浄宗信士菩提也」上部両脇に造立年月日。中ほどの両脇に渡って嶋村民部。下部に施主敬白。生前、自らの死後の成仏を願い供養する逆修供養塔。


左 名号塔 万治元年(1658)正面中央「南無阿弥陀佛為逆修□岩妙宗信女菩提也」上部両脇に造立年月日。中ほどの右脇に嶋村民部、左脇に内儀。下部に施主敬白。中央の名号塔とともに夫婦がそろってそれぞれの逆修供養塔を建立したもののようだ。江戸時代初期の逆修信仰のひとつの現れといえるだろう。

 

墓守堂向三角地 越谷市向畑


墓守堂の向かいの三角地に石塔が集められていた。写真左の道路は古利根川沿いに越谷市街方面に向かう県道102号線。石塔は右に入る道に沿って並ぶ。


三角地の頂点の位置、南向きに庚申塔 文化2(1805)角柱型の文字塔。塔の正面 日月雲の下「青面金剛」塔の両側面に造立年月日。下の台の正面には三猿が彫られていた。


三猿の彫られた台の右側面 右から武州崎玉郡新方領向畑村。続いて世話人を含め六名の名前。左側面にも七名の名前が刻まれていた。


続いて 普門品供養塔 文久元年(1823)自然石の正面 梵字「サ」の下に「普門品讀誦供養塔」右脇に向畑村講中謹樹、左脇には造立年月日が刻まれている。


その隣 三十六童子供養塔 明治11(1878)自然石の正面に「三十六童子」左脇に落款らしいものが二つ刻まれている。三十六童子とは矜迦羅童子、制叱迦童子をはじめとする不動明王の眷属。塔の裏面に造立年月日が刻まれていた。


石造りの祠の中 不動明王坐像 慶応2(1866)平方から大泊、間久里、船渡、向畑と、各地でこのような江戸時代末期から明治時代に造立された不動明王三尊像を見てきた。この辺りでは当時から不動明王信仰が非常に盛んだったようだ。その中でもこの不動明王三尊像は欠損もなくとりわけ美しい作品といえるだろう。火炎の光背の前に剣と羂索を持つ不動明王が座す。その頭の上のあたりに鳥が彫られているが、火炎を吐く怪鳥迦楼羅だという。下の台の正面には滝を挟んで矜迦羅童子と制叱迦童子。その一部に彩色された跡が残っている。さらに下の台の正面に世話人など十数名の名前があり、左のほうには造立年月日が刻まれていた。


祠の先にはタイプの異なる三基の庚申塔が並んでいる。右から庚申塔 文化3(1806)角柱型の文字塔。塔の正面 日月雲「庚申塔」右側面に造立年月日。左側面に武州崎玉郡新方領向畑村。下の台は三段になっている。


上の台の正面に三猿。真ん中の台の正面には講中とあり、世話人を含め十数名の名前が刻まれていた。


続いて庚申塔 元文3(1738)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。塔は台から外れて直接地面に置かれ、台は後ろで支える形になっている。全体に風化が見られ像の様子は今一つはっきりしない。


足の両脇に二鶏。邪鬼は足を踏ん張って座り込み、頭上に挙げた両手で青面金剛の足を支えている。この邪鬼のポーズはユニークだ。その下には三猿が彫られていた。


塔の右側面「奉造立庚申待」続いて施主 向畑村。左側面に造立年月日。その下には七名の名前が刻まれている。



一番奥 庚申塔 延宝元年(1673)板碑型の三猿庚申塔。中央に「奉建庚申供養」両脇に造立年月日。さらに施主敬白。


下部に素朴な三猿。その下の部分に同行 向畑村 拾九人と刻まれていた。

墓守堂西T字路住宅脇 越谷市向畑483付近


墓守堂の前で県道102号線から斜め右に入る道を道なりに500mほど進むとT字路に突き当たる。左の畑の隅に石塔が立っていた。


庚申塔 文政13(1830)角柱型の石塔の正面に大きく「庚申塔」その下の台の正面にはこれも大きな字で「講中」



塔の左側面に造立年月日。さらに武州埼玉郡新方領向畑村。右側面には津切橋 皿沼橋 根堀橋 台畑杯 四ケ所石橋願主。石橋供養塔を兼ねているようだ。台の両側面には16名の名前が刻まれていた。