南区辻

吉祥院 南区辻2-3[地図]


国道17号線の辻五反田交差点のあたりから住宅街の中を西に向かう。国道と平行して走る旧中山道の近くに吉祥院があった。入口から正面に本堂、右脇に小堂が二つ、その右奥に屋根が見えているのは鐘楼、さらにその奥が墓地になっている。


ブロックづくりの二つの小堂、手前には六地蔵が祀られていた。それぞれの台に戒名などが刻まれているが、紀年銘は見当たらず造立年など詳細は分からない。


奥の小堂の中 丸彫りの地蔵菩薩立像 享保11(1726)大きなマントをまとっているため像の様子をうかがうことはできなかった。
 

角柱型の石塔の正面、梵字「カ」の下に「奉建立地蔵大菩薩廻國供養所」両脇に造立年月日。左下に願主 浄念と刻まれていた。


塔の左側面には二つの戒名、右側面に三界萬霊十方含識と刻まれている。


小堂の向かい、西側のブロック塀に沿って多くの石塔が並んでいる。入口近くには比較的小型の墓石などが集められていた。


最前列の中 馬頭観音塔。舟形光背に六臂の馬頭観音立像を浮き彫り。光背も像も白カビが多くはっきりしない。銘は確認できず詳細不明。以前来たときは・・・

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こちらは2014年の1月の取材時の写真。白カビも少なく、頭上の馬頭はくっきり。目を吊り上げて見事な忿怒相。10年足らずでここまで白カビが増えたのには驚く。


ブロック塀の前には大型の石塔群。左から大乗妙典供養塔 正徳2(1712)四角い台の上、蓮台に唐破風笠付き角柱型の石塔。


石塔の正面を彫りくぼめた中 上部に智拳印を組む大日如来坐像を浮き彫り。その下に「奉納大乗妙典六十六部日本廻国諸願成就」両脇に天下・泰平。さらに造立年月日が刻まれている。


塔の右側面 武刕足立郡浦和領辻村。左側面、梵字「ア」の下に西國 四國 秩父 坂東。その下はくぼみ穴がいくつも穿たれていて銘が読みにくい。二列の銘はいずれも最後は二世安樂だった。


裏面に「光明真言百五十万遍」「念佛百五十万遍」下部に多くの名前が刻まれている。


その隣 宝篋印塔 宝暦8(1758)塔身四面にぞれぞれ梵字が刻まれ、基礎正面と両側面に偈文。


裏面 武州足立郡浦和領辻村吉祥院現住 宥星。中央に「尊勝陀羅尼講中」その両脇に造立年月日。左下には江戸深川大工町の石工名が刻まれていた。


続いて歴代住職の墓石が並ぶ。まずは三基の五輪塔、左から延享4(1747)寛保元年(1741)正徳3(1713)の銘が刻まれていた。


さらに元禄15(1703)の宝篋印塔、続く唐破風笠付き角柱型の石塔は正保4(1647)、その奥の笠付き角柱型の石塔には寛文2(1662)と慶安2(1649)の二つの命日と戒名が刻まれていた。いずれも江戸時代初期の墓石で、吉祥院の歴史の古さを感じさせられる。

 

萬蔵寺 南区辻2-25[地図]


国道17号線の辻交差点から南へ100ほど、道路左側に万蔵寺の入口があった。入口から入ると正面に大きな駐車場、左に折れると正面に赤いトタン屋根の本堂が立っている。参道両脇に石塔が並んでいた。



参道の右脇に四基の石仏。駒型の青面金剛庚申塔と三基の角柱型の石塔である。


右から 出羽三山供養塔 安永3(1774)反花付きの四角い台の上、四角い敷茄子とやはり四角い蓮台の上の角柱型の石塔の正面を彫りくぼめて、上部に大きく梵字「アーンク」。その下にやや小さく梵字が三つ、おそらく出羽三山を表すのだろう。続いて 月山 湯殿山 羽黒山。スケールの大きな石塔である。


塔の右側面に造立年月日。下部に数名の名前。左側面中央に武州足立郡浦和領辻村。その下に横に大きく「講中」さらに右に願主とあり、続いて多くの名前が刻まれていた。



その隣 庚申塔 宝永6(1709)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。白カビが多い。頭上に蛇が頭を垂れる。像の左脇に造立年月日。右脇「奉造立庚申供養佛二世 證大菩提」


