桜区大久保領家

 

大泉院 桜区大久保領家363[地図]


埼大通り 鴨川に架かる浅間橋の200mほど東の信号交差点を左折。北へ800mほど進むと大泉院の入口に出る。入口右には戒壇石。左には白い看板が立っていた。


看板の下、草深い中に庚申塔 天明2(1782)角柱型の石塔の正面 日月雲の下に「庚申塔」右側面に造立年月日。前回取材したときにはこちらには四基の庚申塔があったのだが、今回10年ぶりに訪れて見ると二基の文字塔しか見当たらなかった。残りの二基のうち像塔は割合簡単に移動先が分かったのだが、この庚申塔だけは見つからずあきらめかけていた。看板のかげ、草深い中で目に入りにくい。それでもなんとか見つけたものの、今回は残念ながらきれいな写真は撮れなかった。


草をかき分け、台の正面にやっと三猿を確認できる。

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10年前の写真。この時は全体を確認することができたのだが・・・


入口右の戒壇石の裏に像塔が立っていた。


庚申塔。舟形光背に日月 青面金剛立像 合掌型六臂。足元に三猿だけが彫られている。銘は見当たらず。造立年など詳細は不明。前回取材時にはこちらはもう少し奥、山門左手前の植え込みの中に立っていた記憶がある。


奥に進むと右手の塀の前に小堂が立っていた。その右脇に石塔が見える。


庚申塔 天保5(1834)角柱型の石塔の正面に「庚申塔」右側面に造立年月日。左側面に願主は個人の名前が刻まれていた。


小堂の中には馬頭観音塔 安永4(1775)四角い台は二段になっていて、舟形光背型の石塔が乗る。


梵字「カン」の下、馬口印を結ぶ二臂の馬頭観音像。頭上の馬頭は明快。右脇に「馬頭観音菩薩」左脇に造立年月日。右下に領家、左下に村中。足の下の部分に願主とあり5名の名前が刻まれていた。

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さらに奥に進むと小堂の中に丸彫りの六地蔵菩薩塔が並んでいた。


六基の石塔の正面の銘を見ると下大久保村、領家村の多くの人たちが力を合わせてこの六地蔵を造立したようだ。右端、下大久保村善男女。続いて願主、先祖菩提とあり、四名の名前。


右から2番目 領家村 願主とあり、三名の名前。左脇には同村中 念佛講中。残りの四基にも金 壱分 爲先祖菩提とか、金弐朱爲両親などとあり多くの名前が刻まれているが、紀年銘が確認できず造立年はわからなかった。


六地蔵の小堂の近くに疱瘡神塔 天保2(1831)が立っている。


やがて緑の中に山門、その奥に本堂が見えた。ここから右に曲がると六地蔵の小堂。山門手前、左側にも石塔が立っている。


一番手前 庚申塔 天保5(1834)馬頭観音の小堂脇の庚申塔と造立年も同じ、よく似た角柱型の石塔で「兄弟塔」かと思ったが、こちらは正面「庚申塔」の上部両脇に「日」「月」があり、願主の名前も違っていた。


その裏の立木の間に地蔵菩薩立像 寛政3(1791)?二段の台に厚い敷茄子と蓮台。その上の丸彫りの地蔵像も堂々としている。


敷茄子の正面に卍が彫られ、その両脇に「三界萬霊」反花付きの台の正面右脇に施主村々、左脇に善男女と刻まれていた。


その両側面に多くの名前が刻まれているが、彫りが薄くうまく読み取れない。


裏面も銘は読みにくい。右から石工名、願主名などが刻まれているが「願主」のすぐ左脇に干時と読める。続いて寛政?三?ライトを当てたりしてなんども確認したが、断定はできないレベル。左のほうに下笹目村、美女木村など、遠方の村の名前が刻まれていた。


地蔵菩薩塔の後ろに二基の石塔。こちらは東向きに立っている。


左 宝篋印塔 明和3(1766)基礎の正面に「三界萬霊」と刻まれていた。


基礎の裏面に願主。右側面に造立年月日。その左脇に再建安政六年未七月とやや小さく刻まれている。安政の大地震で倒れたのだろうか?


