富士見市上南畑・南畑新田

八幡神社西路傍 富士見市上南畑1913

DSC_0398.jpg
下南畑の八幡神社の少し北を左折してしばらく進むと右手路傍に二基の石塔が並んでいた。

1DSC_0400.jpg
右 馬頭観音立像 合掌六臂。風化が進み文字はまったく見当たらないため詳細は不明。わずかに残った形から馬頭観音と判断する。全体に窪み穴が見られるが特に顔の真ん中に深い穴が穿たれていた。

DSC_0242.jpg
左 馬頭観音坐像 文政2(1819)小型だがこちらは頭上の馬の頭、衣服の様子など、彫りは比較的はっきりしている。塔の右側面に造立年月日。左側面には施主 個人名が刻まれていた。

あたご様 富士見市上南畑1415-1

DSC_0406.jpg
さらに西に少し進むとやはり右手の路傍、小高くなった一角に小さな神社があった。地図で調べてみると「あたご様」となっている。愛宕神社だろう。階段の上、左脇に石塔が立っていた。

DSC_0409.jpg
塔の正面「奉納地蔵尊」右脇に宝暦十二年(1762)の銘がある。形からいって地蔵像を乗せていた台の部分という感じはないが、単独で地蔵菩薩の文字塔というのも今まで見たことはない。地蔵像の脇に立てられたものものだろうか?

金蔵院 富士見市上南畑302

1DSC_0507.jpg
興禅寺入口の前の道を北へ進むと左手に上南畑神社があり、その隣が金蔵院になる。山門を入り、本堂に向かうと参道の左側の小堂の中に六地蔵が祀られていた。

2DSC_0508.jpg
六地蔵菩薩立像 安永2(1773)下の台は3つに分かれ、右の台に年号、中央の台に五人の名前が刻まれている。

3DSC_0521.jpg
その奥には無縁塔があり、たくさんの石仏がうず高く積み上げられていた。頂上には昭和51年の銘のある延命地蔵像が立っている。

4DSC_0790.jpg
さらにその奥、本堂の左手の墓地の入口に小堂が立っていて、その中に地蔵菩薩像が見える。

5DSC_0791.jpg
地蔵菩薩立像 寛文2(1662)丸彫りの延命地蔵。富士見市のHPによると市内の最古の石地蔵になるらしい。保存状態がよく像自体はとても美しい。足下をよく見ると台の上に像を乗せたのではなく、像と台の部分を一つの石から彫り出したもののようだ。

DSC_0792.jpg
下の台の部分の正面には蓮の花が彫られ、その周りに文字が刻まれていた。文字は薄く一部はうまく読み取れない。富士見市のHPによれば、蓮の右脇に上南畑村 寛文二壬寅天 左脇に二月三日 御念仏修ということのようだ。その下には十五名の名前が刻まれている。また台の両側面にも文字が見えるが、こちらのほうはさらに薄くなっていて判読は難しかった。

6DSC_0520.jpg
小堂の後ろに宝篋印塔 安永5(1776)江戸中期らしく笠は屋根形、基礎部は縦長で、全体にやや細身で背が高い。

DSC_0515.jpg
基礎部に刻まれた銘が興味深い。正面「奉造立妙塔一基」続いて「奉納宝篋印神咒」宝篋印陀羅尼経=宝篋印神(心)咒経ということらしい。基礎部右側面中央には武江(武蔵國江戸)神田鍛冶町二丁目 施主 中野小右衛門 母 おさん?さらに金百匹 澁谷喜八良と刻まれている。右脇に金蔵院第十世 法印秀慶謹誌とあることからこの宝篋印塔がこの地で建立されたことは確かだろう。施主の女性は上南畑出身なのだろうか。また金百匹をもって助力された澁谷氏は親族だろうか。左脇には造立年月日が刻まれていた。

申塚墓地 富士見市上南畑2673

1DSC_0299.jpg
金蔵院の前の道を北へ進む。左手に南畑公民館を見て次の交差点を左折、富士見市役所方面に向かう道を少し行くとやがて新河岸川の橋を越える。次の信号を右折して500mほど、右手に墓地があった。写真の墓地のすぐ後ろは新河岸川右岸の土手で、気持ちの良い遊歩道になっている。

DSC_0292.jpg
雨除けの下、地蔵菩薩立像 宝暦4(1754)丸彫りの延命地蔵だが錫杖・宝珠ともきれいに残っていた。

DSC_0293.jpg
下の台は縦長、正面中央にしっかりとしたタッチで講中十五人願主とあり、その下に二名の名前を刻む。右脇、武州入間郡上南畑村蛇木、左脇には造立年月日が刻まれている。左側面に七名の名前があるが、後ろ三人は勝瀬村?右側面にも六名の名前、裏面に二名の名前が刻まれていて、合わせて講中十五人ということになるのだろう。

