大成町の石仏

 

南番場自治会館南墓地 越谷市大成町1-2185北


旧吉川県道、不動橋南交差点から600mほど東へ進むと、道路右側に大相模交番がある。この交差点付近はいろいろな道が集まるところで、どの道を行けば目的地に着くのか判断が難しかった。交番の向かいは八坂神社の入り口になり、まっすぐ北へ200mほど向かうと神社の拝殿につく。その入り口の20mほど西にも北へ向かう道があり、その途中左側に南番場自治会館があった。会館の南は墓地になっていて、道路に向かって新しい六地蔵菩薩が並んでいる。


六地蔵の後ろ、六地蔵供養塔 享保3(1718)塔の正面「奉造立六地蔵尊二世安樂所」両脇に造立年月日。右下に願主 尼二名。左下に同行百五十人余人と刻まれていた。ずいぶん多くの人たちがかかわっている。さぞかし立派な六地蔵だったのだろうが、今はそれに該当するものは見当たらず、代わりに前に立つ六地蔵像が建立されたのだろう。


その隣 一石六地蔵塔 享保11(1726)駒型の石塔の正面 三段に六体の地蔵菩薩立像を浮き彫り。それぞれの脇に5つの童子名と一切聖霊の文字が刻まれる。下部両脇に造立年月日が刻まれていた。


その奥、宝篋印塔の脇に会館のほうを向いて二基の角柱型の石塔が立っている。


左 回国供養塔 安永4(1775)四角い台の上 角柱型の石塔の正面 釈迦三尊の種子の下「奉供養日本廻國」台の正面には當所世話人中と刻まれていた。


塔の左側面には20文字の願文。右側面に造立年月日。その下に願主名。脇に戒名と宝暦6年の命日が刻まれている。


右 普門品供養塔 寛政11(1799)角柱型の石塔の正面 梵字「サ」の下に「普門品供養塔」四角い台の正面に10名の名前が刻まれていた。


塔の両側面に造立年月日。台の右側面には願主とあり6名の名前、左側面にも7名の名前が刻まれている。

南番場自治会館北路傍 越谷市大成町1


南番場自治会館のすぐ先で道は左に曲がる。その曲がり角、突き当りに石塔が立っていた。

塞神塔 延享2(1745)駒型の石塔の正面 中央に「塞神」


塔の下部は今一つはっきりしないが三猿かもしれない。台の正面には施主とあり7名の名前が刻まれている。


塔の左側面に造立年月日。右側面には「奉供養庚申講中家内安全如意滿足」これも庚申塔を改刻したものである。こうして横から見ると「塞神」と刻まれた面が不自然にまっ平に削られているのがわかる。川柳地区の一部から大成町にかけて、厳しく廃仏毀釈を推し進めた忍藩領だった地域でこういった「改刻塞神塔」を多く見ることができた。

 

八坂神社 越谷市大成町1-71


旧吉川県道、大相模交番の向かいが八坂神社の入口で県道近くに一の鳥居が立っているが、写真の二の鳥居まで砂利道の長い参道が続く。


二の鳥居からさらに参道を拝殿近くまで進むと、左側にトタン板の雨除けと小堂があってその中に石仏が祀られていた。


雨除けの下 聖観音菩薩立像 天明3(1783)舟形光背、梵字「サ」の下に左手に未敷蓮華を持ち、左手をそっと添える優しげな聖観音立像を浮き彫り。光背右脇「観音講中法印快春示之」左脇に造立年月日。下の台の正面中央に世話人とあり、まわりに22名の名前が刻まれていた。


小堂の中 地蔵菩薩立像 天和元年(1681)舟形光背に地蔵菩薩立像を浮き彫り。風化のために彫りが丸くなっていてお顔の様子などもわからないが、光背の形、像のバランスが良く、厚みも十分で美しい仏像だったのではないだろうか。光背右脇「奉庚申供養為後生善處一結之講衆」江戸初期によく見かける地蔵庚申塔だった。左脇に造立年月日。その下に信心造立之施主 十人と刻まれている。


