富士見市水子(台、正綱、石井、別所)

水子交差点信号脇 富士見市水子2695東

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浦和所沢バイパス、岡の坂交差点から県道266号線を北に入り、上り坂を登りきったところ、水子交差点の信号の左脇に小堂が立っていた。この交差点から右の道を進むと前回まで見てきた大應寺から地蔵院、山崎方面へ、まっすぐ進むとみずほ台駅付近へ、小堂の左の細い道は、多分昔からある旧道で、台の高い所を抜けて正綱の氷川神社付近に出る。

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小堂の中 大日如来立像 元禄6(1693)舟形の光背に智拳印を結ぶ大日如来像を浮き彫り。大事にされてきたのだろう、カビや苔などは無くきれいな状態を保っている。

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光背右脇「奉刻調供養大遍照尊石像一体」続けて願 行者 是□。

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左脇 造立年月日。その下に武州入間郡水子村、さらに福田村大日□百日参詣成就者也と刻まれている。大日堂のある福田村というのはどこなのか調べてみたがよくわからなかった。

水子交差点北西曲がり角付近 富士見市水子1891付近

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県道266号線水子交差点を直進して進むとやがて道は左にカーブして西に向かうことになる。このカーブには細い二本の道が北の両側から合流していて、その合流地点に石塔が並んでいた。

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右 雨除けの下に道標 天保15(1844)屋根のはげた雨除けの向こうに立つ解説板も文字が薄くなっていて読みにくい。

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塔の正面 大きく「ひき又」その下に小さく十五町と刻まれていた。右側面「山下川岸」三町、左下に願主として廻船問屋の山田屋佐平治の名前が見える。

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左側面「所さわ」三里、裏面に「川ごえ」三里半と刻まれていた。

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左 馬頭観音塔 文化6(1809)正面 上部に大きく梵字「カン」を彫り、その下に「馬頭觀世音菩薩」下の台の正面に「講中」

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塔の右側面には「光明真言百萬遍供養塔」と刻まれている。

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左側面に造立年月日。裏面に武州入間郡水子村と刻まれていた。

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カーブから西に向かう枝道の入口、先ほどの二基の石塔の向かいの角のところにも馬頭観音塔が見える。

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馬頭観音塔 明治28(1895)正面に「馬頭観世音」左側面に造立年月日。施主は個人名。

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細い枝道を西に向けて歩いてゆくと左手にやはり馬頭観音の文字塔が立っていた。正面に「馬頭観世音」右側面に大正十(1921年)の銘が見える。完全に個人の住宅内なので左側面は見ることができない。水子地域では明治・大正期の馬頭観音の文字塔があちらこちらでみかける。それも個人のお宅のものが多い。農耕用の馬の使役が多かったということだろうか?

 

水谷小学校東の路地 富士見市水子2549

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県道266号線沿いにある水谷小学校の東隣にJAいるま野水谷支店がある。その東の路地を入ると道路の右側、ブロックで囲まれたスペースに石仏が並んでいた。

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三体の石像は遠目にも白カビが目立つが、それぞれに美しい花が供えられている。後ろは紙工会社の倉庫。現場は会社の敷地内のようだ。

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右 庚申塔 享保14(1729)日月雲を線刻。青面金剛立像 合掌型六臂。白カビのためにはっきりしないが頭に蛇、額に三眼。薄く首輪が見える。合掌した両手の下、おなかのあたりに見えるのは髑髏だろうか。足の下は蛇紋様で、邪鬼、三猿、二鶏は見当たらなかった。

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右脇「奉造立庚申息災延命祈所」さらに塔の右側面に武州入間郡水子村石井と刻まれている。

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像の左脇に造立年月日、続けてその下に施主十二人。

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中央 地蔵菩薩立像 宝永7(1710)舟形光背型。梵字「カ」の下に延命地蔵立像を浮き彫り。錫杖・宝珠ともに健在だが顔の様子などは全く分からない。

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光背右「奉修造地蔵尊念仏講供養成就各施主二□」下のほうはうまく読み取れなかった。

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光背左に武州入間郡水子郷右村□結衆廿八人。その脇に造立年月日が刻まれている。

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左 地蔵菩薩立像 安永6(1777)合掌型。舟形の光背全体に白カビがひどく、細部はわかりにくいが文字だけは彫りが深いためなんとか読み取ることができた。

