大宮区 堀ノ内町・高鼻町・土手町

堀ノ内町住宅街路傍 大宮区堀ノ内町1-194-1[地図]


県道214号線、堀ノ内一丁目バス停あたりから北へ入った住宅街、県道と平行する二本目の路地の北側の路傍に小堂が立っていた。


庚申塔 造立年不明。大きな唐破風笠付き角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。塔全体に風化が著しく進み、銘は全く見当たらない。


青面金剛の体の前面は溶けだしていて剣もはっきりしない。左手に持つのはすっかり細くなっているがショケラだろう。矛・法輪・弓矢は比較的しっかり残っていた。腰から下は特に溶解が進む。このあたり「塩地蔵」を想起させる。


両足はすっかり細くなりかろうじて立っている状態だが、足元は邪鬼なのか磐座なのかはっきりしない。足の両脇は二鶏だろう。下部に正面向きの三猿が彫られていた。

堀ノ内町産業道路路傍 大宮区堀ノ内町3-39[地図]


産業道路の堀の内交差点から200mほど北、道路右側に小堂が立っていた。大宮富樫小学校の前の歩道橋の少し手前で、バス停の近くになる。小堂には「子育延命地蔵尊」と書かれた額が掲げられていた。


小堂の中 地蔵菩薩里立像 明治17(1884)この時期にしては異例に大型の丸彫り地蔵菩薩像。蓮台の下の角柱型の石塔の正面に「堀ノ内講中」右側面に造立年月日。左側面に石工の名前が刻まれている。


像の様子が江戸時代とは少し違ってきている。特に四角い尊顔は人間らしく、穏やかな表情だった。

氷川稲荷神社脇 大宮区高鼻町1-411-3[地図]


氷川神社の参道の突き当り、大きな三の鳥居をくぐり少し先を左折、右側に神池のあるあたり、左側の境内社の稲荷神社がある。小さな朱塗りの鳥居が並ぶ参道の右脇に小堂が立っていた。


薄暗い小堂の中 猿田彦大神塔 造立年不明。片岩の正面に薄く「猿田彦大神」他に銘は確認できず詳細は不明。

四恩寺 大宮区土手町3-182[地図]


中山道を北へ進み、東武野田線と宇都宮線にぶつかる手前の信号交差点を右折、「裏参道通り」にはいり100ほど先の信号交差点を左折すると。大宮税務署の南に四恩寺があった。南側に墓地が広がっていて、その塀の外、道路に向いて石塔が立っている。左脇に椿の木が迫っていて、石塔はなんだか肩身が狭い。


庚申塔 元禄12(1702)正面に卍が彫られた唐破風笠付き角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。風化のために彫りは圭角が取れて丸くなっていた。


頭上にとぐろを巻いた蛇。顔は削れているが、柄の長い矛・法輪・弓矢はしっかりと残っていた。いままで見てきた多くの元禄の庚申塔と同じようにやはり邪鬼・二鶏は無く、両脇が内を向く三猿だけが彫られている。左の見猿と右の言わ猿の足の角度が若干違っていて、このあたり石工さんの工夫かもしれない。


塔の右側面上部に20文字の偈文。その下右に大宮山東光寺住午惣山織?左に造立年月日。


左側面は庭木のためにほとんど見えないが、なんとか写真を写すことができた。上部 二段に12名の名前。


下部右に武刕足立郡土手町、左に信心道男造焉と刻まれている。


下の台の正面にも銘が刻まれていた。前に置かれた線香立てとその台石のために全体を写すことは難しい。右のほうに「奉納 下座石?」中央に願主とあり、続いて二名の名前。台石だけ別に奉納されたものだろうか?


四恩寺とその墓地の間に、細い道がまっすぐに東に向かって続いていた。


突き当りには塚があって、その上にコンクリートの閻魔堂が立っている。


閻魔大王坐像 宝暦14(1764)眉を顰め目と口をくゎっと開いた姿はなかなか迫力がある。


台の右側面に造立年月日が刻まれていた。


閻魔堂の手前、左側には板碑が、右側には四基の石塔が並んでいる。


右から 馬頭観音塔 宝暦3(1753)塔の正面に「馬頭觀世音」両脇に造立年月日。施主は個人。塔の縁が欠けていた。


その隣 馬頭観音塔 文化12(1815)塔の正面「馬頭觀世音」右脇に造立年月日。左脇に施主 個人名。こちらも上部が欠けている。


続いて聖観音菩薩塔 宝暦4(1754)?光背上部がが斜めに断裂、浮き彫りされた聖観音菩薩立像の頭部の一部も破損。像は風化のため溶けだしている。光背右脇「□□觀世音菩薩」その横に□暦四□□月十二日。命日だろう。左脇に□□之馬菩提。馬の供養塔に間違いないが、主尊は馬頭観音ではなく聖観音、以前にも同じようなケースがあったがどこで見たのだろうか?


左端 聖観音菩薩塔 宝暦2(1752)舟形光背に左手に未敷蓮華を持ち右手を添える聖観音菩薩立像を浮き彫り。光背右脇に造立年月日。左脇に施主大門町とあり個人名。紀年銘の最後が吉日となっていて墓石ではないが、何のための供養塔なのかはわからない。