浦和区 瀬ケ崎

三島神社南角 浦和区瀬ケ崎2-15[地図]


北浦和駅東口から東へ向かう北宿通り、産業道路を越えて500mほど先の道路右側に三島神社と東泉寺がある。三島神社の手前を右折して南へ進むと左手、T字路の角、高いところに石塔が立っていた。


庚申塔 寛政8(1796)角柱型の石塔の西向きの面 中央に「庚申塔」右脇に是より南 うらわミち。左脇に是より西 大ミやよのミち。


南向きの面中央に「巳待塔」左脇に是よ里東 阿かやま道。右下に華渓老人書。


北向きの面中央に「甲子塔」右脇に是より㣺いわつきミち。


東向きの面に造立年月日。続いて瀬ケ崎村 願主武笠氏と刻まれていた。庚申塔・巳待塔・甲子塔であり、三面合わせて五地名が刻まれている道標でもある。

東泉寺 浦和区瀬ケ崎2-15[地図]


三島神社南のT字路から東に進むと道路左側に東泉寺の入口があった。山門手前両脇に石塔が並ぶ。右手前、道路近くに天台宗 青柳山普光院 東泉寺と刻まれた寺標が立っていた。


山門左脇 ブロック塀の隣に二基の庚申塔の文字塔が並んでいる。


左 庚申塔 昭和6(1931)隅丸角柱型の石塔の正面「庚申塔」


塔の左側面に造立年月日。右側面に「交通安全」裏面に瀬ケ崎有志一同と刻まれていた。


右 庚申塔 天保5(1834)角柱型の石塔の正面「(庚)申塔」塔の上部は剥落している。


塔の右側面、かなり傷んでいるが銘は残っていた。右に□佐きみち。木崎だろうか?左に うらわミち。道標になっている。


左側面に造立年月日。年号は欠けていた。5年で午年となると文政5(1822)天保5(1834)安政5(1858)があるが、資料には天保5年と明記されていて、以前はそう判断するだけの材料があったのかもしれない。左脇に(武)刕足立郡瀬ケ崎村、中央下に大ミやと刻まれている。


山門のすぐ左手前 大乗妙典供養塔 明和5(1768)二段の四角い台の上、宝珠をのせた大きな角柱型の石塔の正面、梵字「アク」の下に「大乗妙典一千部供養塔」両脇に天下泰平・國土安全。


塔の左側面に造立年月日。石塔の規模にふさわしく、字は雄大で力強い。


左側面に回向文。裏面中央 武州足立郡瀬箇崎村於東泉寺安置之。左脇に施主 同所とあり武笠氏の名前が刻まれている。


上の反花付き台の左側面、右端に連中とあり、続けて當所 武笠氏から始まって、與野町、本太村などから合わせて9名の名前。


右側面 奥に連中とあり、柳埼村、中尾村、千駄村などから8名の名前。最後は當寺隠居 義明 以上と締めくくられていた。


山門右脇の植え込みの中 大日如来真言塔 安永5(1776)大きな粗彫り角柱型の石塔の正面に梵字で「アビラウンケン」大日如来の真言である。塔の右側面に「永代十五日普門品」


塔の左側面「永代八日百萬遍」裏面に造立年月日。その下に願主瀬箇崎村 東泉寺住義明。山門左脇の大乗妙典供養塔にあった「當寺隠居義明」と同一人物だろう。


境内に入ると左側、鐘楼の先に歴代住職の墓地があった。


墓地の北、阿弥陀如来坐像 元禄10(1697)二段の台に反花付き台を重ね、円柱形の石塔の上に蓮台に座る丸彫りの阿弥陀如来像。


厚い蓮台の上の阿弥陀如来像。首に補修跡があるが、他に傷はなく、白カビもほとんど見あたらない。


円柱形の石塔の正面、右に青柳山東泉寺 □□□十三代。中央はうまく読めないが法名か。左に紀年銘、こちらは命日だろう。



山門の向い、道路を挟んだ南に東泉寺の墓地があり、入口左側に六地蔵をはじめ、多くの石塔が並んでいた。


小堂の中 六地蔵菩薩坐像 寛文3(1663)丸彫り坐像の六地蔵塔はあまり見たことがない。しかも寛文期の丸彫り六地蔵塔は貴重。風化も少なく六体はよく揃っている。


蓮台の花弁に銘が刻まれていた。六体の銘は微妙に違っているが造立年月日は同一だ。こちら右から2番目の蓮台。中央に「奉建立地蔵尊像六体二世」右に東泉寺 瀬ケ崎 賢清立之。左に造立年月日。花弁の間に武刕 足立郡と刻まれている。