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近寄って見てかすかに表情が伺える。光背右に造立年月日。左に水子村願主とあり、その下には個人の名前が刻まれている。

 

宝性寺 富士見市水子1935

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県道266号線、水谷小学校の200mほど東の信号交差点から一方通行の細い道を南に入ると左手に宝性寺の入り口がある。入口右側の小堂の中に石地蔵が並んでいた。

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中央に少し大きめな丸彫りの地蔵菩薩立像。こちらは銘が見当たらない。両脇に六地蔵菩薩立像 文政11(1828)台の一部に剥落が見られ風化が著しいが、中よりの二基の台に紀年銘が残っていた。右の台の中央に念佛講中、左の台に檀方講中と刻まれている。

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門を入るとすぐ左側に四基の石塔が並んでいるが、右の二基の石塔は個人の供養のためのものだった。

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左 庚申塔 延宝4(1676)立派な相輪を持った唐破風笠付の角柱型。

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塔の正面 日月 青面金剛立像 合掌型六臂。表面は若干風化が見られるが、像自体は損傷もなく細部までしっかりと残っている。

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下部中央に「奉造立庚申之石像現未悉地成就所」右脇に武州入間之郡水子石井村、左脇に造立年月日。下部両脇に渡って願主敬白と刻む。この面に邪鬼、二鶏、三猿は見当たらない。

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正面をのぞく三面の下部には(写真は左側面の言わ猿と裏面の聞か猿)三猿だけが彫られていた。

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その隣 六地蔵菩薩立像 寛文8(1668)笠付の六面石幢。六面にそれぞれ地蔵菩薩像を浮き彫り。

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六面のうち正面だけに銘が刻まれている。像の下の中央に「奉造立六地蔵」続けて願主二十七人水子村。両脇に造立年月日。

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さらに奥に進むと本堂の近くに三基の石塔が並んでいた。

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左 普門品供養塔 寛保3(1743)正面を彫り窪めた中、梵字「サ」の下「奉讀誦普門品為二世安樂也」両脇に「具一切功徳 慈眼視衆生 福聚海無量 是故應頂禮」と観世音菩薩普門品の偈文が刻まれている。

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塔の両側面の上部に造立年月日。右側面の下部には水子村願主とあり数人の名前、左側面の下部には講中十六人と刻まれていた。

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中央 地蔵菩薩塔 文化8(1811)塔の正面に目いっぱい大きく梵字「カ」の下「地蔵大菩薩」

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右側面に造立年月日。左側面には願主とあり二名の戒名(居士と大姉)が刻まれていた。

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右 地蔵菩薩立像 明和6(1769)丸彫りの延命地蔵。左手の宝珠を欠き、ところどころ白カビが目立つ。

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台の正面 右から念佛講中二十八人。脇に世話人は一名。続いて造立年月日。その脇に水子村願主とあり、こちらも個人名が刻まれている。

八雲神社 富士見市水子2582

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宝性寺からさらに南に100mほど歩くと道路左側の大きな木の下、八雲神社の祠の隣に小堂が立っていた。

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小堂の中 勝軍地蔵 文化3(1806)騎馬姿の勝軍地蔵はこれまでにも時々見かけたが、それらと較べてみてもこの勝軍地蔵は保存状態も良く優れているように思われる。

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甲冑を見につけた地蔵菩薩が右手に持つのは錫杖ではなく武器だろうか。彫りは細かく、馬の足の蹄に至るまで、生き生きと表現されている。

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塔の両側面は狭い。左側面に造立年月日。その下に願主 水子邑とあり、二名の名前。右側面は中央に大きく「奉造立榛名山」その下は右に石井、左に窪(当て字)新田、講中と刻まれていた。

みずたに幼稚園北の住宅の庭 富士見市水子4540

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宝性寺のあたりから細い道を西に向かうと氷川神社付近に出るが、この地域では馬頭観音などの石仏をいくつか見ることができる。住宅の中にあるものが多く、馬頭観音塔はほとんどが文字塔で、正直あまり変わり映えがしない。その中で今日は自然石の文字塔を見てみよう。みずたに幼稚園の正門から北へ向かう道とのT字路交差点、幼稚園のほうから来ると正面の家の庭先に石塔が立っていた。

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馬頭観音塔 昭和4(1929)自然石の正面、上部に梵字「カン」その下に「馬頭觀世音」右脇に造立年月日。左脇には稱名とあり個人名が刻まれている。

