石神井台の石仏

富士街道石神井学園前交差点角 練馬区石神井台2-35


大泉学園駅からまっすぐに南に向かい新青梅街道に出る道と富士街道の信号交差点、石神井学園前交差点の南東の角に小堂が立っていた。


丸彫りの地蔵菩薩立像。銘は見当たらず詳細は不明。風化が進み顔は溶けて錫杖も欠けていたが、立ち姿はどっしりとしていて存在感がある。

庚申塚
 練馬区石神井台5-22


上のお地蔵様の立つ交差点から南に進むと、旧早稲田通りとの「庚申塚」交差点の角に小堂があり、その中には四基の石塔が並んでいた。


左から光明真言供養塔 正徳元年(1711)大きな舟形の石塔の中央、光明真言曼荼羅の下に「奉念誦光明真言供養」右脇に武州豊島郡上石神井村、左脇に造立年月日。さらに両脇に講中 敬白。下部に十数人の名前が刻まれている。


その隣 庚申塔 元禄(1692)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。がっしりとした体形の三眼の青面金剛。右脇「奉造立庚申石佛為二世安樂也」左上に造立年月日。左下に上石神井村 結衆廿八人。足の両脇に二鶏を半浮彫。下部に三猿。元禄の庚申塔、やはり邪鬼は見当たらない。



続いて回国供養塔 享保7(1722)角柱型の石塔の正面「奉納大乗妙典六十六部日本廻國成就之處」上部両脇に天下和順・日月清明。塔の左側面、上部に佛法繁盛 五穀成就。その下に當所 行者とあり、続いて個人名。右側面上部に災厲不起 國豊民安。その下に造立年月日が刻まれていた。


右端 庚申石灯籠 元文5(1740)笠付きの角柱型の石塔の正面「奉納石燈籠壹基」両脇に造立年月日。両側面は銘が読みにくい。左側面には庚申待講中十・・・・下が見えない。右側面は小堂の側面の板の隙間からかろうじて見えるのは、武州豊島郡上石神井村。その脇に小さく地名が刻まれているようだが確認できなかった。

富士街道 旧早稲田通り交差点西三差路 練馬区石神井台6-14


富士街道 石神井学園前交差点の400mほど西。三差路の角のところに小堂が立っていた。


小堂の中、丸彫りの地蔵菩薩立像 宝永3(1706)顔はのっぺらぼうで、錫杖は欠けている。


お地蔵様の袖の部分に銘。右袖に造立年月日。左袖には梵字「カ」の下に「奉造立念佛供養二世安樂處」と刻まれていた。

石神井台小学校東三差路 練馬区石神井台8-21


上の三差路の次の信号交差点を左折、南に少し進むと、右手の三差路の角に小堂が立っていた。


地蔵菩薩立像 寛政6(1794)舟形光背に延命地蔵を浮き彫り。台の正面に「奉納」と刻まれている。



目鼻も定かでない丸い顔は、いたずらだろうか一部黒く塗られ、錫杖の半分は欠けていた。光背右脇「奉唱滿□□大光明真言成就二世安樂處」左脇に造立年月日。その下に左 田なし道。やはりこのお地蔵様も道端に立ち、道標の役割を果たしていたのだろう。

 

道場寺 練馬区石神井台1-16


豊島橋交差点から旧早稲田通りを西に向かい、石神井図書館のある大きな信号交差点を越えてすぐ、道路右手に道場寺の入り口があった。石段を2回上がって山門、その先もう一度石段を上がって本堂の前に出る。

山門の向こう、参道の左側に大きな三重塔が立っていた。


本堂の左側が墓地になるが、墓地入口は閉まっていて一般の人は入ることはできない。その入り口の左側奥、三重塔の裏、頂上に新しい丸彫りの大地蔵菩薩坐像を置いた三界萬霊塔が立っていた。六つの面にたくさんの墓石が整然と並んでいる。正面には最上段から最下段まで舟形光背型の墓石が集められていた。全部を確認したわけではないが、江戸時代初期の古い石仏が多く、地蔵菩薩、聖観音菩薩、如意輪観音菩薩などがほとんどだ。個人の墓石も含めて目についたものを紹介したい。


