岩槻区馬込

満蔵寺 岩槻区馬込1209

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岩槻駅のほうから国道122号線を北上すると平林寺橋で東北道を越えてやがて蓮田駅付近に出る。東北道を越えたあたり、国道122号線の一本南の道沿いに満蔵寺の入り口がある。寺標の右脇に石塔が並んでいた。

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一石六地蔵塔 明和3(1766)上隅を丸くした角柱型の石塔の正面に六体の地蔵菩薩立像を浮き彫り。六体とも損傷は少なく顔ははっきりしないものの厳かな雰囲気を保っている。

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塔の右側面中央 梵字「カ」の下「奉造立六地蔵尊」その下は一□一礼俱?生極楽か。その両脇に造立年月日。

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塔の左側面には岩槻領馬込邑 願主満蔵寺四十六世了賢代と刻まれていた。

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その裏に百ヶ所供養塔 文化4(1807)塔の正面 上部に阿弥陀三尊を梵字で表し、その下に「奉納秩父西國坂東百箇所供養塔」観音霊場順礼を記念して建立されたものだろう。右側面 馬込邑とあり5名の名前、左側面にも5名の名前が刻まれている。

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山門を入ると正面に本堂があり、その手前、参道の右側に石地蔵などが並んでいた。
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右から 地蔵菩薩立像 天保11(1840)蓮台の下の大きな台の正面左脇に造立年月日が見える。

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像の背面を見てみるとまず先祖代々とあり、その下に當山四十九世木□□代。さらに四つの戒名と命日が並んで刻まれているが、「信士」「法印」「禅定門」「禅定尼」と出家、在家の戒名が並んでいて、これをどう考えたらいいのだろうか?また、その命日は宝永と享保で1709年から1727年で、台の正面にあった紀年銘とは100年以上の隔たりがあり、これも不思議な感じがする。あるいは台と像が本来の組み合わせではないのかもしれない。

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その隣 地蔵菩薩立像 天和3(1683)大型の丸彫りの延命地蔵。像の前面下部に□□□大姉と戒名が見える。

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こちらは背面に造立年月日が刻まれていた。

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続いて唐破風笠付角柱型の法華経千部供養塔 元禄3(1690)

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正面を二重に彫り窪めた中、上部に梵字「バク」その下に「奉読誦妙法蓮華経千部成就智力妙体一月□□處」下のほうは白カビのためにはっきりしない。右脇に善主、左脇に福主とありその下にそれぞれ戒名が刻まれているが、いずれも院号が付き最後は「居士」「大姉」となっていて相当格式の高い家のものと思われる。下のほうに「現在位」「壽位」と見えるがその意味はわからない。

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裏面に 武州埼玉郡馬込村建立とあり続いて個人名。左脇には造立年月日が刻まれていた。

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最後に常夜灯 文化10(1813)正面に「永代常夜灯」右側面に造立年月日。

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左側面には願主村中とあり世話人、手替それぞれ一名の名前が刻まれていた。

 

1DSC_0870.jpg参道の左右両側ともに墓地になっている。右(東)の墓地の入口近くにある個人の墓地の中、大きな雨除けの下に石地蔵が立っていた。お地蔵さまは妙に後ろに反り返っている。脇の石塔に昭和61年再建と刻まれていて、確かに蓮台とその下の台を見ると新しいものだった。

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地蔵菩薩立像 安永5(1776)真ん丸なお顔の丸彫り延命地蔵。保存状態がよく錫杖、宝珠はもちろん、細かい彫りもきれいに残っていた。

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像の背面中央に「為一悟霜心信士造立也」両脇の紀年銘は命日だろう。

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東の墓地、10mほど入ったあたりに三基の石塔が並んでいて、真ん中は石地蔵だった。

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地蔵菩薩立像 享保12(1727)風化がすすみ光背全体が真っ白な中に、静かな表情の延命地蔵を浮き彫り。光背右に念佛講□□同行三拾人、光背左に造立年月日。下部右脇に馬込村、左脇には施主とあるがその下の名前は読み取れない。

