差間バス停前路傍 川口市差間86
東北道を越えて西に歩くと差間小学校付近。さらに行くとやがてバス通りに出る。
差間南バス停の前に小堂があり石塔が立っていた。
庚申塔
元文元年(1736)薄い彫りで中央に「奉納立庚申」その脇に年号を刻む。
下部にはうっすらと三猿。その上にも文字がありそうだが判読できなかった。
羽黒神社 川口市東内野
川口自然公園の南西、武蔵野線を超えて少し歩くと羽黒神社があった。小さな
社の横に庚申塔がポツンと立っている。
庚申塔
安永2(1773)正面に「庚申供養講中」右側面に年号。左側面 内野村。
神社の北奥には墓地があり、その入口に六地蔵と三基の石塔が並んでいた。
左から馬頭観世音菩薩立像
天明6(1786)合掌型二臂。慈悲相。光背左上に年号。
左下に願主
個人名。光背右には「馬頭観世音」内野村講中と刻まれていた。
続いて馬頭観世音塔
天保5(1834)塔の右側面に年号。左側面 内野村講中と刻む。
右 馬頭観音塔
文久3(1863)左側面に世話人 願主各1名の名前が刻まれていた。
行衛町会会館 川口市北原台1-25
東川口駅から南に歩き戸塚支所交差点を右折、やがてT字路に突き当たるので
左折してバス通りまで出る。この道を西に向かうと東北道の陸橋に出る直前の
右手に行衛町会会館がある。門を入ると右側の塀の前に石塔が並んでいた。
右から 庚申塔
寛政元年(1789)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。
邪鬼は頭を青面金剛の左足で踏まれ、右手にその右足を受けている。これは多分
今までに見たことのない形。邪鬼の下には三猿。二鶏は見えない。
塔の右側面「奉建立庚申塔」脇に年号を刻む。左側面には武州足立郡赤山領
北原郷 行衛村
講中拾二人と刻まれていた。
地蔵菩薩立像
宝永4(1707)光背右「奉造立地蔵菩薩像 念佛供養結集二世安樂所」
光背左上に年号。下部に行衛村 結集
同行十一人と刻まれている。
続いて馬頭観音菩薩立像
宝暦13(1763)合掌型二臂、三面慈悲相。美しい形だ。
塔の右側面に年号。左側面には武州赤山領行衛村とあり2名の個人名を刻む。
横から見ると側面の顔が半分塔に埋まっているようでちょっと不気味だ。
一番奥
観世音菩薩塔 天保8(1837)右側面は「奉読誦普門品供養塔」となっていて
両脇に天下泰平
日月清明と刻まれていた。また左側面には年号が彫られている。
源左衛門新田会館 川口市源左衛門新田132付近
阿弥陀堂の前の道を東へ10分ほど歩く。東北道の手前200m、左折して細い道を
入ると左手に源左衛門新田会館があった。会館の前は駐車場になっていてその
南の端に小堂が立っている。中には庚申塔とお地蔵様が祀られていた。
庚申塔
元文2(1737)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。平らな頭頂部と直角の腕
これも「川口型」である。顔は溶けかかりはっきりしないが、ずんぐりとした
青面金剛は厚みもあり充実感がある
足元にひよこのような二鶏。さらに猫のようにうずくまる邪鬼・三猿と続く。
右側面「奉造立庚申供養」脇に年号。左側面
小さい字で20名程の名前があり、
その下には大塚村と刻まれていた。
地蔵菩薩立像
享保8(1723)頭部を欠落している上に錫杖の先、宝珠も欠く。
台の正面 中央
梵字の下「奉建立講」右脇 念佛供養二世安樂之所。左脇に
講中三十人。台の右側面に年号。左側面には赤山領大塚村と刻まれていた。
西福寺 川口市西立野420
西立野、三重塔で有名な西福寺。境内の入口付近、フェンスの前に二基の庚申塔。
庚申塔
享保8(1723)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。光背左に年号を刻む。
光背右「庚申供養二世安樂之処」足元に邪鬼と三猿。その下に20数名の名前。
隣 庚申塔
元禄2(1689)板碑型。中央 梵字の下に「庚申供養二世安樂処」
下半分に名前がびっしり刻まれている。
さらに下部には三猿が彫られていた。その姿はシンプルでホノボノとしている。
赤山日枝神社 川口市赤山218
外環道安行西交差点から県道161号線に入り、南西へ200mほど進む。
交差点を左折すると右手の小高くなったところに赤山日枝神社があった。
神社の西側、雨除けの下にお地蔵様が立ち、さらにその先、隣の公園との境の
ブロックの前に石塔が並んでいた。
地蔵菩薩立像
像のほうにも台のほうにも文字などは見当たらず詳細は不明。
ブロック塀の前、左から庚申塔
元禄13(1700)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。
光背左に年号。光背右には「庚申講為二世安樂」と刻まれている。
足の脇にスリムな二鶏。足元の邪鬼の背中が平らで頭と腰に足を受けている。
このパターンも時々見かけるが、この形、青面金剛が立ちやすいのだろうか?