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背面には施主一名の名前が刻まれていた。

性蓮寺裏の住宅内 富士見市水子4579

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さらに西に歩いてゆく。変則的な五差路を過ぎてすぐ、右手の住宅の庭木の間に石仏が見えた。完全に宅地内なので撮影の許可をいただいてから拝見することになった。この場所は性蓮寺のちょうど真裏になる。

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 倉庫の前に大小あわせて四基の石仏が並んでいた。

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左 馬頭観音塔 。こちらは紀年銘が見当たらない。塔の正面に「馬頭観世音」塔の左側面に願主名を刻む。

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隣 馬頭観音塔 安政4(1857)塔の正面 崩した字で「馬頭観世音」台の正面は「講中」のようだ。

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台の左側面には世話人として中水子村、下富村、入間川村の三人の名前が、さらに願主一名の名前が刻まれていた。

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塔の右側面に造立年月日。こうやって見ると崩した文字が一つのデザインとして成立していて面白い。

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続いて 庚申塔 享保5(1720)日月雲 青面金剛立像 合掌六臂。唐破風笠付の角柱型。足の両脇に二鶏、さらに白カビまみれの邪鬼、その下には三猿と揃っている。

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塔の左側面いっぱいに30名ほどの名前が刻まれていた。比較的大きな講のようだ。

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塔の右側面 梵字「ウーン」の下「奉待庚申供養諸願成就之所」両脇に造立年月日。

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最後は文殊菩薩坐像 天明3(1783)。獅子の背に結跏趺坐し、右手に智慧を象徴する剣を持つが、左手のほうは先が欠けていてわからない。

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塔の中央「奉造立□文殊菩薩為二世安樂」右脇に武州入間郡水子邑中組、その下に願主、施主名。左脇に造立年月日。その下には世話人二名。左端に開眼導師水光山第十七世法印慧光と刻まれていた。

氷川神社 富士見市水子5050

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浦和所沢バイパスを所沢方面に向かい、東上線のすぐ手前の信号交差点を右折して坂道を登ってゆくと、右手に氷川神社の入口があった。同じ水子の中に二つの氷川神社があり、貝塚公園の西の氷川神社を上氷川神社、こちらを下氷川神社と呼んで区別することがあるという。拝殿の左側の奥にコンクリートで固められて二基の石祠が並んでいた。

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左 弁才天塔 寛延2(1749)梵字「ソ」の下に鳥居を頭上に頂いた六臂の弁才天の坐像を浮き彫り。その手に剣・宝珠・法輪などを持つ。古いものだが像はカビなどもなく、大きな破損も見られない。

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左側面 武州入間郡水子邑講中三十人。その脇に造立年月日。さらに別當 福性寺と刻まれていた。

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右側面には「奉造立辨才天一體」願主は僧名を刻む。

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右 大楽天塔 宝暦11(1761)中央に大きく「大樂天宮」大樂天=弁才天らしい。右枠に武州入間郡水子、左枠に造立年月日が刻まれている。

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左側面 別當 福性寺法印如傳。右側面 別所講中 三十?八人 願主として二名の名前が刻まれていた。

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拝殿の右から奥へ進むとフェンスの外に六基の石塔が並んでいた。卵塔が二基、像塔が四基。まわりには一般の墓地は見当たらないが、お寺(福性寺)の跡なのだろう、歴代住職の墓石だけが残されたもののようだ。

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右から地蔵菩薩立像 元禄8(1695)舟形光背の右脇に老?心法師霊位。その下に武州水子村。左脇に紀年銘だが、この場合は命日だろうか。

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卵塔が二つ続きその奥に観音菩薩坐像 年代不明。一面二臂で、合掌、印を結ぶ。光背右上に西念道心。左上に武州入間郡別所村。

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その隣 観音菩薩立像 正徳3(1713)光背右に権大僧都法印良永?不生位 福性寺十七世之位。左脇に紀年銘。足下に武州水子村 施主欽白と刻まれていた。

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左端 地蔵菩薩立像 貞享元年(1684)ここでは最も古いものだが風化は目立たない。全身のバランスが良いためか自然な立ち姿で、錫杖と宝珠を持った両手の様子などもしなやかなさを感じさせる。光背右に法印権大僧都良弁本覺位。左脇には紀年銘。その下に武州水子村 福性寺先寺。下部両脇に施主敬白と刻まれている。

 

