脇田本町・砂新田・砂久保の石仏

脇田本町公園 川越市脇田本町11[地図]


東武東上線川越駅の西口から西へ300mほど、信号交差点の角に「脇田本町公園」がある。歩道に向かって小堂が立ち、中に二体の地蔵菩薩像が、その右脇には庚申塔が立っていた。


小堂の中 左 地蔵菩薩立像 寛文2(1662)舟形光背型。それなりに風化が進み、顔の様子もはっきりしない。


光背の中央 お地蔵様の顔の上に「修善根主」顔の右脇に爲菩提□、左脇に地蔵菩薩尊容也。右下に造立年月日。左下に二名の名前。その下に施主敬白と刻まれていた。


右 地蔵菩薩立像 元禄16(1703)こちらも風化が進む。光背右脇、「念佛講」その下に個人名。左脇に造立年月日。足元の前出の部分に施主拾人と刻まれていた。


小堂の右脇に庚申塔 明和8(1771)唐破風笠付き角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。


表面はやや風化の為に丸くなっていて柔らかい印象を受ける。二股に割れた髪の間に蛇の頭。青面金剛の顔は削られたものだろうか、これもはっきりしなかった。ショケラは小さくてかわいらしい。


塔の下部には丸みを帯びた二鶏、邪鬼、三猿がバランスよく彫られている。


塔の右側面に造立年月日。その右脇に現住義□代、下のほうに三名の名前。


左側面には再興願主とあり、下のほうに三名の名前。右側面の三名と合わせて願主六名だろうか。さらにこの庚申塔の再建の由来が記されていた。それによると創建時の石塔は「青面金剛」と刻まれた文字塔だったようだ。裏面にその造立年、延宝3(1675)と明記されている。

 

地蔵院 川越市砂新田2-12[地図]


新河岸駅西口から西へ向かう「いちょう通り」は川越街道の旧道を越えると緩やかに右にカーブしてゆき北へ向かう。信号のあるT字路で不老川沿いの県道8号線にぶつかるが、その400mほど手前を右手に入ると地蔵院の入口があった。

境内に入り左側に 普門品供養塔 安政5(1858)大きな基壇の上、四角い台に角柱型の石塔。正面に「普門品供養塔」右側面に造立年月日。左側面に天下泰平百穀成熟。台の正面に村内安全と刻まれている。
 

入口右側には石坂供養塔 嘉永2(1849)二段の台の上に立つ角柱型の石塔の正面「奉建立石坂供養塔」上のほうの台の正面に施主十数名の名前が刻まれていた。左側側面はさつきの枝が迫っていて確認できない。右側面に造立年月日。続いて寄附近村中と刻まれている。


参道を進むと左脇に小堂が立っていた。中央にやや大きな地蔵菩薩塔。囲むように六地蔵菩薩立像 寛政9(1797)丸彫りだが風化が少なく状態はいい。中央の主尊となる地蔵像と周りの六体の地蔵像は石質、彫りの様子、蓮台、敷茄子、石塔部の銘、いずれもよく似通っていて、同時に造立されたものと思われる。


中央の石塔の正面中央「念佛講中」両脇に造立年月日。右下に惣村中。左下に願主名。右側面に砂新田と刻まれていた。六地蔵の石塔部にはそれぞれの地蔵名が刻まれ、戒名、命日などが見られるが、中央寄りの二基には戒名などはなく、「念佛講中」「惣村中」と刻まれている。


本堂の右脇を通って墓地の奥に向かう途中、右側に馬頭観音塔の文字塔 明治31(1898)が立っていた。


墓地の一番奥、ブロック塀の前に五基の石塔が並んでいる。


右から千手観音菩薩立像。かなり風化が進み、銘がまったく確認できないのは残念だ。


近づいてみるとやはり顔がつぶされていた。胸前で合掌する手、腹前に壺?を持つ手、光背のほうに7組の手。とりあえず18臂だろうか。石仏で「千手」を表すのは難しくこのくらいの像容をよく目にする。多臂の変化観音としては馬頭観音(六臂が普通)如意輪観音(六臂)十一面観音(四臂?)もあるが、十臂を超えるとなると千手観音か准胝観音。胸前の手が千手観音が「合掌手」、准胝観音の場合は「説法印」で、こちらは千手観音と考えられる。


ここからは四種四様、様々な庚申塔が続く。まずは駒型の庚申塔。紀年銘は確認できない。大きな駒型の石塔に浮き彫りされた青面金剛立像 合掌型六臂。日月雲は雲が大きく中央でつながる形でこれも時々見かける。像を中心に白カビが厚くこびりついていた。


頭上にターバンのようにとぐろを巻いた蛇を乗せた青面金剛。顔はやはり削られている。足の両脇には二鶏が半浮彫。足元では貧弱な邪鬼が踏みつぶされている。


三猿は大きめだが頭部が破損。風化によるのだろうか?三猿の下の部分に施主とあり七名の名前が刻まれていた。


その隣 庚申塔 天明8(1788)角柱型の文字塔。二段の台の上、角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中に大きな字で「庚申塔」上の台の正面に「講中」と刻まれている。