正面中央二段目、舟形光背型の墓石が並ぶ中に七観音供養塔 安政年間造立。角柱型の石塔の正面上部に円形の頭光背を持つ合掌型の観音菩薩坐像を浮き彫り、隣の墓石との隙間が無く側面は見にくいが、右側面にかろうじて「安政」左側面に「十七人」の銘が確認できた。


時計と逆回りに見てゆこう。2番目の面は文字塔の墓石が集められ像塔は見当たらない。3番目の面は上部二段に文字塔の墓石が並び、下の4段は右端に三基の石仏があるだけで、他は空いていた。


右端前 馬頭観音立像 元禄6(1693)光背右脇「奉造立馬頭観音像一尊為牛馬佛果□也」横に施主は個人名。光背左脇に造立年月日。続いて武州豊島之郡下石神井村。その横にまた施主とあり、違う名前が刻まれていた。


足元の部分には九名の名前。続いて同行貳百六十三人敬白。これだけ立派な石仏が施主ふたりというのは不自然で、光背に刻まれた二名は世話人か願主なのだろう。この馬頭観音塔の造立にあたって多くの人たちの協力があったのは間違いない。


静かな表情は慈悲相というべきか。馬口印を結び、頭上の馬頭も明確である。


大地蔵の背面の下に納骨堂の入口があった。その左脇には門番のように四基の舟形光背型の地蔵菩薩立像が並ぶ。いずれも墓石だ。


二段目 地蔵菩薩立像 元禄7(1694)円頂、白毫、錫杖、宝珠、欠損なく整っていて美しい。


納骨堂入口右脇には三基の大型の舟形光背を持った聖観音菩薩塔。


上段に聖観音菩薩立像 寛文12(1672)白カビが目立つが、豊かで均整の取れたお姿は気品がある。


4番目の面はまた文字塔のみ。5番目の面は最上部と下の2,3段に像塔が並んでいた。


最下段の右から2番目 如意輪観音坐像 万治元年(1658)上のほうの石仏までは確認できないが、おそらくここではもっとも古い石仏の一つだろう。頭上の梵字は「キリーク」か。


その上の段 薬師如来坐像 元禄3(1690)両手で腹の前に薬壺を持ち、頭上の梵字は「バイ」墓石に薬師如来像は珍しい。


旧早稲田通り沿いに続く道場寺の石塀。その南西の角のところに丸彫りのお地蔵様が立っていた。


地蔵菩薩立像 享保6(1721)今は雨除けの下に立っているが、かつては路傍にあって風雨にさらされていたのだろう、顔は溶けてのっぺらぼうで、錫杖、宝珠も欠いている。蓮台、敷茄子は重厚で本格的。


台の正面 銘は薄くなっていて読みにくい。中央「奉造立地蔵大菩薩」両脇に造立年月日。


台の右側面 下石神井村 講中三十一人、上石神井村三人。立派な講中仏だったのだろう。


台の左側面には 江戸 武州豊島郡 一蓮托生と刻まれていた。

 

三宝寺 練馬区石神井台1-15-6


旧早稲田通りに面した三宝寺の入口。左脇には自然石に「三宝寺」と刻まれた寺標。参道に二対の大きな石灯籠が並んでいた。参道右側に丸彫りのお地蔵様が見える。


地蔵菩薩立像 寛政3(1791)基壇の上に二重の台を重ね、さらに厚い敷茄子、大きな蓮台の上に丸彫りの地蔵菩薩像。風化が進み錫杖は欠けていた。頭部は後から補修されたものだろう、左に傾いていて、お地蔵様は空を見上げる形になっている。


厚い敷茄子の正面に亀の浮き彫り。三宝寺の山号「亀頂山」にちなんだものだろう。


下の台の左側面に銘が刻まれていた。右から施主 武州多摩郡 上井草村、続いて個人名とその横に「婦」さらに凌空知圓。最後に造立年月日。大きな石地蔵だが個人で奉納したものだろうか?