素朴な三猿の下の部分には6名の名前が刻まれていた。
続いてその奥に立っているのは光明真言供養塔
宝永4(1707)
正面上部に光明真言の梵字23文字を円形に配し「奉読誦光明真言講」脇に年号。
中央下部は2文字ほど読めないが続いて三丁女三歳結衆か?脇に二世安樂所。
さらにその両脇に武州赤山結衆二拾四人敬白と刻まれていた。
その隣、普門品供養塔 嘉永6(1853)正面
日月雲「普門品供養」塔の右側に年号。
下の台の正面に大きく「郷中安全」と彫り、その両側面にそれぞれ十数名の名前、
また左側面の最後には草加の石工の名前も刻まれていた。
一番右に聖徳太子供養塔
嘉永7(1854)正面 日月雲「聖徳太子供養塔」台の正面に
大きく「赤山家根職連中」塔の右側面には年号。左側面
武州足立郡赤山と刻む。
下の台の両側面に多くの名前が刻まれていた。よく見ると戸塚村、領家東、新井宿
赤山、大門宿、石神、藤八新田など、近隣各村の名前が見える。かなり広い範囲の
家根職=大工たちが寄進したものか。大工や職人たちの守り神としての太子信仰の
現れなのだろう。
細い道をさらに奥に進むと数分で伊奈氏の住居跡、「赤山城址」に至る。
源長寺 川口市赤山1285
新井宿駅から東へ少し歩いて左の細い道に入る。まっすぐ200mほど先に
源長寺の入口がある。参道の左側に石塔が並んでいた。
手前には板碑。これだけ多くの板碑が並んでいるのは珍しい。脇に立つ
解説板によると最古のものは元徳二年(1330)鎌倉時代の銘があるという。
その奥に三体の石仏が並んでいた。いつもきれいな花が供えられている。
左 庚申塔
正徳6(1716)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。全体にカビが
回っているが像のほうは比較的きれいだ。頭には蛇。三眼の青面金剛は
目を釣上げ正面を睨みつけている。
足の両脇にはっきりとした二鶏。足元の邪鬼は正面向きで頭を踏まれている。
邪鬼の下には十人ほどの名前が刻まれ、三猿は下の台の正面に彫られていた。
塔の右側面に年号。左側面には「為二世安樂之也」と彫られている。
中央
地蔵菩薩立像 承応4(1655)徳川4代将軍家綱の時代だから相当古い。
光背にはカビなども見られず、きれいな状態を保っている。静かな表情が
印象的だ。こちらは講中のものではなく個人の供養仏だった。
右
地蔵菩薩立像 承応2(1653)こちらはさらに2年古い。光背の一部を欠く。
上部に「地蔵菩薩」光背の脇に僧名と三十三回追善などの文字が見られる。
妙延寺 川口市石神964
前の道に戻り東に歩く。東北道を越えて新町交差点の先、左手に妙延寺がある。
参道の左は広場になっていた。
参道の右側
小堂の中に三基の石塔が並ぶ。左 成田山不動尊塔 文政4(1821)
右は年代不明の馬頭観音塔。真ん中に庚申塔である。
庚申塔
明和7(1770)日月雲 青面金剛立像 鈴・ショケラ持六臂。火焔付の
凝った日輪光背を持つ。髪の中に見えているのは人の顔(ドクロ?)だろう。
青面金剛に髪の毛をつかまれたショケラの首がねじられていて痛々しい。
上の写真でわかるように前の大きな線香立てが邪魔をして足元が見えない。
邪鬼・二鶏・三猿などは残念ながら確認できなかった。
塔の右側面
年号の脇に石神村とあり、願主・世話人名を刻む。左側面には