塔の右側面に造立年月日。台の右側面には七名の名前。


塔の左側面、下部のほうに砂新田。台の左側面、五名の名前に続いて、願主 大蔵院應順と刻まれていた。


3番目 庚申塔 寛文9(1669)「三猿庚申塔」だが、角柱型は珍しい。


塔の正面中央に武刕入間之郡砂新田、両脇に造立年月日。「庚申」の銘はどこにも見られない。下部に素朴な三猿。やはり風化の為なのか、顔は扁平でのっぺらぼう。


塔の両側面、下部にそれぞれ十数名、合わせて二十数名の名前が刻まれていた。


左端 庚申塔 元禄10(1697)舟形光背に日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。光背は大きく欠け、像のあちこちに白カビが雪のように積もっている。


光背両脇に造立年月日。右脇には続いて砂新田と刻まれていた。


足の両脇に二鶏を半浮彫。青面金剛は磐座の上に立ち邪鬼はいない。三猿は大きめで、中央が正面向き、左右両脇が足を抱え込んで内側を向くという構図。こちらも顔ははっきりしない。三猿の下の部分に九名の名前が刻まれていた。

 

高階中学校西交差点 川越市砂新田374[地図]


川越街道の旧道、高階中学校の西のT字路交差点の角に小堂が立っている。中には3基の石塔が並んでいた。


中央 庚申塔 宝永5(1708)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。風化の為に塔の縁が凸凹になり、その一部は欠けている。


顔は完全につぶれていた。頭上は蛇だろうか。像の右脇「奉造立庚申供養」左脇に造立年月日。さらにその横に武刕入間郡砂新田村。この部分は塔の縁に近く一部破損しているがなんとか読み取れる。


足の両脇に二鶏を半浮彫。足元の邪鬼は貧弱でその下の三猿よりも小さい。三猿の下の部分に12名の名前が刻まれていた。


左 馬頭観音塔 天保2(1831)駒型の石塔の正面中央に「馬頭觀世音」両脇に造立年月日。塔の左側面に施主として個人名が刻まれている。


右 馬頭観音立像。風化が著しく進み銘などは見当たらない。像は溶けておぼろげだが、頭上に馬頭が認められ、やはりこちらは馬頭観音立像で間違いないと思う。

 

砂久保共同墓地 川越市砂久保133北[地図]


県道6号線の今福交差点から東に進むと不老川に架かる砂久保橋を渡る。橋から200mほど先を右折して細い道を少し行くと右手に墓地があった。入口から入ってすぐ、両側にコンクリートの小堂が立っている。


右の小堂には四基の石塔が並んでいた。


右端 如意輪観音坐像 享和2(1802)大きな角柱型の石塔の上、敷茄子、蓮台を重ねてその上に丸彫りの如意輪観音の二臂像。風化も目立たず、白カビもない。ここに集められた他の石塔も白カビはほとんど見られない。それだけ丁寧にお世話されてきたということだろうか。


石塔の正面には願文。右側面に造立年月日。左側面には砂久保村 惣村中と刻まれていた。


その隣 庚申塔 寛政3(1791)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。


あまり前例のないユニークな表現。面長の青面金剛の表情は穏やかでやさしげ。頭上、髪の中の蛇の首が長いのも珍しい。


足元に狛犬のような顔をした邪鬼が両手を前に突っ伏す。その下には三猿が彫られ、二鶏は見当たらない。


塔の右側面に造立年月日。左側面は柱との隙間がなくカメラはぎりぎりだったが、當村講中と刻まれているのが確認できた。


続いて馬頭観音塔 明和2(1765)駒型の石塔の正面に三面六臂の馬頭観音立像を浮き彫り。像は風化の為に表面が丸みを帯びている。足元の前出の部分に願主 講中 二十八人と刻まれていた。


三面ともに顔ははっきりしない。頭上の馬頭は大きく前にせり出していて、どこか不気味な雰囲気。塔の右側面に造立年月日。左側面に武刕入間郡川越領砂久保村と刻まれている。


左端 地蔵菩薩立像 元文元年(1736)きれいな舟形光背にバランスの良い地蔵菩薩像を浮き彫り。こちらも顔はのっぺらぼうだ。光背右脇に「念佛供養塔」左脇に造立年月日。その横に武刕入間郡砂久保村施主とあり、足元には二十人ほどの名前が刻まれていた。


入口左側の小堂の中 地蔵菩薩立像 寛政8(1796)角柱型の石塔の上、蓮台に立つ丸彫りの大きなお地蔵様。欠損もなく堂々と佇んでいる。


石塔の正面を彫りくぼめた中、中央に「奉納 西國四國 秩父坂東 巡礼供養塔」その両脇に歴代住職だろうか、5人の上人の名前が刻まれていた。


塔の左側面 大導師 蓮馨寺三十世とある。この墓地は蓮馨寺の末寺の浄土宗寺院の墓地だったのだろう。奥に惣村中。さらに願主一名の名前が刻まれている。


右側面には所々志村々とあり、岸村はじめ六村の名前。最後に造立年月日が刻まれていた。