石燈籠の先に山門。脇の解説板によると、文政10年(1827)の古いもので練馬区登録文化財。江戸時代に将軍徳川家光が鷹狩の際にここ三宝寺を休憩地としたことから、この山門は「御成門」と称され、庶民の通行を禁じていたという。


山門の東は広い駐車場になっていて、さらにその右側に勝海舟邸から移築されたという長屋門があった。


長屋門の右脇に庚申塔 元禄13(1700)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。


口をへの字にして不満そうな青面金剛の顔。光背右脇に「奉造立庚申講」その下に武州豊島郡。左脇に造立年月日。


足元に邪鬼の姿は無く、三猿だけが彫られていた。このあたりの元禄期の庚申塔のスタンダードな構図と言えよう。三猿の下の部分、右端に願主 同行八人。中央に三行。真ん中に本願とあり個人名。右は下石神井道場寺村、左は上石神井大門村。左端に同行廿四人と刻まれている。道場寺村から同行8人、大門村から同行24人ということではないだろうか。


長屋門の左脇に寺標 嘉永5(1852)塔の右側面に「為先祖代々菩提也」とあり、有力な檀家が個人で奉納したものらしい。


山門の正面 不動明王が祀られた本堂の手前に一対の大きな石灯籠が立っていた。


石燈籠 正徳3(1713)笠、火袋、中台、反花の付いた基礎は六角形で、火袋に三つ葉葵の紋、中台の六面に蓮の花が彫られている。


円筒形の竿部に「奉納石燈籠四基」その横に東叡山、長昌院殿尊前。東叡山は上野の寛永寺の山号。長昌院は徳川6代将軍家宣の生母。高野台の長命寺境内でも芝増上寺の徳川家墓前にあった石灯籠が見られたが、こちらも同じように上野寛永寺の墓前から移されたもののようだ。あるいは御朱印寺だけに許されたことだろうか。

 


本堂の手前から西の墓地へ向かう石畳の道を歩いてゆくと参道右側の石垣の上に石塔が並んでいる。右端の四角い石塔は庚申塔の由来が刻まれ、その隣は正面に「弘法大師」と彫られた道標だった。


庚申塔 元禄9(1696)舟形光背型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。右端の石塔に刻まれた庚申塔の由来によると、もともとは下石神井にあったものが、地域の急激な都市化に伴い、昭和47年にこちらに移されたものだという。光背の両脇に造立年月日が刻まれていた。


足の両脇に二鶏を浮き彫り。足元の邪鬼は目を吊り上げて正面をにらむ。邪鬼の下に三猿。その下の部分に施主 同行十八人と刻まれている。


六地蔵菩薩立像 享保18(1733)こちらも以前は下石神井にあったもので、昭和35年に三宝寺に移されたものだという。台のサイズの違いで不揃いのように見えるが像の様子はよく似ている。三基の光背に銘が刻まれていた。


右から3番目 光背両側面に4つの戒名。


5番目 光背右脇に「観音組講中」


左端 光背右脇に造立年月日が刻まれている。


六基の足元の銘はどれも同じだが、これがちょっと面白い。三枚の蓮の花弁に右から「下」中央「神井村」左に「石」組み合わせると「下石神井村」となる。


本堂の左側に「四国八十八ヶ所お砂踏霊場」の入口があった。本堂の西北にある奥の院、大師堂の周辺の森の中に四国の八十八ヶ所霊場を表す八十八の石塔が立っている。それぞれの石塔の前の土の中に霊場の「お砂」が埋められていて、その「お砂」を踏みながらお参りすることで、実際に四国霊場遍路をしたのと同じようなご利益が得られるとしたものらしい。写真の石階段の左脇に第1番。第2番の石塔が立っていた。


大師堂参道の周辺の細い道を歩き回り、それぞれの石塔にお参りして戻ってきて最後に手を合わせるのはこちら、四国第八十八番 薬師如来を本尊とする大窪寺の石塔。石階段の右手に立っている。


上の写真のさらに左側、六地蔵塔の裏あたりに大きな自然石に「弘法大師」と彫られた石塔が立ち、四国八十八ヶ所霊場の入口を表している。右脇に二基の石仏が並んでいた。


左 阿弥陀如来立像 寛文8(1668)鋭い舟形光背を持つ。静かな立ち姿。頭部が破損していて痛々しい。


右 宝冠をかぶった胎蔵界大日如来坐像。塔の右側面に「大日堂本海坊本尊」紀年銘は見当たらない。


石階段のその先には根本大塔がたっている。階段を登り切ってすぐ右手に二基の丸彫りの石仏が並ぶ。右は閻魔大王像、左は僧形の坐像だが、正体は不明。いずれも紀年銘などは見当たらなかった。


