富士見市下南畑

鶴松庵墓地 富士見市下南畑2366

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浦和所沢バイパス、上宗岡2丁目交差点の西100mほど、バイパスの北側の歩道を西に向かって歩いてゆくと小さな神社の先に墓地が見えてくる。入り口に石仏が並んでいた。雨除けの下の六地蔵像は最近のもののようだ。奥に見える建物には「鶴新田集会所」と書かれた看板がかかっている。

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入り口近くに四基の石塔。右の二基はカビがひどい。右の石塔には中央に「供養」の文字が、左には天明八の銘だけが確認できるがその他の文字は判読できず、詳細は不明。

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右から3番目 地蔵菩薩立像 寛政7(1795)梵字「カ」の下に合掌した地蔵菩薩を浮き彫り。光背右「三界萬霊」左脇に造立年月日。左側面には鶴新田 施主とあり個人名が刻まれている。

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左端 地蔵菩薩立像 元文4(1739)丸彫りで合掌する地蔵像だがかなり新しい印象を受ける。

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カビに覆われた台の正面中央に大きく「念佛」その両脇に造立年月日。左側面には下難畑村と刻まれていた。

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集会所の右手前に歴代住職や個人の墓石が並んでいる。右端に石地蔵を乗せた石塔が立っていた。

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地蔵菩薩坐像 元文3(1738)頭の後ろに円光背、右手に錫杖、左手に宝珠を持つ延命地蔵。きりっとした端正な顔立ち。下の台の正面中央に「奉造立石橋供養」その両脇に造立年月日。石橋供養塔ということになる。

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塔の左側面は無銘。右側面には入間郡下難畑村 風山圓空 庵主と刻まれていた。

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集会所の左前に多宝仏塔 天保14(1843)宝篋印塔のようにも見えるが、塔身部に「多宝佛塔忽□湧出善哉四衆恭敬禮拝」とある。

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右側面に造立年月日。正面中央に「鶴松庵墓連中一切之精霊」と刻まれていた。

 

興禅寺 富士見市下南畑74

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難波田城公園の西500mほどの道路の奥にある曹洞宗の寺院、興禅寺。もう少し行くと新河岸川の土手にぶつかる。

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 参道の左手から奥のほうに墓地が拡がっている。ブロック塀の前に戒壇石とともに大きな丸彫りの石仏が立っていた。

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庚申塔 年代不詳。像のほうにも台のほうにも文字が見当たらない。丸彫りの青面金剛像はかなり珍しい。とくに立像というのは私は記憶にない。坐像ならさいたま市内でもいくつか目にしたが・・・

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額に蛇、三眼、豊かな耳を持ち、ドクロの首飾りをした個性的な青面金剛。彫りは細部まで丁寧で美しい。合掌六臂だがその持物にも注目したい。合掌型の場合、残りの四つの手のうち上の右手に矛か斧、左手には法輪、下の両手に弓矢というのが一般的だろう。この像の場合、青面金剛が上の両手に持っているのは日月ではないだろうか。下のほうの手は右手に人の首(あるいはショケラか?)左手に鈴を持っている。その腕の処理の仕方も浮き彫り像の後ろの手のように大きく広げる形を採らず、肩のあたり、腰のあたりで折り曲げている。丸彫りの多臂像の場合その腕を欠いていることが多いのだが、この像はその腕の処理の仕方のおかげで欠損を免れ、長い時間を越えてほぼ完全な形で残されたということになるのだろう。この持物の構成などから考えて、青面金剛の一般的な持物のありようが確立する前、江戸時代初期の作像の可能性が高いと思うのだがどうか。

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足下には邪鬼を丸彫り、その下の台の正面に三猿、両側面には二鶏が浮き彫りされ、そのいずれも生き生きと表現されていた。台の上に邪鬼を乗せ、その上に青面金剛像を乗せているのかと思ったのだが、よく見ると青面金剛から下の台までが一つの石からできていた。貴重な庚申塔というべきだろう。

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境内に入ると参道の左側、宝篋印塔などとともに三体の地蔵像が並んでいた。

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左から地蔵菩薩立像 慶応4(1868)大きな石塔の上に白カビにまみれた丸彫りの延命地蔵が静かに佇んでいる。