さらに参道を進むと拝殿の左側に二基の角柱型の石塔が並んでいた。


左 猿田彦大神塔 文久3(1863)塔の正面 日月雲「猿田彦大神」台の正面に三猿を彫る。塔の右側面に造立年月日。左側面に「奉拝禮干庚申三ヶ年供養塔」と刻まれていた。神道系の庚申塔といえるだろう。


右 塞神塔 文化8(1811)正面に日月雲「塞神」右側面に造立年月日。左側面には講中とあり、5段に渡って36名の名前が刻まれている。


台の正面にはほとんど土に埋もれて三猿の頭だけがのぞいていた。やはりこの塞神塔も明治初年に庚申塔を改刻したものだろう。

来福寺墓地 越谷市大成町1-64

八坂神社の東側、参道途中に道があり境内からでることができる。境内を出てすぐ次の路地を左折すると、住宅街の中に墓地があった。入口の六地蔵の小堂の右脇、門柱のかげに板碑型の石塔が立っている。


念仏供養塔 寛文4(1664)正面中央「南無阿弥陀佛念佛講人數」両脇に造立年月日。下部中央に妙心、妙善とあり両脇におちよなど、12のひらがなの名前が刻まれていた。庚申塔でもそうだったが、越谷に入ってから女性の講によるこのような供養塔の造立をよく目にする。ここまで女人講が多いのはなぜだろう?

大相模公民館北路傍 越谷市大成町1-2233北


大相模交番からさらに東へ200mほど行くと道路左側に大相模公民館がある。その角を左に曲がって北へ歩いてゆくと赤観音堂の墓地があり、その左脇の細い道の先、個人のお宅の入り口のところに板碑型の石塔が立っていた。脇には越谷市教育委員会による解説板が立っているが、その手前の赤いパイロンには「私有地につき立ち入り禁止」の注意書きがはってあった。


板碑型庚申塔 承応2(1653)越谷市最古の庚申塔として越谷市有形文化財に指定されている。


正面中央 梵字「バク」の下「奉供養庚申二世安樂也」両脇に造立年月日。さらに施主敬白。最下部に8名の名前が刻まれていた。

 

 浄音寺 越谷市大成町6-427


大相模公民館からさらに東に向かう。次の信号交差点のすぐ先、道路左側に浄音寺があった。山門左脇に二基の石塔が並んでいる。


左 名号塔。資料では中央の阿弥陀如来像の脇に刻まれた命日から 寛政16(1639)の造立としているが、若干疑問に思う。


駒型の石塔の正面、上部に阿弥陀三尊種子を彫り、その下に「南無阿弥陀佛」両脇にいくつかの僧名が、下のほうには道夏父母、妙春父母と刻まれていた。


中央、舟形光背の形に彫りくぼめた中、阿弥陀如来像を浮き彫り。若干の白カビは見られるものの、大きな欠損もなく、阿弥陀如来は立派な蓮台の上に凛として佇む。像の両脇に二つの僧名。上で父母となっていた「道夏」「妙春」その下にそれぞれ寛永13年と寛永16年の命日。塔の最下部にも多くの僧名が刻まれている。


塔の左側面にもたくさんの僧名が並ぶ。左側面には「三界萬霊有無兩縁等」裏面を見ると浅草山谷の春慶院中興開山實譽上人の名が見える。調べてみると浅草山谷の春慶院は円蓮社団誉評林和尚が開山。建立は寛永5年(1626)とのこと。中興開山となると少なくとも二世以下になり、左の行「五十回忌菩提一万日念佛廻向」から考えるとこの名号塔の造立は元禄期以降と考えるべきだろうか?いずれにしても高僧の追善供養のための名号塔だろう。続いて「並 両親御□造立建之」とあるのは正面に刻まれた道夏父母、妙春父母のことと思われるが確たる資料はない。


右 六十六部供養塔 享保7(1722)角柱型の石塔の正面を二重に彫りくぼめた中に「奉供養六十六部日本回國願望成就處」両脇に造立年月日。右下に願主、左下に念誉明給敬白と刻まれていた。


