岩槻区加倉

浄国寺 岩槻区加倉1-25-1


大きな角柱型の寺導の立つ浄国寺の入口。山門へ向かう道の左側、植え込みの向こうに石塔が見える。


植え込みの前の開けた一角に三基の庚申塔と馬頭観音の文字塔が並んでいた。


左 庚申塔 元禄3(1690)上部に唐破風の笠を彫り出し、正面を凝った形に彫り窪めて中に青面金剛立像を浮き彫り。


笠のすぐ下に日月雲。猿のような風貌の青面金剛は合掌型六臂で、後ろ左手にショケラを持つ「岩槻型」小さなショケラは足を折り曲げもがいているのか、この形のショケラも時々みかける。


青面金剛の足の両脇に二鶏を配し、足下に正面向きで腕を横に張った邪鬼。その下にこれも正面向きの三猿を彫る。三猿の下の部分、正面に市宿町とあり、その両脇に十人の名前が刻まれていた。全体に彫りは細かく丁寧で、充実した仕事といっていいだろう。


塔の右側面は隙間が無く確認はできなかったが造立年月日が刻まれているという。左側面には「奉供養庚申一座諸願成就」と刻まれていた。


その隣 庚申塔 元禄元年(1688)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。舟形光背型。白カビが目立つ。


構成は左隣の庚申塔と良く似ていて、四角い顔の青面金剛は、こちらも後ろ左手に足を折ったショケラを持っている。光背右下に造立年月日。左下には市宿庚申結衆廿二人と刻まれていた。


正面向きの邪鬼と三猿。二鶏は邪鬼と三猿の両脇に線刻されている。ゆるみの無い「岩槻型」の構成でこれも見ごたえがある。


続いて庚申塔 元禄9(1696)一部に欠損はあるが立派な唐破風笠付の角柱型の石塔で重厚感がある。元禄年間のそれぞれタイプの違った庚申塔が三基集まっているというのも楽しい。


塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。こちらはショケラを持っていない。青面金剛の足の両脇に二鶏を線刻。足下には正面向き、青面金剛と同じようにつり目の邪鬼。


さらに正面向きの三猿。台の正面 中央に市宿町とあり、まわりに多くの名前が刻まれていた。


塔の両側面は全く同じ銘が刻まれている。中央、上から梵字「ウン」続いて「奉造立庚申塔一基諸願成就處」上部両脇に造立年月日。右下 武州埼玉郡、左下岩附市宿町、最下部に施主敬白と刻まれていた。


一番右に馬頭観音塔 文政元年(1818)正面に「馬頭觀世音菩薩」塔の両側面に造立年月日。台の正面には岩槻講中と刻まれている。



寺導の立つ入口から100mほど進み山門を入ると、その先にはよく手入れがされた静かな境内がひろがっていた。本堂の手前、参道左手の大きな木の脇に石地蔵が立っている。


地蔵菩薩立像 明暦2(1656)舟形の光背に浮き彫りされた美しい延命地蔵。豊かな舟形の光背と柄の長い大きな錫杖が印象的だ。石質がよいためだろう、大きな欠損もなく、それほどの風化も感じられない。


光背右「以念佛講衆力奉造立之者也」光背左に造立年月日。その下に願主 武州岩付 正壽院比丘専西と刻まれている。お地蔵さまは丸顔で、やさしさの中にも威厳がある表情を見せている。彫りは細かく丁寧で、その前に立ちずっと見ていると今にも動き出しそうな気がしてくる。洗練された美しさを持つ優れた作品だと思う。


本堂の左側、廊下の前の一角にたくさんの石塔が並んでいた。その多くは無縁仏のようだ。


中央付近 六字名号塔 明暦2(1656)線香立ての位置が正面とすると正面は梵字で「南無阿弥陀仏」を表す。右側面に漢字で「南無阿弥陀佛」上部右脇に「勧萬人之衆造立之」左脇に造立年月日。右下に正壽院、左下に願主 専西 敬白と刻まれている。参道左手にあった地蔵菩薩立像と願主も造立年も同じだ。


後ろに回って見ると残りの二面も梵字であった。全体を見ると、漢字で「南無阿弥陀佛」とあった面がやはり正面と考えるべきだろう。笠付きのためだろうか、驚くことに350年以上たっても刻面はほぼ完全な形で残っている。


その隣 大乗妙典供養塔  宝暦9(1759)塔の正面「奉納大乗妙典七百六十六部廻國諸願成就供養塔」六十六部や千部、二千部というのは見たことがあるが、七百六十六部というのは初めてかもしれない。上部両脇に天下和順、日月晴明。下部左右に願主 専譽一心と刻まれている。


塔の左側面に造立年月日。右側面には導師接蓮社迎譽上人誓阿圓了和尚と刻まれていた。


中央の一番上に舟形光背を持った地蔵菩薩立像 延宝3(1675)が立っている。ふくよかな顔立ちが優しげだ。光背の下半分は隠れていて全体を見ることはできなかった。お地蔵様の頭の両脇に造立年月日。光背右脇「奉造立地蔵菩薩像・・・・・」左脇には加倉正壽院願主・・・と確認できる。