足元に正面向きの邪鬼。上半身型で、腕をM字に張っている。その腕の両脇に二鶏。丸っこい三猿は中央が正面向き、両脇が内を向く。三猿の下に十数名の名前が刻まれていた。


続いて大きな角柱型の文字塔 文政9(1826)。正面には 「教道法子」筆子塔だろうか?その左側面に 「敷石供養塔」 下の台の正面には万蔵寺 檀中 世話人。台の左側面にも同世話人とあり、二名の名前が刻まれていた。


左端 庚申塔 安政2(1855)角柱型の石塔の正面に「庚申塔」下の台の正面に「連經講中」こちらの石塔も白カビが多く銘が読みにくい。


正面「庚申塔」の塔の文字の右脇に小さく銘が見える。□ら□(道)うらわ道か?


塔の右側面に造立年月日。左側面には南 はやせ道。ライトを使ってやっと確認できた。


参道左側、ブロック塀の前にも石塔が並んでいる。一番奥、本堂の左手前に六地蔵の小堂が立っていた。


手前から、線香立て二台と二基の石塔が並ぶ。


左 庚申塔。上部が斜めに欠けていて、石塔の正面には「□申塔」左側面には紀年銘らしき文字が見えるが一部剥落のため読み取りは困難。造立年は分からない。


右側面、南 はやせ ひきまた。道標になっていた。


右 馬頭観音立像 宝永7(1710)頭上にはっきりとした馬頭。顔は削られていた。舟形光背の左脇に造立年月日。右脇「奉造立華見塔供養□證大菩提」華御堂供養塔らしい。馬頭観音では珍しいものと思われる。光背左下に施主 辻村 拾六人と刻まれていた。


六地蔵の小堂の左手前に三基の馬頭観音塔が並んでいる。


左 馬頭観音立像。舟形光背は風化が著しく進み、観音像の上部は大きく剥落。そんな中、馬口印を結んだ両手だけがしっかり残っていた。銘は見当たらず造立年など詳細は不明。


中央 馬頭観音塔、駒型の石塔の正面「馬頭觀世音」右脇に文化とだけ見えているが造立年は欠けている。


右 馬頭観音塔。剥落した部分に白カビがこびりつき、銘はほとんど見当たらないのだが、目を凝らしてやっと「馬」らしき字が見える。やはり詳細は分からない。


小堂の中、六地蔵菩薩立像 安永4(1775)丸彫りの六体のお地蔵様はサイズ、表情などよく似ている。右端の蓮台の色が違っているのは補修されたものだろう。


左端の石塔の正面には信心道俗男女、3番目に辻村講中七拾人。


右から2番目に造立年月日が刻まれていた。


本堂の裏いったいに墓地がひろがっている。本堂のすぐ真裏には無縫塔などと一緒に二体の丸彫りのお地蔵様が並んでいた。


左 地蔵菩薩立像。本来の石塔部を欠いているため銘が確認できず、造立年など詳細不明。彫りは細かく表情も生き生きとしていて堂々たる佇まい。石質も硬く、江戸時代初期のものかもしれない。


右 日参供養塔 享保9(1724)角柱型の石塔に敷茄子・蓮台を重ねて、その上に丸彫りの地蔵菩薩立像。整った尊顔、錫杖、宝珠も健在。首に補修跡も見当たらなかった。


角柱型の石塔の正面「日参供養像」両脇に造立年月日。「日参供養」というのはこれまで他に見たことはなく大変珍しい。毎日このお地蔵様にお参りする人たちの講があったということだろうか。

 

和光院 南区辻3-11[地図]


萬蔵寺の200mほど西の住宅街の中に和光院があった。広い駐車場の先の山門の左脇に弘法大師像、右のほうに寺導が立っている。


入口のすぐ右側、フェンス付きの塀の近くの植え込みの中に石塔が立っていた。


光明真言供養塔 寛政9(1797)角柱型の石塔の正面「奉納光明真言三百万遍供養成就之塔」


塔の右側面に造立年月日。その下に講中 六拾人。さらに願主、世話人それぞれ一名の名前。左側面上部に「南無遍照金剛」下部に八十八ヶ所之内 四十六番移と刻まれていた。


山門から境内に入って左側に阿弥陀堂がたっていて、その先が墓地になる。阿弥陀堂の手前に三基の地蔵菩薩塔が並んでいた。



大中小と揃った三基の丸彫りの地蔵菩薩塔。以前来たときは中央の地蔵塔の後ろに銀杏の大木があったが、今は切り株だけが残されていた。また、この左端のあたりに「キリシタン灯篭」と思われる石塔が立っていたのだが、どうやら整理されてしまったようで、今はみることができない。