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塔の正面「為一切精霊菩提」と彫る。右側面には十三の戒名が刻まれているが、いずれも「天正儀誅居士」「天径得誅禅定門」のように戒名の前後に天・誅がつき、最後に各霊五月二十有一日卒とある。左側面を見ると「右儀誅居士者称難波田弾正来是誅居士者 弾正之裔也字英次郎雖然其実正不詳□ 干時慶応四戊辰星仲夏二拾有一日忽然鶴 馬邑於石神塚被行天誅者也依之預記以 官軍備前岡山之藩遊寄隊字南石藤三郎外 二拾四人来行之依之於当山禁浪士止宿者也」と長い文が刻まれているが、どうやらこの地で彰義隊残党の処刑が行われ、その供養のために造立されたもののようだ。

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寛保3年(1743)の宝篋印塔をはさんでその隣 地蔵菩薩立像 寛文12(1672)頭の後ろに輪光背を持つ。舟形光背の中央に彫られたこの延命地蔵像は、隣の丸彫りの地蔵像と比べると、塔の部分がないだけに像自体は大きくなり2倍近くあるように見える。

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お地蔵さまはモナリザのように不思議な微笑を浮かべている。光背の右脇に武州入東之郡川越領南畑村。左脇に造立年月日。その下に道行二十三人と刻まれていた。

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その奥に地蔵菩薩立像 文化14(1817)丸彫りの延命地蔵像。

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塔の正面「一切精霊為菩提」右側面に造立年月日。その脇に個人名が一つ刻まれる。左側面には鶴馬村施主とあり、やはり個人名が刻まれていた。

 

八幡神社 富士見市下南畑1148

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浦和所沢バイパスの上宗岡2丁目交差点から北へ入り、富士見高校付近を通り川越に向かう県道113号線。この道路は車の通行量が多く、途中までは歩道もせまいために自転車で走るのはかなり恐い。志木のほうから来て難波田城公園東交差点を右折すると右手に八幡神社があった。参道の左側に境内社として庚申塔が祀られている。

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庚申塔 延宝6(1678)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。上部は薄暗くはっきりとした写真は撮れなかった。

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光背の上部に「奉勧請」右脇に「山王大権現」と刻む。上左手に蛇をつかんでいるのは珍しい。

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光背左 下南畠。左下に道行八人、その隣の文字はうまく読めない。光背右下に造立年月日。足下には邪鬼と三猿が彫られている。
 

 

難波田城公園東交差点角 富士見市下南畑1624

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県道113号線、難波田城公園東交差点の南の角に三基の石塔が並んでいた。

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小堂の中、ひときわ大きな地蔵菩薩立像 享保1(1728)真ん丸な顔でマントをはおっているが、どうやら延命地蔵のようだ。台の正面、中央に「奉造立地蔵尊」その両脇に四行の願文を刻む。

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台の左側面に造立年月日。右側面には武州入間郡下南畑村 念佛講中五拾一人。続いて念誉眞心と刻まれていた。

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小堂の脇 庚申塔 文化10(1813)正面 雄大な字で「庚申塔」と彫る。左側面に造立年月日。続いて當所?講中と刻まれている。

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塔の右側面 天下泰平 国土安穏 五穀成熟 村中安全。この角度から見ると、塔の正面の「庚申塔」の文字の彫りの深さが一層際立つ。

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馬頭観音塔 文政9(1826)正面に「馬頭觀世音」と彫る。

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塔の右側面に造立年月日。左側面には施主 當所とあり個人名が刻まれていた。

前耕地観音堂 富士見市下南畑

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下南畑のこの付近は広大な田園地帯になっている。難波田城公園南駐車場のある交差点の南、田んぼの中にポツンと小堂が立っていた。

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小堂の中 馬頭観音立像 寛文12(1672)三面二臂。光背右脇「奉安置大悲尊像為二世安楽也」左脇に造立年月日が刻まれている。富士見市のHPによると市内には80基ほどの馬頭観音塔があるらしいが、その多くは文字塔で、像塔となるとぐっと少なくなりその数は20基にも満たない。その中でもこの馬頭観音塔は最も本格的なものの一つと言えるだろう。