背面に回って見ると全体にびっしりと細かい文字が刻まれていた。「為祖父」「為父」・・・またいくつかの戒名。さらに、加倉村十四人、市宿町百五十五人、新町佛番、横町六十人と続き、渋江町、平野村、村国村、平林寺村、横根村、増長村、長宮村、慈恩寺村、下蓮田村、膝子村など多くの村の名前が見え、結構広い範囲の村々が助力したものと思われる。全部で千人くらいにはなるのだろうか。


本堂の西側が広い墓地になっている。少し入ったあたりに卵塔とともに地蔵菩薩塔などが並んでいた。


左 六地蔵菩薩立像 享保16(1731)唐破風笠付角柱型の石塔の三面にそれぞれ二体の地蔵菩薩立像を浮き彫り。なぜか下の台に対して上の塔は斜めに立っている。


塔の正面 地蔵菩薩像の下「奉造立六地蔵念佛為供養也」その左脇に市宿中町女同行二十七人。左右両面にわたって造立年月日が刻まれていた。


その隣 地蔵菩薩立像 慶安4(1651)舟形の光背に大きな錫杖と宝珠を持った地蔵菩薩像を浮き彫り。江戸時代初期の地蔵像はその頭を越すような大きな錫杖を持つことが多く、時代が下るにつれてだんだんと短くなる傾向があるようだ。文字は摩耗のために一部読みにくい。光背右 □慶?□□ 生誉?宗慶 譽壽法 施主敬白。左脇には「三界萬霊」その下に造立年月日が刻まれていた。


背面の右のほう、荒削りななかに銘が見える。江戸□□町中村善右衛門内儀 菩提中だろうか。


続いて真ん中に六字名号塔をはさんで丸彫りの六地蔵菩薩立像。六体の像の腹部にそれぞれ戒名が刻まれていた。


こちらも背面に紀年銘が刻まれている。正面から見て、左から享保2(1717)、宝永3(1706)、享保3(1718)、正徳6(1716)、元禄14(1701)、宝永6(1709)いずれも命日と思われる。六地蔵の建立は1718年以降ということになるだろう。六体とも背面の左端に、施主 中村 勘兵衛と刻まれていた。


六地蔵の真ん中の六字名号塔 文化14(1817)塔の正面に力強く「南無阿弥陀佛」その下に小さく惣譽。さらに花押。


裏面の上部「當山什宝開山上人真筆 名号為一切亡霊書写之」中ほどに造立年月日。さらにその下には聴誉上人御代 願主順道と刻まれていた。    



江戸時代前期の岩槻藩主阿部家は浄国寺を菩提寺としており、二代にわたる藩主とその母、さらに殉死した家臣の墓がさいたま市の指定史跡になっている。本堂の左側を通り墓地の奥のほうに進むと、木々に囲まれて大きな五輪塔が並ぶ墓所があった。二基の五輪塔の前にそれぞれ一対の石灯籠。右手前にはそれよりも大きな一対の石灯籠が立っている。
 

右 五輪塔 寛政8(1796)その前に一対の石灯籠。


近くに見ると、そのボリュームに圧倒される。地輪の正面 中央に梵字「ア」その右、英隆院殿で始まる十二文字の大居士号。左脇には正保4(1647)の命日が刻まれていた。右側面、従四位阿部備中守藤原朝臣正次。阿部家初代藩主である。左側面に長い銘文。その最初は「余七世祖英隆院正次・・・」で始まり、最後のほうに造立年月日、続いて勢州刺史阿部朝臣正倫誌となっている。初代藩主の150年忌にあたり、七代目の子孫が建立したものらしい。


前に立つ石灯籠 寛政8(1796)竿部正面「英隆院殿塔前石灯籠」左脇に造立年月日。五輪塔と一緒に奉納されたものだろう。


その隣 五輪塔 万治2(1659)やはり4mほどの堂々たる五輪塔。


地輪正面中央に梵字「ア」右脇に普廣院殿で始まる十三文字の大居士号。左脇に万治2(1659)の命日を刻む。右側面に従五位阿部備中守藤原朝臣定高。三代目藩主になる。他に紀年銘などは見られず、この五輪塔は万治2年建立ということだろうか。右の五輪塔と140年の時代の隔たりがあることになるが・・・


その前の石灯籠 万治2(1659)竿部正面「普廣院殿塔前石灯籠」左脇に造立年月日。


さらにその左奥 五輪塔 万治2(1659)他の二基と較べるとサイズは半分位となる。地輪正面中央に梵字「ア」右脇に花岳道忠信士。左脇に万治2年の命日。右側面に小倉与兵衛政光。三代藩主に殉じた家臣の墓だという。