塔の左側面には「天下和順 日月清明・・・」以下32文字の願文。


右側面には大きな字で「南無阿弥陀佛」その右脇に解脱山、左脇はひどく破損しているが、下のほうに證誉(上人か)と読める。


山門を入ると右のほうにたくさんの無縁仏が重なるように並んでいた。

左端4列目 聖観音菩薩立像 寛文3(1663)舟形光背に未敷蓮華を持ち与願印の聖観音立像を浮き彫り。彫りは緻密で像はボリュームがある。光背右脇「三界萬霊」左脇に法名。下部両脇に造立年月日が刻まれていた。


右端、山門の板塀の前に舟形光背を持つ四基の石仏が並んでいる。前列二基は個人の墓石だった。


後列左 地蔵菩薩立像 寛文7(1667)上部を欠くがきれいな形の舟形光背。地蔵像は重厚で彫りは丁寧。光背左脇に造立年月日。


右脇に「奉供養庚申為現當二世結衆拾一人」と刻まれている。資料には取り上げられていなかったが、地蔵菩薩を主尊とする「地蔵庚申塔」と思われる。


右 如意輪観音坐像 寛文9(1669)舟形光背、美しい如意輪観音の上に「南無阿弥陀佛」右脇に造立年月日。さらに「念佛講供養」


左脇には 本願 庵詫浄正?同行十七人 敬白と刻まれていた。

 

浄音寺観音堂墓地 越谷市大成町2-244付近


旧吉川県道、大相模交番のある交差点のすぐ西、駐車場の脇の路地の奥に観音堂墓地がある。入り口は狭い路地のずっと奥にあり、意識して見ないと見逃しやすい。墓地に入って左側の塀の前に無縁仏が重なるようにして並んでいた。


最後列、左から5番目 十九夜塔 文政10(1827)駒型の石塔の正面、梵字「サク」の下「十九夜塔」このロケーションでは両側面を見ることはできないが、資料によると右側面に造立年月日が刻まれているという。

玉蔵院墓地 越谷市大成町6-401北

浄音寺入口のすぐ西の大相模小学校入口交差点から南へ100mほど下ると、道路左側に玉蔵院墓地の入り口があった。


墓地に入ってすぐ右手のブロック塀の前、手前のほうに小さなサイズの像塔、中央にやや大きな像塔と文字塔、奥のほうには小さな文字塔が並んでいる。


中央付近 如意輪観音坐像。上部が前に反った鋭い形の舟形光背に二臂の如意輪観音坐像を浮き彫り。資料には載っていなかったが気になって調べてみた。白カビが多く、文字もやや粗いために読みにくい。


光背の上部から像に沿うように左右に斜めに銘が刻まれていた。右脇の文字が特に読みにくく、光線の違う日を選んで何度も出かけたり、写真を拡大したりの試行錯誤でだいたいのところはわかったつもりだが、本当に合っているかどうかは定かではない。光背右脇「奉造立觀世音尊像一躯」左脇に続いて「為二世安樂也」その下に「念佛講中十五人」講中によって造立された念佛供養塔ということになるだろう。観音像の肩のあたりから両脇に造立年月日が刻まれているようだ。左脇にははっきりと十月と見えるが右脇は今一つはっきりしない。弘化の「化」の字が見えるようにも思うが、光背の様子からは江戸時代初期のようにも思われる。


その隣 地蔵菩薩立像 天明元年(1781)錫杖の先が欠けていて、頭も補修の跡が見える。丸彫りの石地蔵の宿命だろうか。


台の正面中央に「三界萬霊」両脇に造立年月日。続いて願主 快□。両側面にはそれぞれ数名の名前が刻まれていた。


隣の舟形光背型の聖観音立像は個人の墓石で、その先普門品供養塔 寛政4(1792)角柱型の石塔の正面上部に梵字「バク」「アン」「マン」と釈迦三尊を表し、その下に「奉讀誦普門品供養塔」両脇に「天下泰平 五穀成就」塔の両側面に造立年月日、台の正面 右上に小さく世話人とあり数人の名前、最後に命日とともに二つの戒名が刻まれていた。