真光寺 富士見市水子2731-1
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浦和所沢バイパスの岡の坂交差点付近から、その北側をバイパスにほぼ平行に道路が通っている。バイパスは柳瀬川の北に広がる田園地帯に新しくできた道路で、この北の細い道路がもともと村の主要な道だったのだろう。交差点から5分ほど歩くと右側に真光寺が見えてくる。お寺は台の途中の高い所にあり、細い道に入って上り坂の先に入り口があった。入口近くに石塔が並んでいる。

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手前から宝篋印塔 天明元年(1781)基礎に武州入間郡水子村 施主として木内氏の名前が刻まれていた。

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小堂の中 地蔵菩薩立像 天明元年(1781)台も含めると2mを超す大きな延命地蔵。像も台も美しい状態を保っている。

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台の正面中央に「奉造立悲願金剛恵日妙照大姉為也」両脇に命日を刻む。左側面に造立年月日。右側面に武州入間郡水子村 施主とあり、宝篋印塔と同じく木内氏、こちらは奥さんのようだ。宝篋印塔とともにこれだけの立派なものが個人のものというのは意外だった。この時代、大型の二基の石塔を奉納するだけの豊かな経済力を持った家がこの村にあったということなのだろう。

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小堂の奥にも二基の石塔が立っていた。

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前 阿弥陀如来立像 貞享4(1687)風化のために顔の表情などははっきりしない。光背右「為現受無比樂後生清浄土也敬白」左脇に造立年月日。その下に武州入間之郡水子村神明。神明は字かと思い古い地図を見てみたがよくわからない。

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足下に願主 眞光寺住 沙門 行者。さらに一結衆廿三人と刻まれていた。

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 後 光明真言供養塔 天明9(1789)塔の正面 上部に梵字で光明真言をあらわし、その下に「奉造立光明真言百万遍供養塔」両脇に造立年月日。

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台の正面に武州入間郡水子村 講中四拾五人。続いて願主は木内氏をはじめとして三名の名前が刻まれていた。

地蔵堂墓地 富士見市水子4387付近

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さらに西に進むと右手に雑木林の公園、「石井緑地公園」が見えてくる。公園の奥は台地で、その高台に墓地があった。入口付近に石仏が並んでいる。

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地蔵菩薩立像 安永8(1779)光背の右脇に「奉造立地蔵菩薩為三界万霊也」左脇に造立年月日。その下に水子邑願主貞善。足下に世話人一名の名前が刻まれていた。

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その隣 庚申塔 貞享4(1687)正面上部に日月雲を線刻。中央「奉造立庚申石像為現当二世安樂」右脇に武州入間郡水子之郷大井村。左脇に造立年月日。続いて一結衆敬白と刻まれている。

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その下にぬいぐるみのような三猿を彫り、さらに三猿の下の部分には結衆十名の名前が刻まれていた。

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続いて寒念佛供養塔 安永6(1777)中央 梵字「キリーク」の下「奉勤行寒念佛供養塔」右脇に造立年月日。左脇には武州入間郡水子村とあり個人名が刻まれている。

 

薬師堂墓地 富士見市水子5136付近

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性蓮寺の入口の少し手前、右手の台地に向かう細い道を登りきった先に薬師堂の墓地がある。その北の隅の一角に石地蔵を集めた小堂があった。七体の石地蔵は一見その大きさもまちまちで、ただ集められただけのように見える。

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像の様子をよく見てみると左から3番目だけはあきらかにサイズが違うが、あとの六体はほぼ同じ印象を受ける。違っているのはその下の台のほうだった。紀年銘は寛政3年、寛政8年、明治のものなどもあり、後から台だけ補修されたものかもしれない。多分、この六体は六地蔵として造立されたものではないだろうか。

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小堂の左 六地蔵菩薩石幢。笠付きのためだろうか、カビなども目立たず像の状態はとても良い。蓮台、敷茄子、台の飾りなど、彫りも細かく美しいものだが、何度見ても銘が見当たらず詳細は不明。

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六面に浮き彫りされた六体の地蔵菩薩立像。いずれも端正で上品な立ち姿である。

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その隣 宝篋印塔 天明7(1787)江戸時代中期以降に典型的な屋根型の笠を持つ。

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基礎部、造立年月日が刻まれている面に「奉納大乗妙典日本廻國供養塔」とあった。江戸時代の宝篋印塔は個人の供養塔、墓碑塔として造塔されることが多いが、この宝篋印塔はよりパブリックな性格を持つもののようだ。脇に武州入間郡水子村 願主 宗栄(僧侶か)続いて個人名があり、さらに江戸講中と刻まれていた。

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墓地の西側中ほど、雨除けの下に地蔵菩薩立像 寛政3(1791)帽子、前掛けなど、大切にされている様子がうかがえる。像の様子はわかりにくいが錫杖、宝珠を持つ延命地蔵だろう。

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近づいて見ると顔の様子がひどい。自然の風化によってこうなったとはとても考えられないのだが、どういうことなのだろう?