墓所の右手前に円柱形の竿部を持つ大きな一対の石灯籠 弘化3(1846)が立っていた。


両方の燈籠の樽型の竿部に福山城主従四位下 行侍従兼伊勢守 阿部朝臣正弘謹題。阿部家の末裔にあたる幕末の老中 阿部正弘が初代藩主の250年忌に建立したもの。銘文の中に弘化三年と刻まれている。


三代目藩主阿部定高の母、正寿院の墓はかなり離れた場所にあった。境内に入ってすぐ参道をはずれ左の奥のほうに歩いてゆくと、竹林をバックに大きな宝篋印塔が見えてくる。その前にはやはり一対の石灯籠が立っていた。


宝篋印塔 正保2(1645)江戸時代初期の宝篋印塔らしく発達した相輪、大きく反り返った隅飾型の笠が特徴的だ。塔全体にわたって細かい装飾が施されている。


塔身部正面に「正壽院殿 貞譽」基礎中央に「光庵秋月大姉」両脇の紀年銘は命日だろう。


手前の石灯籠 正保2(1645)竿の正面中央に「正壽院」両脇には宝篋印塔と同じ紀年銘が刻まれていた。

 

久伊豆神社 岩槻区加倉4-28-6


東武野田線の南を大宮方面から岩槻を通り春日部方面へ向かう県道2号線。加倉北交差点で東北道の下を抜け、坂道を登りきったあたり、道路右の交差点の角に久伊豆神社がある。長い参道の先、拝殿の左脇に記念碑と並んで二基の庚申塔が立っていた。



左 庚申塔 享保13(1728)唐破風笠付角柱型。上部は比較的きれいだが、下のほうは白カビが多い。


正面、日月雲の下、中央を彫り窪めた中に青面金剛立像 合掌型六臂。さらに後ろの手にショケラを持つ「岩槻型」ショケラを持つ手はいろいろなパターンがあるが、こちらは下の左手。割合と少ないような気がする。後ろの腕は左右対称ではなく、左右がちぐはぐな付き方。頭上に大きな蛇をいただき眼窩の窪んだ青面金剛は不機嫌そうな表情をしている。


足の両脇にはっきりとした二鶏。足下には正面向きで青面金剛と似た風貌の邪鬼。その下にこれも正面向きに三猿を彫る。その下の部分は白カビが多くはっきりしないが真ん中に見える文字は施主だろう。


塔の左側面に造立年月日。右側面「奉造立青面金剛像為二世安樂也」両側面とも下部に六名の名前が刻まれていた。



右 庚申塔 元禄15(1702)唐破風笠付角柱型。こちらのほうがサイズは一回り大きく、また立派な笠のおかげだろうか、白カビが少ない。


塔の正面、日月雲の下、彫り窪めた中に日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。これも「岩槻型」だがショケラを吊るしているのは上左手で、こちらはよく見る形。頭上に蛇をいただいた青面金剛はやはり似たような顔立ちの邪鬼の頭を踏んでいる。


邪鬼は肘を横に張って正面向き。その下にこれも正面向きの三猿。三猿の横に二鶏という構成。三猿の下に十数名の名前。さらに下の大きな台の正面には卍と法輪が彫られていた。


塔の左側面に造立年月日。その脇に小さく岩築領加倉村。右側面「奉造立庚申供養為二世安樂也」両側面とも下のほうに十数名の名前。正面の三猿の下の名前も合わせると50名近い講になる。

洞雲寺 岩槻区加倉4-21-1


久伊豆神社から県道2号線を東へ進むとすぐ左側に浄国寺の入口があり、さらに100mほど先で、細い道を右に入ってゆくと寺導の立つ洞雲寺の入り口に着く。入口からコンクリートの坂を登ってゆくと左側に戦国時代の建立と伝えられる四脚門形式の山門が立っていた。大幅な改修が加えられているものの、古い建築様式を伝えるものとして市指定有形文化財に指定されているということだ。



山門の左側に無縁仏が集められていた。その左脇に丸彫りの地蔵像が立っている。



地蔵菩薩立像 元文元年(1736)地蔵像自体は1mくらいだが、蓮台、敷茄子とも厚みがある立派なもので、その下の二段の台、さらに基壇まで含めると3m近くなる。



上の台の正面に大きく梵字「カ」両側面に卍を彫る。裏面に造立年月日があるが隙間が無くカメラが入らない。下の台の正面に加倉村男女 念佛講中と刻まれていた。


無縁仏の中、最前列中央に庚申塔 元禄7(1694)破風付の角柱型石塔で日月雲の下を彫り窪めた中に 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。「岩槻型」で上左手にショケラを持つ。写真で見るように横の石塔にぴったりとくっついていて側面はほとんど見えないが左側面の上のほうに元禄の「元」だけがのぞいている。資料によると右側面に「為奉造立庚申供養現世安全也」となっているが確認はできない。


足の両脇にしっかりとした二鶏。正面向きの邪鬼と三猿。その下の部分には十数人の名前が刻まれていた。