講中として15名の名前が刻まれていた。
真乗院 川口市石神1253
県道105号線沿い、外環道の少し北に真乗院の入口がある。境内にはコウヤマキ、
カヤの大木、スダジイの大木が立ち、歴史の古さを感じさせる。本堂の左側は
墓地になっているが、その前の小堂に六地蔵が立っている。
六地蔵の小堂の左、雨除けの下に七基の石塔が並んでいた。
右手前
地蔵菩薩坐像 元文2(1737)台の正面「奉造立地蔵菩薩並道中案内塔
二世安樂所」右脇上に南
江戸ほんがう道。右脇下、本願 個人名。同施主
五人と刻まれている。左脇には武州足立郡赤山領石神町。
台の右側面には
大きく 東 江戸あさ草道と刻む。
台の左側面 北
いはつき道。脇に年号が刻まれていた。
正面右 庚申塔
元禄3(1690)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。光背右に
武州足立郡赤山領。光背左に年号が刻まれている。
うつ伏せになった赤ちゃんのような格好の邪鬼。素朴な三猿。二鶏は見えない。
邪鬼の顔の前あたりに文字らしきものが見えるが残念ながら読み取れない。
正面中、庚申塔
宝暦7(1757)青面金剛立像 剣・ショケラ持六臂。上部、日月は
定かではない。炎をまとったような日輪光背を持つ。頭部も溶けかかっていて
あまりはっきりしない。頭の上には蛇をよく見るがこれはあるいはドクロか?
吊るしたショケラは異様に大きく重そうだ。
下部をクローズアップするとかなりの迫力だ。青面金剛の下腹部に見える頭は
「虎皮を胯に縵す」という本来のあり方から考えて虎の頭ではないだろうか。
また両足で二匹の邪鬼の頭を踏んでいるのも、やはり本来のあり方らしい。
足の両脇に二鶏、下部には三猿が彫られていた。
塔の左側面は狭く写真はうまく撮れなかったが上部に講中とあり、その下に
多くの名前が刻まれていた。またその脇には年号が見える。塔の右側面には
「奉建立青面金剛諸願成就攸」と刻まれていた。
正面左
地蔵菩薩立像 宝暦6(1756)六十六部供養佛とあるが、こちらは個人の
供養佛のようだ。像の下の部分の正面に武州赤山領石神町と刻まれていた。
詳細不明の馬頭観音像、正徳3(1713)個人の供養佛である地蔵菩薩立像と続き、
左手前に馬頭観音菩薩立像
宝暦14(1764)三面慈悲相二臂。足の下の部分に
村中とあるが右の地名が岡野のように見えるがよくわからない。
六地蔵の右手、墓地の入口付近に三面にそれぞれ猿を彫った石塔が立っていた。
裏面に薄く字らしき跡があるが読み取ることはできなかった。
外環道川口IC下路傍 川口市大字西新井宿1216-6付近
真乗院から南に歩き外環道を渡ったら外環道沿いに右に折れて外環道の脇道に
入る。道なりに進むと角のところ、ICの真下あたりに庚申塔が立っていた。
庚申塔 寛延2(1749)日月雲 中央彫り窪めた中に 青面金剛立像
六臂。左手に鈴
右手にショケラを持つ。青面金剛は二組の直角の腕を持つ「川口型」
足元にムっとした表情の邪鬼。その下に二鶏、三猿と続く。
塔の右側面「奉建立庚申講供養二世安樂祈所」
塔の左側面には年号。左下に西新井宿村と刻まれていた。
笹根稲荷社 川口市西新井宿668付近
神戸地区から外環道を越えて南に歩くとグリーンセンターがある。その北側、