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台に文字が見当たらず、裏に回ってみたら像の背面に銘があった。中央に造立年月日。下のほうに水子邑 施主は個人名が刻まれている。

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墓地の東側の入口付近のコンクリート塀の前に四基の石塔が並んでいた。

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左 勢至菩薩の文字塔 宝暦6(1756)勢至菩薩は阿弥陀三尊の中で多く見られ、単独での像塔も珍しいが、文字塔となると私は今までに見たことがない。残念ながら塔の上部が欠けているが「六年丙子年」ということで宝暦と判断できる。左脇には武州入間郡水子村講中十一人と刻まれていた。

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その隣 庚申塔 延享2(1745)唐破風笠付の角柱型。塔の正面上部に日月雲 梵字「ウーン」の下に「奉造立供養庚申講中二世安樂攸」下部に三猿が彫られている。

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塔の右側面に造立年月日。続いて講中、願主とあり六名の名前。

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左側面 武州入間郡水子村講中。その下に七名の名前。合わせて講中十三名だろう。

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奥の二基は住職の墓石。左 享保9(1724)、右 宝暦2(1752)いずれも左脇に武州入間郡水子邑とあり、施主は個人名が刻まれていた。

 

氷川神社北西路傍 富士見市水子4983付近

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並木交差点から志木方面に進むと道路は下り坂になり、左手には前回紹介した氷川神社があるが、その少し手前の右側路傍、住宅の駐車場の一角に三基の石塔が並んでいた。

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右 薬師如来供養塔 安永4(1775)塔の正面に「薬師如来十二神供養塔」薬師如来の十二神将のための供養塔であまり見たことがない。脇に世話人、施主名。塔の右側面に造立年月日が刻まれていた。

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中央 湯殿山供養塔 宝暦4(1754)笠付角柱型だが、隣の薬師如来供養塔と同じく、笠だけあとから乗せたような印象を受ける。塔の正面 蓮座の上に大日如来を表す梵字「アーンク」その下に「湯殿山講中」

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塔の右側面に造立年月日。左側面には 武州入間郡水子村中□同行 二拾四人。

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左 馬頭観音塔 明治4(1871)塔の正面に「馬頭觀世音」右側面に造立年月日。左側面に願主 個人名が刻まれている。

山王坂氷川神社向かい 富士見市水子5022

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さらに南に下ってゆくと、氷川神社の向かいの角のところに大きな石地蔵が立っていた。その隣にも石塔が立っているのが見える。

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地蔵菩薩立像 元禄14(1701)これも台を含めるとその高さは2mを超す。大きな雨除けのおかげだろうか、像は風化の様子も見られず驚くほど美しい。

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台の正面 中央に「奉造立供養地蔵菩薩」右脇に造立年月日、左脇に現當二世安樂所。右側面に武州入間郡水子村、左側面に施主廿八人と刻まれていた。

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コンクリートの壁と地蔵菩薩塔に挟まれるように唐破風笠付きの庚申塔が立っている。

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庚申塔 延享3(1746)正面を彫り窪めた中に日月 青面金剛立像 合掌型六臂 足下に邪鬼。右枠部「奉造立青面金剛尊一躰」左枠部に造立年月日が刻まれていた。

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塔の下部、窓の外に二鶏を線刻。下の台の正面、前の線香立てで隠れ気味ではあるが、左に見猿が見える。他の二匹の猿も彫られていそうだ。

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塔の右側面に講中二世安樂之所、左側面には武州入間郡水子村別所 一結三十人敬白と刻まれていた。

 

並木地蔵尊 富士見市東みずほ台1-3

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東みずほ台には一件だけ。同じ道筋なのでここで紹介する。県道266号線は並木交差点から右に折れて川越方面に向かう。この並木交差点の北西の角に小堂が立っていた。

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地蔵菩薩立像 享保8(1723)台も含めるとその高さは2mをゆうに超える。マントのために見えないが延命地蔵らしい。見える限り像の損傷は少ないようだ。