階段の先の根本大塔の手前を右に曲がると大師堂の入口。参道の両脇、木々の間に四国八十八ヶ所霊場の石塔が見える。


森の奥、ひっそりと建つ大師堂。昭和48年建立。


その右奥の一角に長命寺でも見かけた十日講引導者像。明治時代末期に盛んだった講のようだ。


六地蔵の前を通る墓地への道は緩い上り坂になっていて、登り切ったあたりは広い空間が開けている。左側一帯は広い墓地、右側手前に根本大塔、右奥に如意輪観音を祀った観音堂、正面には大きな丸彫りの観音様。


正面 「平和観音」と名付けられた真新しい十一面観音立像。雄大な景色である。

手前の美しい根本大塔は平成8年造立の木造多宝塔。この大塔の北、観音堂の右脇におびただしい数の無縁仏が集められていた。

 


根本大塔の裏、観音堂の右におびただしい数の石塔が並んでいる。そのほとんどは無縁仏だった。石塔群の裏は大師堂の周辺、「四国八十八ヶ所お砂踏み霊場」の森になる。手前からまっすぐ、西向きに四段。最下段はすべて像塔で、数えてみると123基、上の段のほとんどは文字塔で、四段合わせると500基ほどであろう。突き当りには南向きに百基ほどの石塔が並ぶ。歴史のあるお寺にふさわしく江戸時代初期の素朴で美しい石仏が多く見られる。如意輪観音、聖観音、地蔵菩薩まで見てゆくときりがないので、ここでは主にその他の目につく石仏を紹介してゆこう。ほとんどが個人の墓石でもあるし、取り上げる数も多いのでコメントは簡単にしたいと思う。


最下段の4番目 阿弥陀如来坐像 元禄5(1692)光背上部「キリーク」阿弥陀定印。以下、特に断りのない場合は最下段の石仏とする。


8番目の上、不動明王坐像 造立年不明。墓石に不動明王は珍しい。


14番目 胎蔵界大日如来坐像 元禄5(1692)光背上部「アーンク」法界定印。


16番目 阿弥陀如来立像 寛文6(1666)キリーク。来迎印。


22番目 地蔵菩薩立像 元禄6(1693)足元に「念佛同行」の銘あり。


47番目 阿弥陀如来立像 元禄12(1699)種子は「ア」来迎印。


50基並んだところで一休み。これは番外として自然石の三界萬霊塔 明治11(1878)


次は51番から90番までが続く。52番目 聖観音菩薩立像 延宝5(1677)光背右上に「奉念誦光明真言十万遍」


78番目 阿弥陀如来坐像 元禄4(1691)光背上部にキリーク。阿弥陀定印。


85番目 馬頭観音立像 宝暦4(1754)一面六臂。光背右上を欠く。「奉彫馬頭観音尊像」施主 個人名。


馬口印を結び忿怒相。頭上の馬頭もくっきり。


90基続いてここで一休み。ここも番外とする。


最上段 馬頭観音塔 明治12(1879)自然石に「馬頭觀世音」


中ほどに不動明王坐像。造立年不明。小型だが彫りは細かく丁寧。火焔光背の前に剣、羂索を持つ不動明王坐像。下の台の中央「成田山」その両脇に二童子という構成だが左の制吒迦童子のみ健在で右の矜羯羅童子は破損、欠落していた。


続いて91番から123番。109番 金剛界大日如来立像 元文2(1737)種子は「ア」智拳印。


115番目 小首をかしげた阿弥陀如来立像 元禄5(1692)光背上部「キリーク」来迎印。


120番目 金剛界大日如来立像 享保19(1734)光背上部「バン」智拳印。


121番目後ろ 金剛界大日如来坐像 享保9(1724)光背上部「ア」智拳印。


122番目後ろ 金剛界大日如来立像。紀年銘、種子欠損。智拳印。


123番目 西向きに立つ石仏群の左端 阿弥陀如来立像 元禄5(1692)光背上部は破損。「来迎印」


正面には南向きに百基ほどの石仏。写真はその右半分。


最上段 角柱型の馬頭観音塔 安永9(1780)石塔の正面 上部に梵字「カン」 その下に「南無馬頭觀世音菩薩」高さは2m近い。練馬区の馬頭観音としては初めての文字塔だという。