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(2014年1月20日の記事より)


左 地蔵菩薩立像 明和4(1767)石塔にいくつか戒名が刻まれていてこちらは墓石だった。


中央 大乗妙典供養塔 寛政6(1794)二段の四角い台の上角柱型の石塔の上に丸彫りの地蔵菩薩立像。


石塔の正面 中央に「奉納大乗妙典六十六部日本廻國諸願成就所」上部両脇に天下泰平、その下両脇に造立年月日。右下 江戸□、左下に願主圓□と刻まれている。


右 地蔵菩薩立像 寛政11(1799)大きな四角い台の上、角柱型の石塔に恰幅のいい地蔵菩薩立像。堂々たる石仏だが、戒名が刻まれていてこちらも墓石だった。


阿弥陀堂の裏に大きな聖観音立像をいただいた無縁塔があった。墓石の多くは文字塔だが、四辺の中央には美しい像塔が配されている。正面に寛文元年(1661)、右に延宝3(1675)、左には正徳2(1712)いずれも舟形光背型の聖観音菩薩塔だった。


裏面の中央には元禄2(1689)の阿弥陀如来立像。その右上にひときわ目を引く大型の石仏が立っていた。


薬師如来立像 延宝8(1680)腹の前で薬壺を両手に乗せて持つ。彫りは厚く比較的白カビも少ない。墓石で薬師如来像というのは珍しく、貴重な石仏と言えるだろう。


無縁塔の先に五基の石塔が並んでいる。右の大きな角柱型の三基の石塔はいずれも墓石、左から2番目は宝篋印塔 享保10(1725)


左端 大乗妙典供養塔 宝永8(1711)宝珠をのせた唐破風笠付き角柱型の石塔。


正面を彫りくぼめた中、上部に智拳印を結ぶ金剛界大日如来坐像を浮き彫り。


その下「奉納大乗妙典六十六部日本廻國諸願成就」上部両脇に天下泰平。その下両脇に造立年月日。右下に願主とあり左下に哲譽□賢と刻まれていた。


塔の右側面 上部に四國 西國 秩父 坂東。下部に30名ほどの名前。


左側面に武刕足立郡浦和領辻村。こちらも下部に30名ほどの名前。裏面上部、浦和町、本太村、白幡村など近隣42ヶ村の名前、下部にやはり30名ほどの名前が刻まれていた。三面合わせると100名ほど、これだけ広い範囲の、また多くの人たちをつなぐネットワークがあったというのは驚きである。

 

庚申堂 南区辻8-20-13[地図]


外環道の辻六丁目(東)交差点から南へ進み、橋を渡った先の交差点を左折、遊歩道に入るとすぐ左手に小堂がたっていた。


新しいきれいな小堂の中、南向きに並ぶ二基の庚申塔。この二つの庚申塔は、以前は辻五丁目交差点の南路傍にあったもので、平成24年にこちらに移されたものらしい。


右 庚申塔 天明7(1787)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。


風化が進み顔は削れていた。矛・法輪・弓・矢は比較的しっかり。前手の剣とショケラは損傷、ショケラは見る影もない。


足元にうずくまった邪鬼が前をうかがう。その両脇に二鶏を浮き彫り。三猿は台の正面に彫られていた。


塔の右側面、奥に造立年月日。その横にむかう はやせ道。さらに辻村講中と刻まれている。


左側面には二つの地名。彫りは薄くなっていて読みにくい。□□うらハ道。左ハ おふやま□道。道標になっていた。


左 庚申塔 嘉永6(1853)角柱型の石塔の正面に大きく「庚申塔」


「塔」の右脇に薄く 南 引又道と刻まれている。ちょっと気をつけないと見逃しそうだ。


塔の右側面 はやせみち、壱町程ゆき 左 わらび道。


左側面 うらわみち、続いて連經講中、世ハ人二名の名前。奥に造立年月日が刻まれていた。