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東の墓地の奥まで歩いてゆくとその一角に二体の石地蔵が並んでいる。左のほうは個人の供養のためのものだった。

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右 地蔵菩薩立像 安永2?(1773)像は全体に白カビに覆われ白衣をまとっているかのようだ。丸彫りの延命地蔵は丸顔で柔らかな微笑みを浮かべている。

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下の台の正面 右から武州埼玉郡 馬込村 施主丹心、次は年号に当たる部分が欠けている。かすかに「二」と見え、江戸時代の年号の中では二年が癸巳の年となるのは安永二年しかないがあまり確証はない。

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像の背面には白カビの中に「三界萬霊為二親菩提也」と刻まれていた。


参道の左側には二つのお堂が立っている。資料によると薬師堂内には寛文9年の二基の庚申塔、主尊が不動明王と薬師如来という珍しい庚申塔があるらしいのだが、二つのお堂はいつも鍵がかかっていて中を拝見することはできなかった。お彼岸とか特別な日には開帳されている可能性がありそうなのでいつかトライしてみたい。

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参道の左側、西の墓地は二つのお堂の裏にあたり、その奥に歴代住職の墓地があった。

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正面右側 阿弥陀如来立像 寛文10(1670)光背の上部を欠くが保存状態はよく文字もきれいに残っていた。

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寛文期の石仏は美しい。光背右脇 梵字「キリーク」の下、権大僧都法印蓮海覺位。左脇には造立年月日が刻まれていた。

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歴代住職の墓地の右側の列の中 大乗妙典供養塔 安永2(1773)正面中央に梵字「バク」続いて「奉納大乗妙典六十六部所願成就供養塔」上部両脇に天下泰平 日月晴明、中ほど両脇に造立年月日、下部両脇に渡って武州江戸鍛町出生圓心大徳と刻まれている。

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塔の左側面 當寺四十六世了堅□之。右側面には「奉納順礼」出生□久米郡、道心頓祐 明和七年三月廿九日と刻まれていた。満蔵寺ゆかりのふたりの六部僧の順礼成就を記念して建立されたものだろうか。

 

人間総合科学大学前 岩槻区馬込1288

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満蔵寺の前の道を蓮田方面に400mほど進むと左手に人間総合科学大学がある。入り口の左脇の歩道の奥に小堂があった。

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石祠の横に庚申塔 寛文9(1669)江戸時代初期の素朴な三猿庚申塔。

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舟形の石塔の上部 中央に「武州埼玉郡馬込村庚申興結衆」両脇に造立年月日。

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下部には大きめな三猿が正面向きに腰掛ける。その下の部分に願主とあり、二十名の名前が刻まれていた。

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隣の石祠は正面も側面も剥落部分が多く銘などは確認できないが、正面上部にちらっと梅の枝らしい形が見えていて、この地域でよく見かける天神社ではないだろうか。

緑のトラスト保全第7号地入り口 岩槻区馬込1316付近

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満蔵寺から人間総合科学大学へ向かう途中、ちょうど中間あたりにある交差点を右に曲がると国道122号線に出る。国道に出る少し手前、左に折れて細い道を進むと左側路傍に石地蔵が祀られていた。この道の先には緑のトラスト保全7号地、小川原家屋敷林がある。

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地蔵菩薩立像 元禄10(1697)光背、像ともに白カビが目立つ。光背右脇「奉造立地蔵尊為□□供養也」左脇に造立年月日。続いて施主 馬込村、その下の名前は小河原・・・と見え、小川原家が元禄年間以前から続く旧家であることがわかる。

地蔵院墓地 岩槻区馬込848

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国道122号線に出て左折してすぐ次のT字路を右折すると、左手の路傍にポツンと庚申塔が立っていた。

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庚申塔 元禄6(1693)梵字「ウン」日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。バランスの取れた舟形光背型の庚申塔。頭上に蛇が顔を出し、不機嫌そうな青面金剛は鼻が潰れているが威圧的な表情を見せている。光背右「奉造立庚申講一結□輩」左脇に造立年月日。

