和光市新倉の石仏

上新倉氷川八幡神社 和光市新倉2-18-60

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外環道の側道の新倉氷川神社前交差点から北へ100mほど歩くと氷川八幡神社の
入口がある。この一帯は荒川流域の低地から越戸川沿いに坂を上った台地になり
古くからの集落があるところ。写真左に見える坂、宮坂もかなり急な坂だった。
この神社は鎌倉時代の創建と伝えられる古社で、上新倉村の鎮守社だったという。

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参道左に力石があった。三拾八貫目。上新倉村 上之郷若者中と刻まれている。

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拝殿の裏は鎮守の森。記念碑などの石塔が立ち並び、多くの境内社があった。
本殿の左裏、鳥居の脇に二基の庚申塔が立っている。

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二基とも三猿庚申塔だが、その細部は微妙に違っている。

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左 庚申塔。正面を彫り窪めた中に日月雲を彫り、その下に6名の名前を刻む。
下部にはかわいく三猿が彫られていた。年号その他の銘文が見当たらない。
三猿庚申塔であること、板碑型に近い塔の型、中央に施主名(多分)という
あまり見かけない構成などから、庚申塔の定型らしきものが確立する以前の
もののような気がするがどうだろうか?

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右 庚申塔 貞享4(1687)中央「奉造立庚申供養一結成就所」両脇に造立年月日。
さらに左脇に武州新倉村。その下には大きめの三猿が彫られている。三猿の
下の部分に6名の名前が刻まれていた。

花ノ木墓地 和光市新倉2-10

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新倉氷川神社前交差点から外環道の側道を和光市駅方面に進む。その側道の右に
下り坂の枝道があり、その道を下ってゆくと左手に墓地があった。

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墓地の入口には三体のお地蔵様が並んでいる。

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右 地蔵菩薩立像。いたって新しい。台にも像のほうにも銘が見当たらない。
いつ、誰が、なんのためにこれを作ったのか?

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中 地蔵菩薩坐像 宝暦14(1764)梵字「カ」の下、中央に「日月清明 天下泰平」
右脇に「奉納大乗妙典六十六部供養」と刻まれ納経供養塔ということになる。
左脇に年号。続いて武州新座郡新倉村 願主 浄念。廻国僧だろうか。

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左 地蔵菩薩立像 明治11(1878)上の像も下の塔も白カビが目立つ。右手に錫杖
左手に宝珠。頭の後ろに日輪光背を持っている。

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塔の正面に「延命地蔵尊」右側面に年号。左側面には上之郷念佛講中四拾二人。

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三体の地蔵菩薩像の左下、この台は地蔵菩薩立像の台らしい。正面 三行に渡り
「奉造立地蔵尊 念佛講中 二世安樂祈所」脇に享保6(1721)の銘が刻まれていた。
左側面には二段に十数名の名前。右側面も合わせると約30名になる。資料によると
この台に乗っていた石像が別にあったらしいが墓地内には見つからなかった。

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墓地内を歩いていると奥のほうに新しい萬霊供養塔が立っていた。その脇にある
「供養塔建立の由来」によると平成6年外環道建設の為、墓地の一部が買収され
現在の地に移転されたとのこと。もしかしたら、その折に享保6年の地蔵菩薩像が
失われたのか。その代わりにあの銘が見当たらない新しい地蔵菩薩像がここに
立てられることになったのだろうか。

長照寺 和光市新倉3-3-35

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新倉坂下の和光新倉郵便局の裏手にある長照寺。整備された山門の奥に
平成15年竣工の新しい本堂が見える。手入れの行き届いた境内は明るい。

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参道の左側、水屋の先、右に新しい六地蔵。左側には石塔が並んでいた。
その後の山?いっぱいに墓地が広がっている。

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左端から 地蔵菩薩立像。右手の錫杖の先が欠けている。カビも全体に多いが
顔の彫りははっきりしている。

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台の正面 講中 三十四人 願主上原氏と刻む。右側面に 武州新座郡上新倉村。
左側面には 宝暦と読めるがあとは読み取れない。

