岩槻区末田

浄音寺 岩槻区末田2239


笹久保通りの末田交差点の西、高曽根公民館の東隣に浄音寺がある。奥の墓地には本堂の左側からまわって入ってゆくことになるが、その本堂左脇にたくさんの無縁仏が集められ、左の端に二基の石塔が立っていた。


左 地蔵菩薩立像 寛文3(1663)立派な舟形の光背上部に梵字「カ」を刻み、その下に端正な地蔵菩薩立像を浮き彫り。多少の白カビは見られるが、時代の割には美しい。光背右脇「奉造立地蔵菩薩為念佛講中二世安樂也」左脇に造立年月日。その下には結衆拾二人敬白と刻まれている。



右 六地蔵石幢 享保12(1727)笠付の六面石塔の各面に地蔵菩薩立像を浮き彫り。台の正面に銘があるが線香立てにさえぎられて写真は撮れなかった。資料によると「奉造立六地蔵尊念佛供養講中男女七十三人現世安穏後生善所施主敬白」と刻まれているらしい。


墓地のほうに入ってゆくとまず三体の丸彫りの地蔵菩薩立像。三体はサイズも様子も似通っていて、六地蔵かと思えるのだが・・・周りを探してみると右奥にも三体の地蔵菩薩立像が並んでいるのが目に入った。


六体揃って六地蔵かと思われるが、台にも像にも銘が確認できず、本当のところはわからない。こちらの三体の隣には舟形の光背を持つ石塔が立っていた。


阿弥陀如来坐像 寛文3(1663)光背も像も白カビにまみれている。光背右脇に造立年月日。左脇「為寒念佛供養?□□□」蓮台の正面にも「村」などの文字が見えるが読み取ることは難しい。

永代橋西路傍 岩槻区末田2365


県道48号線の永代橋交差点から西に200mほど歩くと、道路左側ちょっと奥まって二基の石塔が立っていた。


左 地蔵菩薩立像 元文元年(1736)台石の上に角柱型の石塔、その上の蓮台に舟形の光背を持った合掌型の地蔵菩薩立像。


光背のほぼ中央で二つに折れた跡があり、光背にも像にも破損が見られる。顔の一部も削れていて、地蔵菩薩らしい雰囲気はあまり感じられない。


塔の正面に「奉造立延命地蔵菩薩」右脇に造立年月日。左脇には末田村とあり、願主一名の名前。塔の左側面は無銘。右側面上部に四十八日参、その下に末田村、高曽根村、野嶋村、孫十郎新田と刻まれていた。


右 馬頭観音塔 明和3(1766) 塔の正面 上部に梵字「カン」中央に「馬頭觀世音」
両脇に造立年月日が刻まれている。

永代橋東路傍
岩槻区末田1929


永代橋交差点から50mほど東、県道48号線から左に金剛院方面へ向かう枝道がある。その入り口付近に二基の石塔が立っていた。


右 地蔵菩薩立像 寛文3(1663)舟形の光背の最上部に梵字「カ」その下に地蔵菩薩立像を浮き彫り。錫杖の先と宝珠は欠けている。光背右脇「為百堂参衆中二世安樂也」その下に講中と刻む。光背左に造立年月日。その下に二文字あるが願主名だろうか。


左 馬頭観音塔 明治43(1910)塔の正面「馬頭觀世音」左側面に造立年月日。続いて二名の名前。右側面には有志とあり、その下に四名の名前が刻まれていた。    

末田交差点東共同墓地 岩槻区末田1634付近

 

県道48号線の末田交差点から越谷方面に向かい、200mほど先の信号交差点を左折する。しばらく行くと左手に小さな墓地があった。その入り口付近に三基の石塔が並んでいる。


右 六地蔵塔 安永7(1778)塔の前面、白カビの中に六体の地蔵菩薩立像。


塔の左側面に造立年月日。右側面には願主 末田村とあり、三名の名前が刻まれていた。


中央 阿弥陀如来坐像。笠付角柱型の石塔の前面を彫り窪めた中、上部に阿弥陀如来坐像を浮き彫り。風化のために像の様子は今一つはっきりしない。


その下、中央に蓮の花を彫り、その右脇に「為十方檀靈一切含識」左脇に「殊者二親成三菩提也」あまり見かけない銘文だがどういう意味になるのだろうか。塔、台ともに紀年銘は見当たらなかった。


左 百堂供養塔 万治2(1659)下部に蓮を彫った板碑型の石塔の正面、梵字「ア」の下に銘文。


中央に「為百堂参衆中二世安樂也 欽白」その両脇に造立年月日が刻まれている。

鷲宮神社 岩槻区末田1966


末田交差点のすぐ東にある鷲宮神社。その東脇を通る細い道に向いて庚申塔 寛延3(1750)が立っていた。正面上部両脇に日月雲。青面金剛立像 合掌型六臂。その表情も立ち姿もどこか穏やかな印象を受ける。足の両脇に二鶏、足下に邪鬼。塔は深く埋まっていて、三猿は土の中だろう。


塔の右側面「奉建立庚申供養」続いて天下泰平・國土安全。左側面には造立年月日。その脇に末田中組施主女貮拾六人と刻まれている。

鷲宮神社北西路傍 岩槻区末田2011向


鷲宮神社の東の道を北に歩くとT字路に突き当たる。右手前の角の所にポツンと石塔が立っていた。写真右の道は鷲宮神社へ、左の道を行くと金剛院に着く。


地蔵菩薩坐像 文化10(1813)塔の正面上部に地蔵菩薩坐像を浮き彫り。その下「地蔵菩薩建立」両脇に造立年月日。右端に南 のじま五丁、左端 願主 即浄。


塔の左側面 上部に右 いわつき じおんじ、左 こしがや。右下に個人名。


右側面には世話人とあり、その下に三名の名前が刻まれていた。

 