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頭を踏みつけられた正面向きの邪鬼も不機嫌そうだ。その下に三猿と二鶏を彫る。比較的しっかりした彫りでシンメトリックな構成。下の部分には本願 逆修とあり、十数名の名前が刻まれていた。

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庚申塔の立っていたところは左奥にある墓地の入口になる。その墓地の正面に地蔵菩薩立像 宝永6(1709)丸彫りの延命地蔵。大きな欠損もなく堂々とした立ち姿。蓮台以下の台の部分を含めると2mをゆうに超える。

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背面中央「権大僧都法印憲宥 不生位」上部両脇に造立年月日(または命日)下のほうに施主 馬込村 弟子廿六人と刻まれていた。馬込村で26人、出家、在家含めての数だろうが、それだけ地元の多くの人たちに慕われていたということだろう。

 

ゴルフ練習所前三差路 岩槻区馬込1125-1

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満蔵寺の前の道を岩槻方面に進みT字路を右に曲がると坂道を降りきったあたりにゴルフ練習場がある。その前の三差路、二つの道路に挟まれた場所に二基の石塔が並んでいた。写真左の道は満蔵寺方面へ、右の道は岩槻方面に向かい、ここから田園の間を西のほうに進むとやがて県道322号線に出る。

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左 石橋供養塔 安永6(1777)塔の正面上部に地蔵菩薩坐像を浮き彫り。その下、中央に「石橋拾ヶ所供養塔」両脇に造立年月日、続いて馬込村中。塔の右側面は無銘、左側面には助成村近郷村々と刻まれていた。木や土の橋に較べて石橋を作るには相応の費用がかかり、また石橋に架け替えるような橋は近隣の村々も利用するような往来の多い道だったはずで、その費用負担にも応じたのだろう。十ヶ所の橋ともなると、とても一村の力ではできなかったことは確かだ。

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彫り窪めた中に浮き彫りされた地蔵菩薩坐像。白カビはみられるものの大きな損傷もなく美しい。多くの人たちが十ヶ所の橋の完成を喜び、その安全を祈ったのだろう。

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右 庚申塔 安永9(1780)正面 日月雲「庚申塔」下部に三猿を彫る。

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塔の右側面に造立年月日。左側面には武州埼玉郡馬込村、願主 正蔵院と刻まれていた。

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三猿は岩槻らしくややリラックス型。その下の台の正面 中央に講中とあり、15人ほどの名前が、さらに両側面に合わせて十数人の名前が刻まれている。

大六天神社前三差路 岩槻区馬込200

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ゴルフ練習場の前から右の道を進むと、やがてその先で満蔵寺の前の道と合流する。この二本の道に挟まれた三差路の先のあたりに庚申塔が立っていた。写真右に写っている石灯籠、幟石が立っているところが大六天神社の入口になる。

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庚申塔 正徳3(1713)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。塔の全面を白カビが覆いつくしている。資料「岩槻市史」の巻頭2ページ目にこの庚申塔の大きな写真が載っていて、その写真では美しく堂々とした姿を見せていたのでとても楽しみにしていたのだが・・・

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造立後270年であれだけ美しかったものが、その後わずか30年でここまでの状態になってしまうとは・・それなりに手入れをしたり、しっかりした管理がされないとこうなるのが自然なのだろうか。文化財の保全はやはり手がかかり大変なのだろう。青面金剛の頭には蛇が顔をもたげ、合掌した青面金剛は左後手にショケラをかかげている。邪鬼は正面向き、両腕を折って横にして、その手の間に頭を乗せ、二鶏はその腕の上の部分にちょこんと乗っていた。

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三猿も正面向き、手と足でダイヤ型になる座り方。その下の部分、中央に「施主」とあり両脇に僧俗あわせて四名の名前が刻まれている。

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塔の右側面 中央に是よりかうのす道、その下に四名の名前。

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左側面 ほぼ全面真っ白な中に是よりはら市道、やはり下のほうに三名の名前。

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裏面 中央に「奉造立庚申供養為二世安樂」右脇に造立年月日、左脇に武州埼玉之郡馬込村と刻まれていた。