広い道路の向かいに稲荷社があり、階段の脇に庚申塔が立っていた。
庚申塔
延享元年(1744)日月雲 青面金剛立像 六臂。左手に鈴、右手にショケラ。
ここも「川口型」である。足元に邪鬼・二鶏・三猿を彫る。
塔の右側面に「奉造立庚申供養二世安樂祈所」左側面に年号。その下には
西新井宿村
笹根 講中敬白と刻まれていた。
宝蔵寺 川口市西新井宿355
埼玉高速鉄道新井宿駅から西に歩き新井宿(西)交差点を右折、県道105号線を
少し進むと左手に氷川神社、その右奥に宝蔵寺がある。山門の先、正面にある
本堂の左手に墓地が広がる。その入口左手、正観世音塔 文政6(1823)の隣に
庚申塔が立っていた。
庚申塔 正徳4(1714)日月雲 梵字の下に青面金剛立像 合掌型六臂。頭の上では
蛇がとぐろを巻いている。全体に白カビが目立つ。
足元には背中を踏まれお尻を高く突き出した邪鬼。その下にシンプルな三猿。
三猿の下には8人の名前が刻まれていた。
塔の右側面に「奉造立庚申供養二世安樂也」左側面には年号の下に戸田領
西新井宿村と刻まれている。
山門の左脇に二体の小ぶりな地蔵菩薩立像が並んでいた。
右 地蔵菩薩立像 元禄6(1693)光背右「奉造立花見堂供養二世安樂之所」
光背左 年号に続いて施主敬白と刻まれていた。
左 地蔵菩薩立像 宝永3(1706)光背右「花見堂供養二世安樂所」光背左に年号。
どうやらこの二つのお地蔵様は、ここから少し南にあったバス会社の車庫前に
立っていたという通称「花見地蔵」のようだ。車庫の移転にともないこここに
移されたものらしい。
多宝院墓地 川口市新井宿157
道路をはさんで宝蔵寺の向かいには子日宮神社がある。その北隣の墓地が
宝蔵寺の末寺、多宝院の墓地になる。入ってすぐ右側に石塔が並んでいた。
右から庚申塔が四基続く。
庚申塔
元禄14(1701)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。光背左に年号。
光背右「奉造立青面金剛二世安樂所」と刻まれている。
こちらも苔・カビが多い。下部にはしっかり二鶏・邪鬼・三猿が揃っていた。
隣
庚申塔 寛政3(1791)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持六臂。彫りは
立体的で力強く、また保存状態もそれほど悪くは無い。
ショケラは足を折り曲げ合掌している。足元に邪鬼。三猿はそれぞれ違った
方向を向いている。こちらは二鶏は見当たらなかった。
塔の右側面中央に「奉造立青面金剛供養塔」右脇に年号。その下に願主個人名。
左脇に武州下足立郡赤山領東新井宿村。左側面
上部に講中とあり、その下に
18名の名前が刻まれていた。
その奥 庚申塔
元禄7(1694)上部に日月雲。中央 梵字の下「奉庚申供養所」
両脇に年号。下部には三猿のみを彫る。
隣
庚申塔 文政3(1820)正面 上部に日月雲。続いて大きく「庚申塔」と彫る。
塔の右側面には年号。下の方に
南 はとがや と刻まれていた。
左側面には武州足立郡赤山領東新井宿村。続いて右下に
北 大門道
東
千住道と刻まれている。
下の台の正面に三猿が彫られていた。ただ、その前に置かれた線香立てのために
言わ猿は確認できない。台の左側面には12名の名前が刻まれていた。