蛇木集会所前 富士見市上南畑2545

DSC_0300.jpg
墓地からさらに北へ進むと道路右手にある神社の鳥居の脇に庚申塔が立っていた。写真、後ろの青い建物が蛇木集会所。

DSC_0301.jpg
庚申塔 文化12(1815)正面に大きく「庚申塔」下の台の正面に蛇木 講中と刻まれている。

DSC_0302.jpg
塔の左側面は無銘。右側面 中央に「奉読誦普門品供養」その両脇には造立年月日が刻まれていた。    

 

閻魔堂墓地 富士見市上南畑500

0DSC_0876.jpg
南畑から富士見高校入口を通り東大久保へ向かう県道113号線。その先は南古谷駅近くを通り川越市の小仙波に至る。富士見高校入口交差点から北へ700mほど、左側の角に墓地があった。写真左手の建物は上畑道場集会所。墓地右側に「閻魔堂墓地整備供養塔」が立っている。

1DSC_0522.jpg
集会所の建物に沿って墓地の奥に向かうと、集会所の裏は手前にガラス戸があり、奥は小堂になっていて、その前に花が供えられていた。

2DSC_0523.jpg
ガラス戸の中をのぞいてみると中にはおおきな木造の閻魔大王の坐像。どうやらここが閻魔堂のようだ。

3DSC_0526.jpg
奥の小堂の中、中央に大きな地蔵菩薩立像。両脇に六地蔵菩薩立像を従えている。

4DSC_0884.jpg
六体の地蔵像は像自体も台の様子もそろっているが、このとぼけたような表情を見せる顔の部分は後から補われたものだろう。

5DSC_0527.jpg
左三基の台、両脇は講中とあり個人名が刻まれている。中央の台は 講中 上難畑村五十二人、その両脇に造立年月日だが、正面右上が破損していて残念ながら造立年がはっきりしない。写真左側、台と台の間に丸く見えているのがもともとの頭部だろうか?

6DSC_0528.jpg
右の三基の台。右端の台だけは講中 惣願主となっていた。村の有力者かもしれない。

7DSC_0887.jpg
中央の地蔵菩薩立像 宝永2(1705)ふくよかな顔は気品があり、今にもその口からありがたいお言葉がこぼれてきそうだ。衣服、持物など、全体に美しい状態を保っている。

8DSC_0532.jpg
足下の蓮台に銘があるが、正面だけ剥落していた。右脇から造立年月日。続いて愛宕精進結(衆)その脇に「奉」の文字だけが残っている。

9DSC_0531.jpg
中央に残っているのは「像一」たぶん「奉造立地蔵尊像一体?」となるのだろう。左に進んで現當二世安(樂)一番奥に武州入間郡上南畑村と刻まれていた。

10DSC_0535.jpg
六地蔵の右手突き当り 観音菩薩塔 嘉永7(1854)が立っている。正面上部に日月雲。梵字「サ」の下に「觀世音菩薩」塔の左側面に天下泰平 五穀成就。右側面に造立年月日が刻まれていた。

11DSC_0539.jpg
墓地の右奥一面に無縁仏が集められ、その中央にひときわ高く地蔵菩薩像が見える。

12DSC_0541.jpg
地蔵菩薩坐像 天明4(1784)全体をびっしりと白カビがおおっているが、舟形の光背の前に座ったお地蔵様の姿は美しい。

13DSC_0544.jpg
下の台は六角柱、正面とその両脇に銘があった。正面 梵字「カ」の下に「権大僧都法印秀慶」その両脇に造立年月日。この法印秀慶は前回金蔵院で見た安永5年造立の宝篋印塔の基礎部分にその名前が刻まれていた金蔵院第十世 法印秀慶と同一人物だ。塔の右隣の面に金蔵院第十世とありその脇の字が読みにくいのだが富士見市HPによると 行年三十七歳となっているらしい。ずいぶんと若い。左隣の面には施主 個人名が刻まれていた。

浄円寺跡墓地 富士見市上南畑508

DSC_0547.jpg
閻魔堂墓地のところから西に歩くと次の交差点の角にも墓地があり、小堂が立っていた。富士見市のHPでは常円寺となっていたが、脇に立てられた「墓地整備記念供養塔」に金蔵院末寺浄円寺とあるのでここでは浄円寺跡墓地とする。

