西区佐知川

願満堂 西区佐知川西区佐知川93[地図]


県道57号線水判土交差点から西へ500mほど進むと道路右側に願満堂の入口があった。


入口から入ってすぐ左手、手前に駒型の石塔が立ち、その奥の多くの地蔵菩薩塔が並んでいる。


手前 庚申塔 天和4(1684)江戸時代初期にたびたび見られる三猿文字庚申塔。


駒形の石塔の正面 梵字「ウーン」の下に「奉造立庚申供養除災安樂攸」下部両脇に敬白。上部左右に日月雲。その下に造立年月日。右脇に武州安立之郡、左脇に佐知川村。銘の中の「除災」、足立郡ではなく安立之郡はユニーク。


下部に正面向きの三猿。その下の部分、白カビの中に十数人の名前が刻まれていた。


庚申塔の奥には、丸彫りの六地蔵菩薩塔と三基の地蔵菩薩塔。


六地蔵菩薩塔 天保7(1836)六基は石塔、蓮台、像の様子ともによくそろっている。右から3番目だけは像が大きく破損、残欠が塔の前に積まれていた。塔の正面の銘が見えるのは二基だけ、天保4年と6年の命日、中央にそれぞれの戒名が刻まれている。


右端の石塔の右側面に天保7年の紀年銘。命日かもしれないが、造立年は少なくとも天保年間だろう。横から見ると、六基は実に整然と並んでいるのがわかる。


東向きに並ぶ三基の地蔵菩薩塔。右 地蔵菩薩立像 元禄12(1699)反花付きの台に丸い敷茄子、蓮台に丸顔の地蔵菩薩立像。像は大型で立派な体躯、白カビは多いが、欠損はなく首に補修跡もなかった。


丸い敷茄子にぐるりと銘が刻まれている。上下二段にひらがなで、数えて見ると50名近い。女性中心の大きな講のようだ。


敷茄子にはところどころコケやカビがこびりつき銘が読みにくかったが、正面からやや右のあたりに「佐知川村」そのすぐ左に造立年月日を見つけることができた。


中央 念仏供養塔 文化11(1814)四角い台の上に角柱型の石塔、敷茄子、蓮台を重ねた上に錫杖・宝珠を手にした地蔵菩薩立像。


角柱型の石塔の正面中央に「念佛講中」両脇に造立年月日。


塔の右側面 右上に願主とあり、その下五段×九行に渡ってひらがなで多くの名前が刻まれている。やはり50人近い女性の講のようだ。最後だけ漢字で「沙門」右の地蔵塔が元禄12(1699)年造立。100年たっても同じような規模の「女講中」が活動していたのはすごいことだと思う。


左側面に 足立郡 佐知川邑。世話人とあり僧俗合わせて三名の名前が刻まれていた。


左 地蔵菩薩塔 文化10(1813)四角い台の上に角柱型の石塔、敷茄子、蓮台に丸彫りの地蔵菩薩立像と構成は完全だが規模が小さい。


お地蔵様は宝珠と錫杖の先を欠き、首に大きな補修跡もあった。あとから補われた頭部は、ややサイズが小さくアンバランスな感じを受ける。


角柱型の石塔の正面に造立年月日。右側面に足立郡佐知川村。


左側面は隙間が狭くなかなかカメラのピントが合わなかった。手前に願主とあり、どうやら二名の名前が刻まれてるようだ。


墓地に入ってすぐ、右側には四基の板碑が並び、その奥に庚申塔が立っていた。


宝珠を乗せた笠付き角柱型の庚申塔 元禄3(1690)私は全く気が付かなかったが、酒井 正さんによると、近くによく似た、というか兄弟塔ともいうべき庚申塔があるという。


こちら県道56号線飯田交差点角の庚申塔 元禄2(1689)造立は1年違い。下の台がないが全体の構成はほぼ同じと言えるだろう。


角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中に日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。枠を広く残し中が狭苦しい。頭上に梵字「ウーン」これは共通。青面金剛の衣装など、細かい様子は異なるが、二基ともに上左手が蛇をつかんでいる。これはかなりレアでユニークな特徴と言える。右枠の部分「奉造立庚申供養爲二世安樂也」とこちらはノーマル。飯田塔は「二世菩提也」、施主の要望だったか?


足元の邪鬼は同じポーズだが、1年後のこちらの邪鬼のほうがややスマートで洗練された感じ。下の三猿はともに大型で、同じ構図。三猿の下の部分に10名ほどの名前が刻まれていた。この二つの庚申塔、銘の一部、像の細部の様子に若干の違いはあるが、地理的に近く、造立年も1年ちがい、おそらく同じ石工の仕事ではないだろうか。


塔の左側面に造立年月日。右側面に武刕足立郡植田谷領佐知川村 施主と刻まれていた。

 

旧覚音院墓地 西区佐知川1149隣[地図]


県道57号線水判土交差点から900mほど西、道路右側の住宅街の中に市営植水住宅がある。その3号棟の南に小さな墓地があった。入口左脇に「覺音院之碑」が立っている。


墓地の北側にタイプの異なる三基の庚申塔が一列に並んでいた。


左 庚申塔 延宝4(1676)江戸時代初期らしい板碑型三猿庚申塔。石質は硬く銘は比較的きれいに残っている。


梵字「ウーン」の下「奉造立庚申供養二世安樂所」右脇に武州足立郡佐知川村、左脇に造立年月日。余談だが「ところ」として使われるのは「所」「処」「處」「攸(ユウ)」など。意外と多いのが「攸」で、草加市の石仏ではこれが一番多かったような気がする。