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台の正面に造立年月日。この台の四つの面、また蓮台の下の反花の正面には施主だろうか、たくさんの名前が刻まれていた。

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その下の台は目の前の線香立ての陰で一部だけ見えるが、上部は窪み穴が多くうがたれていて、文字も一番上が削れていた。表面は風化のために読みにくいが右のほうに□蔵尊再調、左のほうに□政三辛亥、念佛講中、願主□□などと見える。享保8年に創建、70年後の寛政3年(1791)に念佛講中によって再建されたのだろう。

 

阿弥陀堂 富士見市水子6332付近

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氷川神社の向かい、山王坂の石地蔵から細い道を西に進みT字路を左に曲がると、東武東上線の線路近くに墓地が見えてくる。墓地内に堂宇は見えないが、阿弥陀堂跡の墓地らしい。入口近く、多くの石仏が並んでいた。

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小堂の中に丸彫りの六地蔵菩薩立像 文政3(1820)台の高さは多少ばらつきがあるが、像の様子はほぼ揃っているようだ。

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近くから見ると六体ともかなり風化が進んでいて、その顔はいずれものっぺらぼうだった。倒壊を防ぐためだろう、腰のあたりに木の棒が渡されている。

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それぞれの台に戒名、命日、施主名などが見える。一番右の台の正面には「奉建立六地蔵尊」両脇に造立年月日が刻まれていた。

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小堂の右、雨除けの下に地蔵菩薩立像 元文2(1737)丸彫りの延命地蔵。しもぶくれのふくよかな顔が印象的だ。

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台は剥落が進んでいるが、うまい具合に肝心な部分が残っていてだいたいのところはわかる。中央「奉造立地蔵尊」右脇に造立年月日、さらに願主□□法子と刻まれている。左脇は念佛講中 五十一人だろう。

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その隣には卵塔などが続き、いちばん奥に三基の石塔が並んでいた。

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庚申塔 寛文12(1672)相輪の付いた唐破風笠付角柱型。

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上部、枠の外に日月。青面金剛立像 四臂。合掌型でも剣・ショケラ持ちでもなく、しかも四臂の青面金剛となるとかなり珍しい。上の手には鉾と法輪。下の手には蛇?と羂索。足元には邪鬼が彫られている。

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下部の右枠部に武州入間之郡水子之郷、左枠部に願主十三人。枠の中は字が読みにくいが上のほうは願文か。下部両脇には造立年月日が刻まれていて、その間に見えるのは梵字のようだ。

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塔の左側面 上部に阿弥陀三尊を梵字で表し、その下に光明真言を刻む。下部には聞か猿、さらにその下に鶏が彫られていた。

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塔の右側面と裏面も左側面と同じ構造。右側面の下部は見猿と鶏、裏面には言わ猿が彫られている。

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その隣 十一面観音立像。右手は与願印、左手には蓮華を生けた花瓶を持つ。

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頭頂部に阿弥陀如来の化仏。その下に九面、観音様の本面を含めて十一面になる。

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十一面の様子がわかるように横顔も見ていただこう。観音様のお顔がなまめかしい。

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舟形の光背は白カビに覆われていてほとんど文字が読み取れない。はじめはあきらめていたのだが、せっかくこれだけ立派な石仏に巡り合えたのだからと欲が出て、ああでもないこうでもないと時間をかけて解読に挑戦してみた。光背右脇で確実に読めるのは「奉建立」途中になんとか「二世安樂」と見える。その左下に「人」推測を交えれば「奉建立観音菩薩為二世安樂也」施主、または講中□□人あたりだろうか。

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 光背の左脇で確実に見えるのは入間郡水子村。下のほうに敬白。上のほうに造立年月日があるはずで「七」と見えるがその上が今一つ読み取れない。雰囲気では延宝のように見えるのだが・・・

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続いて出羽三山供養塔 文政13(1830)塔の正面はこちらも白カビが目立つ。台のほうは比較的きれいで、正面に世話人を含め十三人の名前が刻まれていた。

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塔に近づき少し斜めから見て文字がやっと読めた。全体に彫りは薄い。日月雲の下、中央に湯殿山、右に月山、左に羽黒山。続いて三所供養塔。その右脇に諸願成就、左脇に村内安全。塔の左側面に造立年月日。右側面には武州入間郡水子村と刻まれていた。