金剛院 岩槻区末田1899

 

 


県道48号線を永代橋交差点から東に向かい、すぐ先を左に入る枝道を進む。途中、前回見た地蔵菩薩塔を右に見てさらに道なりに進むと、左手に金剛院の立派な山門があった。山門の先は本堂まで長い参道が続き、左側が大きな墓地になっている。参道途中、左手に比較的新しい意地地蔵が立ち、その奥には水汲み場がある。


水汲み場の前に多くの無縁仏や石塔が集められていた。前列右端に変わった形の石塔が見える。


六地蔵塔 安永5(1776)上部に破風を施した石塔の正面、縦二列に六体の地蔵菩薩像を浮き彫り。小さいながらも目鼻立ちもくっきりと美しい。右脇に造立年月日。左脇に二名の法師名と童子の戒名が刻まれていた。


無縁仏群の右側に六基の馬頭観音塔が並んでいる。


左端 馬頭観音塔 天保6(1835)?正面に「馬頭觀世(音)」両脇に造立年月日。下部は彫りがはっきりしない。


右隣 馬頭観音塔 紀年銘など見当たらず詳細は不明。


さらに馬頭観音塔。文字塔でこちらも詳細は不明。


続いて馬頭観音塔 宝暦元年(1751)紀年銘以外の銘は確認できない。


その隣 馬頭観音塔 寛延4(1751)正面に「馬頭觀世音供養塔」両脇に造立年月日。


一番右 馬頭観音塔。三面二臂の像塔で両脇に文字が見えるがうまく判読できなかった。ここに並んだ六基のうち、資料「岩槻市史」(S59発行)に記載があるのは左端の天保年間の馬頭観音のみで、他の五基は取り上げられていなかった。その後、近くから移されたものだろうか。


参道を進むと途中左側に六地蔵菩薩立像が並んでいた。丸彫りの六体はサイズや像容がよく似通っていて、また足下の蓮台、敷茄子、台石もほぼ同じもののように見える。


敷茄子の側面と裏面にそれぞれ戒名などが刻まれているが、残念ながら紀年銘は確認することができない。


さらに進んで本堂近く、やはり参道左側に宝篋印塔と地蔵菩薩立像が並んでいた。


左 地蔵菩薩立像 寛政5(1793)カビや苔にまみれてはいるが大きな欠損もなく堂々とした姿で立っている。


台の正面「奉造立延命地蔵菩薩」両脇に造立年月日。右側面には願主とあり八名の名前。


台の左側面には施主とあり、近隣の八つの村の名前が刻まれていた。


右 宝篋印塔 寛延4(1751)屋根型の笠を持ち塔身部の四面に梵字を刻む。


基礎の四面に長い願文。右側面の最後に紀年銘が刻まれていた。

 

人巻集会所 岩槻区末田1257


しらこばと水上公園の北にある越谷西高校の脇を流れる用水路沿いの道を県道48号線方面に向かう。公園の入口から500mほど先の信号交差点の左角に集会所があり、その前に五基の石塔が並んでいた。


左から庚申塔 慶応2(1866)角柱型の石塔の正面、日月雲の下に大きく「庚申」下の台は土の中に深く埋まっていて中央に聞か猿だけが見えるがその下に残りの猿も彫られているような気がする。また聞か猿の両脇は二鶏のようにも見えるが今一つはっきりしない。台の両側面に多くの名前が刻まれているが、やはりその上の部分だけが見えていて全体は読めなかった。


塔の右側面に造立年月日。左側面には天下泰平・國土安穏・五穀成就・災厲不起と刻まれている。


その隣 庚申塔 享保6(1721)唐破風笠付の角柱型の石塔。日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。いかつい顔の青面金剛はドクロの首輪をしていた。


青面金剛の足下、悪相の邪鬼は頭を右向きに這いつくばり、下の台の三猿は半ば土の中に埋まっている。


塔の左側面に造立年月日。その下に四名の名前。右側面には「奉建立庚申供養」こちらも下部に四名の名前が刻まれていた。


続いて庚申塔 享和4(1804)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。頭の後ろに輪光背を負う。足下には頭を右にした丸い邪鬼。下の台の両脇に二鶏。真ん中に見えているのは三猿のうちの中央の猿の頭部だろう。


塔の左側面 中央に「青面金剛」とあり、その下に七名の名前。右側面にも「青面金剛」とあるがこちらはその両脇に造立年月日を刻む。その下に願主、続いてやはり七名の名前が刻まれていた。


その隣六地蔵塔 寛政9(1797)角柱型の石塔の正面と両側面にそれぞれ二体の地蔵菩薩立像を浮き彫り。裏面は無銘。


正面両脇に造立年月日が刻まれている。他に文字は見当たらないのだが、もしかしたらその下に台があったのかもしれない。


右端 地蔵菩薩立像 延享3(1746)舟形光背に地蔵菩薩立像が浮き彫りされているが、ほぼその半分が土に埋まっていて、わずかに光背の右脇に「奉供養塔?・・」左脇に造立年が確認できた。五基の石塔はどうしてここまで深く埋められてしまったのだろう。