二段の台の下のほうの台の正面、右端に助力之施主とあり、下大久保村、塚本村などから多くの人の名前が刻まれていた。


右 観音菩薩塔 宝永7(1710)大きな立方体の台石の上、重厚な敷茄子、蓮台に丸彫りの聖観音菩薩坐像が乗っている。観音様は左手に左手に未敷蓮華を持ち、右手をそのつぼみに添えていた。


台石の四面に六観音像が大変美しい姿で浮き彫りされている。


左側面に彫られた如意輪観音坐像の左肩の脇に造立年月日が刻まれていた。

 


山門の先、参道両脇に羅漢像が並んでいた。山門前も含めて、大泉院は緑が多く、その中に多くの石仏が立っている。小型の石仏はほとんどが墓石だったが、無縁塔などに積み上がられることなく、境内のあちこちに置かれていた。


山門を入ってすぐ、参道右手に五輪塔。銘はまったく見られないが、鎌倉時代のものとされている。


山門と本堂のちょうど真ん中あたり、参道左側に観音堂への入口があった。右奥の木々の中に七福神が並んでいる。


うっそうとした木々の間の道を進むと、両脇に多くの石仏が立っていた。ほとんどが江戸時代の墓石だが、入口近く右手には地蔵菩薩立像 元文3(1738)


舟形光背右脇に「念佛講中爲二世安樂也」施主善男女。左脇に武刕足立郡植田谷領下大久保村廿六人と刻まれていた。


いくつかの墓石に「烏八臼」が刻まれている。曹洞宗と浄土宗の墓石に見られることがあるということだが、実際にはなかなか目にすることはない。こちらは阿弥陀如来立像。他に如意輪観音像の頭上にも確認できた。


観音堂近く、右手に石橋供養塔が見えてくる。


角柱型の石塔の正面に「石橋供養塔」上部両脇に造立年月日。右下、足立郡下大久保村。左下に願主名が刻まれていた。


塔の左側面に多くの名前が刻まれている。右側面下部には引又、宗岡など現在の志木市の地名。石橋は交通の安全にとって重要なものということで、石橋供養塔には近隣の村々の名前が見られることが多いようだ。

観音堂の東に多くの板碑型の墓石が整然と並んでいた。明暦から享保あたりまで、これだけ多くの板碑型の石塔が一堂に会するのを目にすることはめったにない。


観音堂の前にもいくつか石塔が立っていた。


堂の右脇 百万遍供養塔 文化11(1814)角柱型の石塔の正面上部を彫りくぼめた中に「百万遍供養塔」念仏供養塔である。両脇に造立年月日。下部に武陽足立郡下大久保村 念佛□善男女。さらに願主名などが刻まれていた。
 

観音堂の階段右下 馬頭観音塔 昭和16(1941)個人の造立の文字塔。


階段左下 観音菩薩塔。角柱型の石塔の正面「南無觀世音菩薩」紀年銘は見当たらないがあたらしもののようだ。


本堂の西一帯におおきな墓地が広がっている。その一番奥、歴代住職の墓石と思われる卵塔が並び、その隣に五輪塔、宝篋印塔、板碑型石塔合わせて四基の石塔、いずれも江戸時代初期のもので、さいたま市指定史跡「春日氏の墓」である。

 

弁天社 桜区大久保領家595[地図]


県指定天然記念物「大久保の大ケヤキ」で有名な日枝神社。そのすぐ南のT字路を右折すると道路左側にブロックの小堂が立っていた。中に二基の石塔が並んでいる。


右 庚申塔 元禄3(1690)駒型の石塔の正面上部に青面金剛像を浮き彫り。その下に銘が刻まれる。


日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。顔は削れていて不鮮明。頭上に蛇か?青面金剛は磐座に横たわる邪鬼の背中を踏んでいる。


像の下の部分、中央に「庚申供養一結衆拾八人」その両脇に現世安穏・後生善処。その下に宥譽 律師。右端に造立年月日。続いて法王法中久修梵行。さらに左のほうに今得無漏無大果。調べてみるとこの二つの偈文は法華経の信解品の中にある。左端に武蔵國足立郡領家村願主等合爪。台の正面に三猿が彫られていた。