前列 馬頭観音塔の前あたり 阿弥陀如来立像 延宝元年(1673)光背上部「キリーク」来迎印。


正面に南向きに並ぶ石塔群の左半分。文字塔が多く像塔は2.3段目に集まっている。


3段目右のほうに阿弥陀如来立像 万治元年(1658)光背上部「キリーク」来迎印。ほっそりとした均整のとれた体形。静かに佇む姿が美しい。ここに並ぶ石仏の中では最も古いもののひとつだと思われる。

以上、600基ほどの無縁仏から像塔のみ、その中でも主に寛文、延宝、元禄あたりの江戸時代初期の石仏を見てきたが、そのほとんどがそれほど風化は進んではいない。この時期の素朴な石仏は本当に美しい。

 

閻魔堂墓地 練馬区石神井台7-18


新青梅街道の上石神井団地交差点の100mほど西、細い道を南に入りしばらく行くと右側に閻魔堂墓地の入り口があった。階段を上がって境内に入ると両側に墓地があり、正面には閻魔堂がたっている。参道両脇に石仏が並んでいた。


参道右脇 南向きに七基の舟形光背型の観音菩薩像。手前の六基は白カビが目立つ。


右から十一面観音菩薩立像 貞享5(1688)光背上部に梵字「キャ」頭上の十一面はくっきり。尊顔は柔和で慈愛に満ちている。右手に杖のようなものを持ち、左手は破損の為不明。光背も一部欠けているが銘はしっかりと残っていた。光背右脇「念佛道行六十六人」その下に小関村。左脇に造立年月日。


2番目 馬頭観音菩薩立像 貞享4(1687)光背上部に梵字「カン」馬頭観音特有の馬口印を結ぶかわりに、右手に槌のようなもの、左手は数珠?を持っている。長命寺の明暦元年の馬頭観音も右手に鈴、左手与願印だったが、初期の段階では馬頭観音=馬口印という図式は確立していなかったのだろうか。光背右脇「念佛道行六十六人」その下に小関村。左脇に造立年月日。右隣の十一面観音とは造立年が一年ずれるが銘は全く同じ。


頭上の馬頭は明確。近づいてみると三眼・忿怒相の馬頭観音のお顔は凄みがある。


3番目 観音菩薩立像 貞享5(1688)光背上部が欠けていて種子は確認できない。合掌型というだけでは判断できず尊名は不詳。光背右脇「念佛道行六十六人」その下に小関村。左脇に造立年月日。


4番目 観音菩薩立像 元禄2(1689)隣と同じように合掌型の観音様。丸顔だが理知的なお顔。種子は確認が難しくやはり尊名不詳。光背中央に断裂跡が見える。光背右脇「念佛道行六十六人」その下に小関村。左脇に造立年月日。


5番目 聖観音菩薩立像 貞享4(1687)左手に未敷蓮華を持ち右手与願印。光背右脇「念佛道行六十六人」その下に小関村。左脇に造立年月日。


6番目 准胝観音菩薩立像 貞享4(1687)胸のあたりで合掌。腹のあたりに壺を持ち、光背と合わせて八臂。光背右脇「念佛道行六十六人」その下に小関村。左脇に造立年月日。


左端 如意輪観音菩薩坐像 元禄元年(1688)目鼻が整いきりっとした顔立ち。石質のちがいなのだろうか、これだけは白カビが少なかった。光背右脇「念佛道行六十六人」その下に小関村。左脇に造立年月日。結局、ここに並ぶ七観音は小関村66名の念仏講中が貞享4年(1867)から元禄2年(1689)にかけて次々と建て加えていったものと考えられる。


参道左脇、七観音に向き合うように六地蔵菩薩が立っていた。その奥に小さな角柱型の石塔が見える。


六体のお地蔵様は、いずれも舟形光背に地蔵菩薩立像を浮き彫り、光背左脇に紀年銘が刻まれている。左端から地蔵菩薩立像 寛文11(1671)合掌型。尊顔は豊かで優しい。鋭角的な光背の右脇には「右志者女三十八人男廿二人」


2番目 地蔵菩薩立像 寛文11(1671)両手で胸の前に宝珠を持つ。卵型のお顔でややうつむき加減。丸みを帯びた舟形の光背の右脇に「奉寄進・・・・・」下のほうは白カビも多くうまく読み撮れない。