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庚申塔 天和3(1683)和光市内では最も古い庚申塔のようだ。上部中央に
「令法久住利益人天 奉造立庚申供養如件」その両脇に造立年月日を刻む。
さらにその下、両脇に武州新座郡 上新倉村と刻まれていた。

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正面下部はもう一段彫りくぼめて窓を作り、その中に大きめの三猿を彫る。
三猿の下の部分には富岡氏、上原氏など8名の名前が刻まれている。

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庚申塔 宝永7(1710)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。頭上の梵字は「ウン」か?
光背右「奉造立庚申供養成就之処」光背左に年号。さらに武州上新倉村と刻む。

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 足元 二鶏は比較的しっかり、邪鬼は心なしか情けない。三猿は正面向き。

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塔の左側面 下部に十数名の名前を刻まれていた。右側面にも十数名。合わせて
三十名近い講中になる。

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天保9(1838)のこの石塔は何だろう?正面「□狗畜門善女」初めの字は矢に
のぎヘンに女、漢字バラバラで考えてもわからない。下に彫られているのは
「狗」=犬だろうか?塔の左側面には施主 當寺 法印諦龍と刻まれていた。
下の台は字がほとんど読めないが右に施主と見えている。謎の石塔だ。

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馬頭観音の文字塔が二基。いずれも大正6(1917)建立。施主は個人名だった。

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如意輪観音坐像 享保8(1723)頭上に梵字「キリーク」右に妙散禅定尼とあり
個人の墓塔ではあるが、大変美しい。

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 下の台の一部は土に埋もれている。右端 文政三。真ん中に地蔵、その下は横に
世話人、左に女講中と見える。上の像の台ではないのかもしれない。

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 最後にまた三猿庚申塔 天和3(1683)日月雲の下に造立年月日が刻まれている。

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 三猿の体に合わせて窓部を彫り、ちょこんと座った三猿がかわいい。面白い
構成だ。三猿の下には大熊氏二名の名前が刻まれていた。

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 石塔の裏の墓地に登ってゆくと、左手に歴代住職墓地がある。その入口左に
如意輪観音坐像。階段を登った右に地蔵菩薩像が立っていた。

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 如意輪観音坐像 寛文13(1673)六臂。光背上、真ん中に年号。この位置は珍しい。
その右脇「敬白奉造立如意輪観音之尊躰」左脇に「所供養唱満念佛一結衆如件」
光背下部、両脇に渡って武州新倉郡上新倉村と刻まれている。足の下 ひらがなで
20名近い女性の名前が刻まれていた。


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 地蔵菩薩立像 寛文3(1663)右手に立派な錫杖、左手に宝珠を持ち静かに佇む。
こちらも光背上部真ん中に年号。右脇「敬白為令法久住利益人天」左脇には
「所造立日待供養如件」と刻まれている。右脇の銘は天和3年の庚申塔の銘と、
左脇の銘は上の如意輪観音と同じ表現だ。光背下部の両脇には施主だろうか
8名の名前が刻まれていた。如意輪観音も地蔵菩薩もともに品がよく美しい。
寛文期の石仏は比較的きれいなものが多いような気がする。なぜだろう?

合之道稲荷神社 和光市新倉3-6

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長照寺をでて東に歩き、すぐ左に折れ満願寺のあるバス通りに向かう細い道の
左側に合之道稲荷神社があった。

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境内にはいって左側 庚申塔 宝暦13(1763)唐破風笠付。台に大きく右 引又道。

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日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。顔の表情こそはっきりしないが
彫りは細かく力強い。二鶏もしっかり彫られ、雌鳥は不気味にうずくまる邪鬼を
つついているようだ。邪鬼の下には素朴な三猿。

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塔の右側面 大きな字で武州新座郡上新倉村。続いて「庚申待」その下に願主名。

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左側面「奉造立青面金剛」横に年号。その下に講中三十六人と刻まれていた。