六地蔵の小堂の右脇に念仏供養塔 宝永6(1709)四角い台に角柱型の石塔、その上に丸彫りの地蔵菩薩立像。像は大きな欠けはないものの、さすがに白カビが多い。


石塔の正面中央「奉修行念佛講中二世安樂之處」両脇に造立年月日。


塔の左側面には戒名が並び、右側面には武刕足立郡木崎領 瀬ケ崎村施主女中十六人と刻まれていた。


さらに石塔が続く。左の地蔵菩薩塔はかなり新しいもののようだ。


その隣 庚申塔 元禄16(1703)駒形の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣?・ショケラ持ち六臂。


彫りは細かく技巧的。右手の剣は欠けている。蛇を頭に乗せ、髑髏の首輪をした三眼忿怒相、牙をむきだした青面金剛。左手に持ったショケラは邪鬼の子分のように不気味で生々しい。右脇に「奉納庚申待爲二世安樂」左脇には造立年月日が刻まれていた。


邪鬼は青面金剛に背中を踏まれながら恐い顔をして前をにらむ。その下に二鶏を生き生きと浮き彫り、最下部に正面向きに並んで座る三猿。二鶏と三猿の間、右脇に木崎領瀬ケ崎村、中央に施主9名の名前が刻まれていた。


本格的な雨除けの下 左に阿弥陀三尊図像板碑 文明3(1471)。さいたま市指定有形文化財になっている。


上部両脇に日月。天蓋の下に輪光背を負った阿弥陀如来立像。足元は瑞雲か?左右にやはり輪光背を負い瑞雲に乗った勢至菩薩像と観音菩薩像を線刻。下部に「奉待供養逆修」さらに造立年月日、両脇に四名の禅門の名前が刻まれていた。


右 六字名号塔 文政1(1829)角柱型の石塔の正面に独特の書体で「南無阿弥陀仏」左脇に徳本、関東だけでなく中部、近畿あたりまで広い範囲で数多く見られる「徳本上人名号塔」である。台は三段になっているが、一番下だけ色が違っていて、あとから補われたものだろう。二段の台の上の台の正面に大きく「講中」と彫られていた。


塔の右側面には徳本上人の歌が刻まれ、その下に花押も記されている。


塔の左側面に造立年月日。裏面に「足立十五夜講中先祖代々一切□霊」と刻まれている。


正面に「講中」と彫られた台の両側面と裏面に細かい字で多くの人の名前が刻まれていた。こちらは右側面と裏面。銘は薄く読み取りにくい。


こちらが左側面。上の台には右端から道師下木崎村・・・先祖代々・・・などとあり、あとは多くの銘が続く。下の台にはこの石塔の造立にかかわった近隣の村の名前が刻まれていた。全部は確認できないが、宿組十五人、松木組六人、宮本二人、馬場組十二人、中丸十四人、同万人講、駒形十二人、同万人講、下木崎、山口新田、北袋・・・・広い地域に渡っている。


下の台の右側面は比較的銘は少なく、右端から別時念佛寅・・・、當村中男女・・・念佛□帳・・・と確認できた。台の裏面左端に石工 与野小村田 丸山庄吉と石工の名前が刻まれている。


板碑の後ろに隠れるように馬頭観音塔 造立年不明。舟形光背に三面六臂の馬頭観音坐像を浮き彫り。光背の上部は大きく欠け、像全体に損傷が著しい。三面ともに溶けているが、怒髪の中、頭上の馬頭はなんとか残っていた。馬口印を結ぶ合掌手もつぶれている。残る手には斧?・法輪、下の手は両手ともに棒状の物を握っているようだ。台の部分正面に村中と刻まれていた。


光背右側面には願主二名の名前が刻まれている。この角度から見える左の顔は凄みのある忿怒相、三眼か?


左側面は粗彫りのままで銘はなかった。馬頭観音の右の顔は怒髪がくっきり残り、その下の両眼が飛び出しているように見えて恐ろしげ。結局造立年を示すような銘はどこにも見当たらない。


その先に宝篋印塔や五輪塔など、立派な石塔が数多く並ぶ広い墓所があった。ここまで東泉寺の多くの石塔に名前があった武笠家の墓所らしい。墓所の中に立っていた墓誌を拝見すると元祖(初代)から第11代までの戒名、命日、俗名などが載っていて、その戒名はすべて居士、大姉、中でも二代から五代までは男性の戒名は大徳だった。それだけの格式の高い家ということだろう。




墓所の入口近く 宝篋印塔 江戸時代前期の特徴である隅飾型笠付きで総高2mを超す。基礎には第二代の大徳戒名と享保17年の命日が刻まれていて、造立は元文年間、供養施主は第三代大徳だろう。


奥に似たような規模の宝篋印塔、こちらは相輪が欠け宝珠だけが残されていた。基礎には第二代の夫人の戒名と命日が刻まれている。この規模の宝篋印塔の墓石はもともと大名、旗本など一部の特別の階層の人たちに限られたが、江戸時代の平和のもと、経済の発展を背景に有力な農民層もこのような墓石を立てることができるようになったらしい。と言ってもこれだけの規模の墓石は村の最有力者に限られたことだろう。