下部に正面向きの三猿。庚申塔の主尊らしく存在感がある。両脇に施主 敬白。その下に十数名の名前、最後は いしや太兵衛と刻まれていた。


中央 庚申塔 元禄8(1695)唐破風笠付き角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。


頭上に梵字「ウーン」。右脇に「奉造立庚申供養二世祈所」左脇に造立年月日。さすがに元禄期の庚申塔、まったく定型ということはなく、上の手の持物が左右逆で、右手に法輪、左手に矛をもつ。これはなかなかお目にかかれない。


足の両脇に二鶏を半浮き彫り。足元の邪鬼は全身型で頭は右、全身型の邪鬼の場合、なぜかわからないが頭が左の場合が圧倒的に多く、この頭が右の邪鬼もかなりな少数派と言えよう。邪鬼の下の正面向きの三猿。その右脇に武刕足立郡植田谷領佐知川村。三猿の下の部分に願主十数人に名前が刻まれていた。


右 庚申塔 元文5(1740)江戸時代中期だが、江戸時代初期を思わせる古風な三猿庚申塔。上部を円くした板碑型の珍しい石塔である。


塔の正面を彫りくぼめて、外に日月。中は梵字「ウーン」の下に「奉造立庚申供養」上部両脇に造立年月日。右下に佐知川村 覺音院 覺傳代。その下に六名の名前が刻まれていた。


下部に可愛らしい正面向きの三猿。普通三猿は足を開いて座る形が多いが、ここでは足をそろえて中腰のまま椅子に腰掛けるような姿勢で並んでいる。この形は見たことがない。ユニークな庚申塔だと思う。

金山堂 西区佐知川1304[地図]


国道57号線を指扇方面に向けて進むと道路右側に金山神社があった。同じ敷地内、県道近くに立つ金山堂の前、緑色のフェンスの向こうに二基の石塔が並んでいた。


右 庚申塔 元禄7(1694)舟形光背に日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。一部を除いて塔全体に白カビが厚くこびりついている。


近づいてもなかなか銘が見えてこない。光背右脇、左手の法輪の上下に「元禄」その下に「七」、矛を握った右手の先に「十一月」その下に「吉日」とやっと確認できた。持物は矛・法輪・弓・矢。


このあたりは銘が見当たらない。足の両脇に二鶏。邪鬼は不在で、足元には三猿が肩を寄せ合うように座る。三猿の下の部分に17名の名前が刻まれていた。


左 庚申塔 元禄7(1694)宝珠を乗せた唐破風笠付き角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。笠付きのためかこちらは白カビが少ない。


日月雲は線刻。像の両脇に造立年月日。持物は矛・法輪・弓・矢。足の両脇に二鶏。右の雄鶏の脇に上佐知川村。


足元に邪鬼の姿はなく、三猿が肩を寄せ合って座りその下の部分に6名の名前。・・とここまで書いてきてやっと気が付いたのだが、この二基の庚申塔はその形状は異なるが内容はよく似ている。というよりも全く同じなのではないか?造立年月日も同じで像の内容も同じ。おそらく同じ石工さんの仕事だろう。右の庚申塔の右下の銘をよく見ると・・・川村のように見える。違うのは施主名だけ?


こちらの庚申塔の両側面には大きな蓮華が浮き彫りされているが、これだけの余白があるのに銘は見当たらなかった。「奉供養庚申・・」とか「奉造立庚申供養・・」とかありそうなもの、二つの庚申塔はまったく同じ内容でそろえられている。二基を同時に造立して、その施主を6名と17名にわける必要はないははずだ。あれこれ考えてみたのだが、はじめ見落としていた右塔の光背右下の銘は下佐知川村だったのではないか?佐知川の上村、下村で協力してそれぞれの村境に「塞神」としてこの二基の庚申塔を建てたのではないだろうか?全くのあてずっぽうだが、そんな気がする。


金山堂の前にも石塔が立っていた。角柱型の石塔の正面 梵字「ウーン」の下「奉供養青面金剛二世悉地圓満攸」両脇に天下泰平 日月清明。


塔の左側面「石橋二ヶ處成就所」(所の異体字)右脇に武州足立郡、左脇に植田谷領佐知川村。庚申塔であり石橋供養塔でもある。


塔の右側面 梵字「キリーク」の下「南無阿弥陀佛」その下に村中女中。左脇に念佛講施主。続いて願主 一名の名前。右脇最下部にも・・・衛門と人の名前が見えるが、世話人か?右脇は途中がかなり大きく削れているようだ。中ほどに「卯」と一文字だけが残っていて、もしかしたらこのあたりに紀年銘が刻まれていたのかもしれない。裏面は全くの無銘で残念ながら造立年月日はわからない。いずれにしても、こちらの石塔は念仏講が中心となって、村の人々、女性たちも協力して造立した「名号塔」であり、「石橋供養塔」であり、「庚申塔」ということになる。