満願寺 和光市新倉3-8

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バス通りにでて右折し、少し進むと左手に満願寺の入口がある。正面の本堂も
左側の観音堂も最近建てられたものらしい。

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本堂の左側から奥の墓地に向かうと無縁仏が並んでいた。右端に三基の馬頭観音。

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手前から馬頭観音塔 嘉永6(1853)願主 上ノ音吉。上新倉の音吉ということか。

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中 馬頭観音塔 昭和4(1929)梵字「カン」を彫る。願主 個人名。

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奥 馬頭観音塔 万延元年(1860)こちらも願主は個人名だった。


金泉寺 和光市新倉3-10-10

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満願寺から50mほど東、斜め左に細い道を入ると左手に金泉寺の入口があった。
長い参道の奥に山門が見える。

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参道の中ほど、右側に六地蔵と二基の石塔が並んでいた。

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右 地蔵菩薩立像 寛保3(1743)光背の左右に合わせて28文字の偈文を刻む。

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足元の蓮台の正面に施主二人の名前、側面に造立年月日が刻まれていた。

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六地蔵菩薩立像 文化2(1805)右端 蓮台を欠いていて小さく見えるが、像自体は
他の五体と変わらない。丸顔でとぼけた表情が味わい深い。

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それぞれの台の正面に二行、四文字の銘が刻まれている。右端の台の側面に年号。
左端の台の側面に施主本邑とあり個人名が刻まれていた。

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左 納経供養塔 宝暦9(1759)正面「奉納大乗妙典供養塔」その脇に天下泰平
國土安全と刻む。塔の左側面に施主個人名が刻まれていた。

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塔の右側面 西國四國秩父坂東湯殿山。続いて年号。その下に願主 快円と刻む。
裏面 敷石一合一銭施主さらに上新倉村 内間木檀中 下新倉檀中。その下には
願主 快円 吉田喜右衛門と刻まれている。この内間木は朝霞の内間木だろう。
新河岸川を挟んで隣の地域でもあり、不自然ではない。江戸時代ムラ同士の
交流があったのだろうか。

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さらに奥に進むと山門の左側に三基の石仏が並んでいた。

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左 庚申塔 元文4(1739)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。頭の上には蛇か。
全体に彫りはしっかりしていてバランスも良く、とても立派な庚申塔だ。

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個性的な表情の邪鬼。両脇の二鶏も丁寧に彫られている。その下に三猿。

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塔の右側面「奉造立庚申供養塔」その両脇に造立年月日を刻む。

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左側面には 武州新座郡講中 下新倉村 十五人と刻まれていた。

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中 地蔵菩薩立像 正徳2(1712)左手の宝珠を欠くが威厳のある立ち姿である。

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下の台の正面「奉彫修地蔵菩薩」で始まる五行の銘文。右側面に年号。

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左側面には武州新倉郡下新倉村 願主 西入敬白。さらに四名の名前を刻む。

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右 丸彫りの地蔵菩薩立像。右手に錫杖、左手に宝珠。端正な丸顔が印象的。
下の台の正面には四行九文字の偈文が刻まれていた。

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右側面 武州新座郡下新倉村 祥光山金泉禅寺 現住 碩峯叟。

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左側面 下のほうに柳下女子お俊、柳下外記、内間木村檀中、當村檀中と
刻まれている。造立年月日が見当たらない。右側面に見える金泉寺住職
碩峯の没年は享保17年(1732)という記録が残っているという。したがって
この地蔵像の造立年はそれ以前ということになるだろう


東林寺 和光市新倉2-4-46

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和光市駅から和光高校に向かう県道88号線の新倉東小学校の向かい側に東林寺の
入口があった。長い参道を進むと飾り気のない山門の向こうに本堂が見える。

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山門を入ってすぐ左側、塀の前に石塔が整然と並んでいた。

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左から 雨よけの下 地蔵菩薩立像 享保6(1721)まん丸な愛嬌のある顔立ち。
左手に宝珠、右手には数珠を持っているようだ。