地蔵堂墓地 越谷市大成町2-98筋向い


玉蔵院墓地から道なりに南へ進むと道はゆるやかに右にカーブして、やがて左側に大相模小学校が見えてくる。道路を挟んだ先、左側の角地が地蔵堂の墓地になる。入口右側に多くの石塔が整然と並べられていた。


卵塔の後ろに大乗妙典供養塔 延享2(1745)正面下部はダイレクトに見ることはできず、横から覗いてやっと確認できる。



上部に三尊種子。中央はバクで釈迦如来、左は文殊菩薩を表す「マン」の左上の点が欠けたものだろう。右は普賢菩薩を表す「アン」ではなく「アク」であり、資料では誤りとしているが、調べてみると「アク」も普賢菩薩を表すことがあるらしい。その下「恭教供養 一切三寶 妙典六十六部奉納扶桑霊域二世安樂」上部両脇に造立年月日。右下に武州大相模邑。左下に願主 善性 欽立と刻まれていた。


塔の右側面には六つの戒名。その下 助縁衆とあり、さらに夫婦の名前。


左側面には20文字の願文が刻まれていた。

 

飯島自治会館前墓地 越谷市大成町7-179西


旧吉川県道を東に向かい、大成橋南交差点を過ぎて300mほど行くと大成町交差点のT字路に出る。交差点の東南の角地に飯島自治会館があり、その前に東福寺霊園の入り口があった。入口左側に庚申塔が立っている。


庚申塔 享保15(1730)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。


転々と白カビがこびりつく。頭に蛇が巻き付き、つり目の青面金剛の立ち姿は力強い。上部両脇に造立年月日。右下に飯嶋村、左下には講中廿三人と刻まれていた。


邪鬼は両手をグーにして踏ん張って青面金剛の重さに耐えている。正面向きの三猿、両脇の猿はちょっと内向きの体育座り、これもあまり見ない形だ。


墓地に入って右手、旧県道側の塀の前に三つのブロックに分かれてたくさんの石塔が並んでいた。

中央のブロック最後列に阿弥陀如来立像 寛文10(1670)美しい形の大きな舟形光背に気品にあふれる阿弥陀如来立像を浮き彫り。個人の墓石だがあまりにきれいなので撮らせていただいた。


左奥のブロックの左端、後ろの二基の石塔が資料で取り上げられている。


最後列に巡礼供養塔 文政元年(1818)この二基は前の石塔のために塔全体を見ることができない。阿弥陀三尊種子の下「奉巡拝諸國霊場供養塔」両脇に造立年月日。


その前、普門品供養塔 文化3(1806)角柱型の石塔の正面 梵字「サ」の下「普門品供養塔」塔の右側面に造立年月日。左側面は全く見えないが、資料によると「觀音講中」と刻まれているという。

大六天堂 越谷市大成町7-177南


東福寺霊園から東へ50mほど、南に向かう田んぼのあぜ道のような道を進むと右手に鳥居が見えてくる。鳥居の正面に宝篋印塔。その左は大六天堂らしい。


宝篋印塔 寛永21(1644)江戸時代初期の外反する隅飾を持つ宝篋印塔。笠の上の相輪部が著しく発達していて、資料ではこの相輪、頂上の宝珠が江戸時代後期の形式であり後から補修されたものとしているが、今まで見た中ではこの立派な相輪部はむしろ江戸時代初期の宝篋印塔の特徴だと思われる。


基礎正面 中央に「造立日待講二世安樂處」両脇に造立年月日、下部に敬白。基礎両側面に合わせて9名の名前が刻まれていた。


鳥居の右側に二基の石塔が並んでいる。奥の角柱型の石塔は正面に「奉納日支事変従軍記念碑」昭和15年造立。


手前 塞神塔 天明2(1782)駒型の石塔の正面 日月雲の下を四角く彫りくぼめた中に「塞神」両脇に造立年月日だが、たぶん「庚申」を無理に削り取ったためだろう、左右の紀年銘も半分しか残っていない。


塔の左側面に 右 こしがや道。右側面には左 のら道と刻まれているが「のら」は野良?それとも地名だろうか?