左 弁財天塔 享保11(1726)駒型の石塔の正面に一面八臂の弁財天立像を浮き彫り。


穏やかな表情の弁財天。頭上に鳥居を乗せる。持物は槍・矛・鉤・法輪・弓・矢。前手に剣と宝珠。


塔の左側面に造立年月日。隙間が狭く写真は撮れなかった。右側面「奉造立辯財天一體」下部に願主四名の名前。さらに領家村中と刻まれている。

 

薬師堂墓地 桜区大久保領家205[地図]

大泉院通りの常楽寺のある信号交差点から400mほど西、押しボタン信号交差点の少し手前を右折、コンビニの脇の道を北へ進むと、住宅街の中に薬師堂があった。入口近くに小堂が立ち、その奥に石塔が並んでいる。


小堂の中、六地蔵菩薩立像 宝暦13(1763)光背の色味が若干違っているが、サイズはよくそろっていて、像と蓮台の様子からみても同時に造立されたものだろう。


右から2番目の光背に村念佛講中、施主 善空。3番目の光背に造立年月日が刻まれていた。


六地蔵の小堂の奥に五基の石塔が並んでいる。左端だけが文字塔で、残りはいずれも地蔵菩薩塔だった。


左から 弘法大師供養塔 享保5(1834)角柱型の石塔の正面、梵字「カーン」の下に大きく「弘法大師」四角い台の正面に助力 領家村 神田村と刻まれている。


塔の左側面に造立年月日。続いて光明院住本浄。こちらの薬師堂はは廃寺となった光明院万願寺の堂宇だったらしい。


塔の右側面には足立八十八ヶ所十七番 阿波国井戸寺移と刻まれていて、四国移霊場標石ということになる。


その隣 地蔵菩薩塔。二段の四角い台の上、隅丸角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中に地蔵菩薩立像を浮き彫り。


上部に蓮台に乗った梵字「カ」輪光背を負ったお地蔵様、錫杖、宝珠は健在だが白カビが多く像の様子はいまひとつはっきりしない。


蓮台の下の反花付きの台の正面に「念佛講」右側面に武刕足立郡 植田谷領 領家村 光明院住 智宥代。地蔵菩薩を主尊とする念仏供養塔とすべきだろう。


台の左側面と裏面には多くの戒名などが刻まれているが、どこにも紀年銘は見当たらなかった。


続いて 地蔵菩薩塔 寛政9(1797)隅丸角柱型の石塔の正面に地蔵菩薩立像を浮き彫り。像の部分は大きく剥落。


塔の左側面に造立年月日。この面にもひび割れが走っている。


右側面に天下泰平・國土安全。江戸時代も後期になると、凝灰岩、砂岩系の石が多く見られるようになり、剥落、崩落、断裂など時代の経過に伴って風化が進みやすくなる。


この地蔵塔では右手に錫杖、左手に宝珠を持ったお地蔵様の剥落した一部が、石塔の下部にかろうじてそのままの姿で残されていた。


その隣 地蔵菩薩塔 昭和54(1979)大きな丸彫りの地蔵菩薩立像。台の裏面に寄進者34名の名前が刻まれている。地域の人々の信仰心の表れだろう。


右端 地蔵菩薩塔 元禄10(1697)四角い台の上、舟形光背に地蔵菩薩立像を浮き彫り。足元の部分に領家村 施主村中と刻まれている。


像は一部損傷、光背に白カビも多く銘も読みにくい。頭上に梵字「カ」光背上部両脇に造立年月日。右脇に「奉造立地蔵菩薩」その横に信心□□爲二世安樂。下部に足立郡 植田谷領。左脇の銘も難しい。「運丹□諸願成就 □満足功徳□」その下に量無遍欽言。


300年もの間、風雪に耐え、多くの村人たちの祈りを受け続けてきたのだろう。顔の一部はつぶれているが、その横顔は凛として美しい。