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台の正面は風化のため文字が見えない。資料によると年号が刻まれていたらしい。
右側面 川島氏三人。施主だろうか?左側面には武州上新倉と刻まれている。

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隣 地蔵菩薩立像 明治26(1893)蓮台の色が違うのは補修されたものか。

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頭の後に日輪光背、右手に錫杖、左手に宝珠。よく見る地蔵顔と違い、かなり
個性的な顔。じっと見ていると、どこかで会ったことがあるような気がした。

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塔の正面「地蔵尊」と刻まれている。右側面 峯久保念佛講中。峯はこの地域の
旧ムラ名、峯久保は、より細かい地区の名前だろう。左側面に年号。下の台の
両側面には願主法印良寛をはじめ、合わせて二十数名の名前が刻まれていた。

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その隣 庚申塔 文政7(1824)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。

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像の表面は磨耗していてはっきりしない。こけしのようなショケラ。足の両脇に
薄く二鶏か?足元の邪鬼も三猿も表情まではうかがうことができない。

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右側面に年号。左側面には上新倉邑峯講中と刻まれている。

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一番奥に石祠が三角形に並んでいた。三基でひとつのような並び方だが
屋根の形もそれぞれだし、たまたま一緒に集められたのだろう。

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左手前 祠の中には文字が見えない。台の正面 峯組代参講中と刻まれていた。
代参講は富士講、御嶽講、大山講、伊勢講などが考えられる。この祠の正体は
はっきりしないが富士浅間神社、御嶽神社あたりだろうか。

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右手前 こちらも祠の中に文字が確認できない。右側面に明治43年の銘がある。
続いて世話人二名。下の台の正面には「峯漆台代参(?)講中」と刻まれていた。
こちらの祠もその正体はわからない。

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奥の石祠は正面に「牛神社」とはっきり読める。屋根も一際立派な作り。

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台の正面に「牛講中」馬持中の馬頭観音はよく見るがこちらはとても珍しい。
馬に替わって牛が農耕や運搬に利用され始めたということだろう。右側面に
十数人の名前。さらに大正十三年三月建之。続いて 新倉講と刻まれていた。

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左側面にも講員連名として26名の名前。さらに裏面に29名の名前。合わせると
70名ほどの人たちが関わっていたことになる。最後に石工名が刻まれていた。


漆台地蔵堂 和光市新倉2-15

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和光市駅から和光高校方面へ向かうバス通り、漆台バス停の脇に地蔵堂がある。
堂に向かう道の左側に石塔が並んでいた。左から小さな地蔵菩薩像が四体続く。
それぞれに宝永7(1710)宝暦5(1755)享保15(1730)宝暦3(1753)の銘があるが、
いずれも個人の墓塔であった。

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その奥に地蔵菩薩立像 寛文6(1666)光背上部に梵字「カ」顔の両脇に造立年月日。
さらに右脇[敬白奉造立地蔵一躰大願 東輪寺」その下に武州上新倉村と刻まれる。
左脇「所造立念佛供養如件」その下には 念佛衆十六人と刻まれていた。


漆台不動滝前 和光市新倉1-14

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いろいろな情報をもとに歩き回ったのだが「漆台の不動滝」がみつからない。
やっとみつかったこの場所は県道88号線の漆台バス停のあたりから南の谷に
降りていってとても細い道に入り込まないとたどり着けないところだった。

庚申塔の奥が不動滝らしいが、下草が多いので先に進むことはできない。

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庚申塔 嘉永6(1853)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。

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瑞雲も力強く、ドクロを額にした青面金剛は個性的な顔立ちをしている。
全体に彫りは細かく、とても生き生きとしている。

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足元の邪鬼はちょっととぼけたような顔をしていて見ているだけで楽しい。
三猿は下の台の正面に彫られていた。

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塔の右側面に年号、その下に上新倉村。左側面「天下泰平 國土安穏」と刻む。

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三猿の彫られた下の台の左側面には世話人として2名の名前。続いて講中とあり、
12人の名前が刻まれていた。右側面にも14人の名前があり合わせて28人になる。