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頭上にはっきりとした馬の頭を彫り、三面はいずれも忿怒相。馬頭観音は馬口印を結んでいた。

千手院墓地 富士見市下南畑3540

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難波田城公園から旧富士見有料道路方面に向かい、難波田城公園南交差点を右折、50mほど先の道を左折して少し歩くと右手に墓地が見えてくる。奥の工場の脇の細い道から墓地に入ると、左手前のブロック塀の前に四基の石塔が本堂(民家のような建物)と向かい合うような形で並んでいた。

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弁財天坐像 享保5(1720)八臂。顔はつぶれているが彫りはしっかりしていて美しい。頭上にとぐろを巻く蛇を乗せ、手には弓矢・武器・法具などを持つが前の左手の先は欠けている。光背上部に梵字。右脇に「奉造立辨才天為二世安樂也」左脇に造立年月日。続けて武州入間郡下南畑邑 木染郷中と刻まれていた

 

富士見中継ポンプ場前 富士見市下南畑

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富士見市のHPによると市内に81基の馬頭観音が確認できるという。その内、南畑だけで33基、ただし像塔は少なく、文字塔で江戸時代後期以降の比較的新しいものが多い。その場合個人の住宅内に単独で祀られているケースがほとんどだが、道に面して祀られているものもあり、いくつかは今回確認することができた。南畑は田園地帯であり、古くから農作業や運搬に馬が大きな役割を担ってきたものと考えられる。大事な愛馬のために自宅内に供養塔を立てたものだろうが、これほど多くの「いえ」が馬頭観音を祀っている地域は珍しいのではないだろうか。

浦和所沢バイパスと旧富士見有料道路のぶつかる下南畑交差点の南にある富士見中継ポンプ場。そのすぐ裏には新河岸川が流れている。入口付近、フェンスの前に七基の馬頭観音塔が並んでいた。

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左から 馬頭観音塔 文政10(1827)ここの七基の石塔は必要以上に深く埋められていて文字全体が確認できないものが多い。こちらは正面「馬頭観世」最後の「音」が土の中。塔の右側面に造立年月日。左側面に 施主 個人名が刻まれていた。

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2番目 馬頭観音塔 天保7(1836)正面 梵字「カン」の下「馬頭觀世」両脇に渡って造立年月日。塔の左側面に施主二名の名前を刻む。

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3番目 馬頭観音塔 文政5(1822)これは完全形で読みやすい。正面 中央に「馬頭觀世音」やはり両脇に造立年月日。

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4番目 馬頭観音塔 文政13(1830)ここにある文字塔の中では一番大きい。中央を浅く彫り窪めてその中に「馬頭觀世音」右縁部分に造立年月日。左縁に鶴新田 施主とあり個人名が刻まれている。

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5番目 馬頭観音立像 宝永6(1709)ここでは唯一の像塔。頭上に馬の頭を頂き、忿怒相三眼か?合掌六臂。左上手に持っているのは蓮のつぼみのようだ。光背右に武州入間郡下難畑村鶴新田念仏供養、左脇には造立年月日が刻まれていた。

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6番目 馬頭観音塔 文化14(1817)こちらはすっかり埋まってしまっていて「馬頭」しか見えない。その両脇に造立年月日。塔の左側面に南畑村 願主 個人名を刻む。

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7番目 馬頭観音塔 明治2(1869)ここでは一番新しい。正面には「馬頭觀世音」のみ。塔の左側面に造立年月日。続けて願主 個人名が刻まれていた。

木染橋東路傍 富士見市下南畑4015

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富士見中継ポンプ所の前から西に向かい、浦和所沢バイパスにぶつかる直前を左に曲がりこむと、バイパスの下を抜けて新河岸川に沿ってはしる細い道に出る。この道沿いに二基の馬頭観音塔があるということだったが、手前の馬頭観音は多分宅地の中なのだろう、どうしてもみつからない。道を進むと木染橋に出る手前、左手の住宅の庭の片隅に馬頭観音塔があった。

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馬頭観音塔 慶応元年(1865)正面両脇に日月雲を線刻。中央に「馬頭觀世音」塔の右側面に造立年月日。左側面には願主とあり個人名が刻まれている。