DSC_0549.jpg
小堂の中 地蔵菩薩立像 寛政10(1798)丸彫りの延命地蔵。首のあたり白い部分は補修跡だろうか?顔の表情ははっきりしないが彫りのタッチは力強い。

DSC_0550.jpg
足下の台の正面両脇に上南畑村 講中。台の両側面は隙間が狭くて確認できなかったが、富士見市HPによると左側面に願主二名の名前と造立年月日が刻まれているという。

 

慈光院跡墓地 富士見市南畑新田103

DSC_0295.jpg
県道113号線の難波田城公園東交差点から北へ向かう道は砂塚橋でびん沼川を渡り、飯田新田で県道56号線にぶつかる。八幡神社の先で道はゆっくり左へカーブしてゆくが、ここからそのまままっすぐ北へ向かう分かれ道がある。細い道を進み荒川の土手がまじかに見えてくるあたり、左手にある墓地の入り口に小堂が立っていた。

DSC_0297.jpg
地蔵菩薩立像 正徳3(1713)下の台も合わせると2m近くにもなろうかという立派な丸彫りの延命地蔵。静かな表情で佇んでいる。彫りは丁寧で細かい。像の背中のほうに造立年月日が刻まれていた。

DSC_0300.jpg
台の正面中央に武州入間郡難畑新田とあり、その両脇には20名ほどの名前が刻まれている。

DSC_0302.jpg
小堂の左側、墓地に向かい合うように六地蔵菩薩立像 嘉永4(1851)が並んでいた。

DSC_0309.jpg
いずれも頭部のあたりに補修の跡が見えるが、完全に欠けたあとに新しい頭部を付けたというわけではなさそうだ。その表情はなぜか人間臭く生々しい。

5DSC_0871.jpg
一番右の台の正面に造立年月日。二番目には武州入間郡南畑新田登戸と刻まれている。

DSC_0870.jpg
三番目の台に念佛講中。四番目の台は戒名と命日のようだ。後の二基には銘は見当たらなかった。

DSC_0310.jpg
小堂の右側 庚申塔 安永4(1775)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。下の台だけが綺麗であとは白カビがひどい。青面金剛の顔はのっぺりしていて近づいて見てもはっきりしない。足の両脇に小さな二鶏。足下には三猿だけが彫られていた。

DSC_0390.jpg
塔の左側面に銘はない。右側面 白カビの中に薄く安永四の文字を見ることができる。

9DSC_0876.jpg
小堂の裏に宝篋印塔 享保6(1721)隅飾型の笠を持ち相輪が大きい。基礎部裏面に造立年月日。脇に「奉造立六十六部供養」と刻まれていた。

登戸集会所 富士見市南畑新田81

DSC_0393.jpg
墓地の20mほど先に登戸集会所がある。今は墓地と集会所の間に一軒の住宅があるが、往時は墓地から集会所までが慈光院の境内だったようだ。集会所の入口前、祠の右脇に石塔が見える。

DSC_0394.jpg
大きな台石の上に弁財天坐像 安永5(1776)六臂の坐像。頭には輪光背。上部に大きく「講中」右脇 武州入間郡南畑新田。左脇に造立年月日。像の下には慈光院 敬白 十九人と刻まれていた。

砂塚橋南東路傍 富士見市南畑新田58

DSC_0337.jpg
びん沼川にかかる砂塚橋の南200mほどを東に入ると、三差路の角の所にブロックで作られた小堂がある。中には二基の石塔が並んでいた。

DSC_0338.jpg
左 地蔵菩薩立像 安永6(1777)中央に延命地蔵像。右脇「奉読誦普門品供養成就所」続いて造立年月日を刻む。左脇 武州入間郡南畑新田講中十六人。

DSC_0340.jpg
下の台の正面には砂原 十五人と刻まれていた。砂原はここの小字で問題ないが、光背に刻まれた「講中十六人」とこの十五人はどういう関係になるのだろう?

DSC_0343.jpg
右 観音菩薩塔 安政2(1855)塔の正面に「觀世音菩薩」左側面に天下泰平 五穀成就、右側面に造立年月日が刻まれている。下の台の正面には大きな字で「講中」と刻まれていた。

DSC_0346.jpg
台の左側面には「西」とあり、右脇に川越 二り半、左脇に飯田新田?十八丁。右側面は壁があって狭く正確には読めなかったが、「東」とあり、奥に ひき又へ二り、手前にはねくらばしへ?十八丁のように見える。