南区文蔵

馬頭観音堂 南区文蔵1-19[地図]


南浦和駅の南、JR京浜東北線にかかる南浦和陸橋を西に降りきった先の信号交差点のすぐ手前、道路左側に馬頭観音堂があった。同じ敷地内には文蔵第一自治会館がたっている。入口近く、ブロック塀の前に四基の石塔が南向きに並んでいた。

左端 馬頭観音塔 享保元年(1716)舟形光背に一面六臂の馬頭観音立像を浮き彫り。


光背右脇に造立年月日。大きな馬頭を乗せた丸顔の観音様。尊顔は口の周りに傷があり怒っているようにも見えるが、近づいてみると静かな表情で慈悲相だろう。胸前で馬口印を結び、腹前に両手を組んで宝珠を持ち、右上手に矛、左上手に宝輪、合わせて六臂。弓矢の代わりに宝珠持ちの六臂像というのは珍しい。


光背左下に施主 文蔵村とあり、個人名が刻まれていた。この時代に個人でこのような本格的な像塔を造るのは大変だったろう。


その隣 普門品供養塔 天保9(1837)角柱型の石塔の正面、梵字「サ」の下に「普門品供養塔」両脇に天下泰平 國土安穏。


塔の左側面に造立年月日。右下に 西 引又道。左下に北 うらわ道。


右側面中央に力強く足立郡文蔵邑。右下に東 はとがや道、南 わらび道と刻まれていて、四方向四地名入りの道標になっていた。


下の台の正面と左側面に、薄くなっていて読みにくいが二十名ほどの名前が刻まれている。


続いて斃馬供養塔 昭和6(1931)建石主とあり個人名が刻まれていて、亡くなった愛馬の供養のための造塔らしい。


右端 馬族供養塔 昭和51(1976)施主は個人名、他73名となっているが、馬が社会生活の中で重要な役割を担っていた江戸時代ならいざ知らず、戦後の経済成長を遂げた昭和の時代に「馬族」の供養に賛同された73人とはいったいどういった人たちなのだろうか?大変興味深い。

 

薬師堂 南区文蔵4-7-5[地図]


南浦和駅西口から1kmほど南、六辻水辺公園の近くに文蔵薬師堂がある。


山門から境内に入ると、正面に本堂、参道左脇に多くの石塔が一列に並んでいた。


左から 大乗妙典供養塔 宝暦(1759)角柱型の石塔の上に丸彫りの地蔵菩薩立像。白カビにまみれているが堂々たる立ち姿である。


角柱型の石塔の正面中央「奉納大乗妙典六十六部日本回國」左側面に一切聖霊とあり数人の名前が刻まれていた。

続いて三基の宝篋印塔。時代とともに少しずつ笠などに特徴があって面白い。


左 宝篋印塔 8(1711)外反する隅飾と発達した相輪を持つ。


基礎の左側面、造立年月日に続いて造塔施主とあり個人の名前が刻まれていた。


中央 宝篋印塔。造立年不明。屋根型の笠を持ち、相輪は途中で折れているが左の宝篋印塔に比べるとだいぶ細くなっているようだ。こちらは江戸時代中期以降のものと思われる。台の裏面に石工名とともに紀年銘らしきものが見えて、一生懸命よんでみたのだがはっきりしなかった。基礎の四面には偈文が刻まれている。

右 宝篋印塔 寛延元年(1748)屋根型の笠を持ち、宝珠をのせた相輪は健在、塔身、基礎ともにほっそりしている。基礎の正面に「奉納大乗妙典六十六部供養塔」とあるので大乗妙典供養塔とすべきだろう。台の右側面に造立年月日が刻まれていた。


その奥に地蔵菩薩塔 万治3(1660)舟形光背に長い錫杖を手にした地蔵菩薩立像を浮き彫り。頭上に梵字「カ」この長大な錫杖は江戸時代初期の地蔵菩薩像に見られる特徴というべきか、先日太田窪の普門寺の明暦2年塔、桜区町谷の慈観寺の慶長13年塔など、これまでいくつか見てきた。光背右脇に武刕足立郡文蔵村善根諸當邨中。光背左脇に造立年月日が刻まれている。


その隣地蔵菩薩立像 元禄10(1697)シャープな舟形光背に浮き彫りされたお地蔵さまは眉目秀麗、バランスの良い立ち姿、光背、錫杖、宝珠など欠けることなく300年以上の時間を経てもその美しい姿を保っていた。


光背右脇「奉安置地蔵菩薩二世大願円満成就處」さらに願主文蔵村、光背左脇に造立年月日。その下に個人名が刻まれている。横から見ると彫りは厚く、表情も生き生きとしていた。


小堂の中に六地蔵菩薩立像。それぞれに戒名と文政10(1827)から文久2(1862)までの命日が刻まれている。像の様子からは六体一緒に造立されたものと思われ、江戸時代末期のものだろう。


六地蔵の小堂の右脇、本堂近くに地蔵菩薩立像 明和2(1765)丸彫りの大きな地蔵菩薩塔だが、こちらは個人の供養のために造立されたもののようだ。塔の左側面に施主として刻まれた名前は宝永8年の宝篋印塔の施主と同じ姓で、文蔵村の相当に有力な家なのだろう。


山門のところから塀に沿って西に歩いてゆくと、交差点の角のところに四基の石塔が西向きに並んでいた。


右から 庚申塔 宝永5(1708)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。足元にぺしゃんこな邪鬼。その下に身を寄り添うように座る三猿が彫られている。青面金剛の顔の真ん中には小さな穴が穿たれていて痛々しい。


塔の右側面に「奉造立庚申尊形者本地大日如来之化身 二世大願悉地成就圓満處」青面金剛は本地仏大日如来の化真ということだろう。こちらは初見。


塔の左側面に造立年月日。その下に衆中之願 文蔵里と刻まれている。


下の台の正面には講中とあり続いて13人の名前、左側面を見るとそこにも3名の名前が刻まれていて、合わせて講中16名ということになるだろう。


その隣 石尊大権現塔 文政10(1827)上部にくずし字で大きく「石尊大権現」


中央に炎の光背を背に、右手に剣、左手に羂索を持つ不動明王坐像を浮き彫り。小さいが彫りは細かく迫力がある。その下には村中と刻まれていた。


塔の右側面 北 うらわ 東 はとがや 南 わらび と刻まれていて、江戸時代後期の石塔らしく道しるべになっている。


左側面に造立年月日。その下に せハ人 當村とあり一名の名前が刻まれていた。


続いて庚申塔。荒彫りの文字塔。側面に銘らしきものが見えるが確認できず造立年など詳細は不明。角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中「庚申塔」その下に観音講中と刻まれている。


左端 庚申塔 安政2(1855)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。風化が進んでいて、塔の上部、損傷が大きく顔のあたりは崩れ、白カビにまみれたショケラは合掌していた。


青面金剛の足元、邪鬼は剥落、原形をとどめない。台の正面に彫られた三猿も摩耗して丸くなっている。


塔の右側面上部に足立郡文蔵村、その下に東 はとがや道 二リ。



左側面中央「(奉)造建庚申待供養塔」両脇に造立年月日。その下に 前 わらび道十五丁、北 うらわ道と刻まれていて、こちらもやはり道標になっていた。