3番目 地蔵菩薩立像 寛文11(1671)六地蔵の持物にはさまざまなものが考えられるが、このお地蔵様の場合は、なにか布切れのようなものを胸のあたりから垂らしているように見える。これは初めて見る形だ。やや鋭角的な舟形光背の右脇「右意趣者・・・・」こちらも下のほうは風化の為に読み切れない。


4番目 地蔵菩薩立像 寛文12(1672)両手で斜めに金剛幢を持つ。他の5基の種子は「カ」だが、こちらは頭上に六地蔵を表す梵字「イ」が刻まれていた。上のほうが丸みを帯びて幅の広い舟形光背の右脇に「為大安?」とありその下に禅定門、禅定尼、二つの戒名が見られる。ご夫婦だろうか。


5番目 地蔵菩薩立像 寛文11(1671)錫杖と宝珠を持つ。ちょっと幅の広い舟形光背の右脇「右志者為三界萬霊也」


6番目 地蔵菩薩立像 寛文12(1672)光背上部を欠く。光背は幅が狭く、炎魔幢を手にしたお地蔵様も窮屈そうに立っていた。光背右脇には「□春禅定尼菩提也」と刻まれている。以上、六体のお地蔵様は光背の様子、銘の内容が少しづつ違っていて、何人かの人たちが施主になり、2年間の間に協力して六地蔵を完成させたということだろう。


六地蔵の奥に馬頭観音塔 昭和12(1937)角柱型の石塔の正面「馬頭觀世音」塔の左側面に造立年月日。続いて建主とあり個人名が刻まれていた。

 

新青梅街道石神井台四丁目交差点東 練馬区石神井台4-4


新青梅街道の石神井四丁目交差点のすぐ東の道路南側、白いフェンスで囲われた空き地のような場所にぽつんぽつんと墓石が立っている。どうやらここは墓地のようだ。


中央が塚になっていて、その頂上に唐破風笠付きの庚申塔が立っていた。塚の頂上は狭く、周りは急斜面のため写真を撮るのは結構大変だ。


庚申塔 元禄5(1692)角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。カビや苔がほとんど見られず、彫りもはっきりしていて美しい。三眼の青面金剛は目を剥き口をへの字にしてにらむ。髪には蛇が巻き付き、頭頂から蛇の首が垂れている。元禄期の青面金剛らしく磐座に立ち邪鬼は不在。磐座の下に比較的大きな三猿が彫られていた。


塔の右側面に大きな雄鶏を半浮彫。上下にまたぐように「奉造立庚申供養二世安樂所」さらに武州上石神井村と刻まれている。


左側面に造立年月日。その下に雌鶏を半浮彫。さらに同行十八人敬白。下の台の正面と両側面には蓮が彫られていた。

小関庚申塚 練馬区石神井台7-10


西武新宿線武蔵関駅の東を南北に走る関町庚申通り。駅から100mほど歩き石神井川を越えて初めての信号交差点「庚申橋北」を右折すると、すぐ左手に庚申塚がある。「庚申通り」「庚申橋」の名称はこの庚申塚からつけられたのだろう。


入口の石階段を上がると正面に庚申堂。手前両脇に大きな一対の猿が門番のように立っていた。


こちらは左脇の猿。御幣をかつぎ「奉納」と刻まれた台の上に座る。


お堂の中、庚申塔の前にも二対の猿。手前の猿は合掌、後ろの猿は御幣を持ち左右対称に座っていた。


笠付きの庚申塔 元禄4(1691)角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。


青面金剛像の彫りは細部まで美しく残っていて、300年以上前のものとはとても思えないが、塔の側面の風化、摩耗の様子から考えると新しく再建したものとも考えにくい。三眼・忿怒相の青面金剛。髪の中になにか紋章のようなものが見える。首飾り、腕輪、足首にも装飾品を着け、大きなショケラの髪をむんずとつかみながら磐座の上に立っていた。


足の右脇「奉寄進庚申供養」左脇に造立年月日。磐座の下に三猿だけが彫られ、邪鬼、二鶏は見当たらない。三猿の下の部分には右から左へ「小関村同行二十五人」と刻まれていた。