岩槻区慈恩寺

慈恩寺観音 岩槻区慈恩寺139

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慈恩寺観音の南側の入口。慈恩寺の本尊は木造千手観世音菩薩坐像で正面の本堂は観音堂とも呼ばれる。入り口の石階段の左側に寺導と宝塔が見える。

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宝塔 文化10(1813)写真は裏側にあたるが、基礎部に造立年月日。隣の面には當山四十三世 導師学頭憲応と刻まれていた。

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正面には「法華五千部供養塔」隣の面には發願主とあり足立郡吉野領本郷村地蔵院の二人の僧侶の名前が刻まれている。さいたま市北区の吉野、本郷というとそれなりに遠いと思うのだが、お寺間のネットワークは強かったのだろうか?

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石階段の右側には手水石 弘化4(1847)があった。正面、くずし字で読みにくいが両脇に「奉納」中央は「清浄水」書道の作品を見るようで楽しい。

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裏面 上の縁に沿って「観音經講中」とあり、その下に表慈恩寺、上蛭田村、古ケ場村の八十人ほどの名前があり、最後に粕壁宿石工 勝右ェ門と刻まれている。

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右側面には當所観音講中とあり、入小路、山口小路、堂之前小路、大門小路、裏村などの地名と、20名ほどの名前。左側面には當所寄進とあり、裏村、表村、内牧村原新田、西久米原村などの地名と、やはり20名ほどの名前が並ぶ。広い地域の多くの人たちの力を合わせて奉納されたものらしい。左側面の最後に造立年月日が刻まれていた。

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本堂に向かって歩いて行くと中央に大きな香炉があり、その先はまた石階段を上がる。右側の一角に大きな阿弥陀如来坐像、こちらは鋳造仏。隣に観音菩薩坐像が並んでいた。

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阿弥陀如来坐像 宝永7(1710)さすがに堂々としたオーラを放っている。頭の後ろの輪光背も鋳造仏ならではだろう。

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蓮座の花びらや下の基礎、台など、いたるところに地名、施主名、願文などたくさんの文字が刻まれていた。中央に「奉鋳立阿弥陀如来」続いて供養導師、造立年月日。刻まれた名前は無数といってもいいほどだが、地名だけでもざっと拾っておこう。裏慈恩寺、表慈恩寺、大門、原村、小溝村、高岩村、入小路、古ケ場村、上蛭田村、岩付本宿、備後村、徳力村、相野原村、笹久保村、大口村、堂前、金重村、鹿室村、江ヶ崎村、大森村、平林寺村、笹山村、内野牧村、野田村、新井村、袋村、岡泉村、百間村、久保宿町、江戸浅草聖天町などなど・・・いずれにしてもこの阿弥陀如来像の建立がこの地域の一大イベントだったことは間違いない。

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隣は観音菩薩坐像 寛政8(1796)三重になった台の上の蓮座に聖字観音菩薩坐像。

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台の正面「奉造立觀世音菩薩」両脇に造立年月日。下部両脇に「為女人成佛」右側面に長い願文。左側面には栢間村 願主 講中と刻まれていた。

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本堂の左側には宝篋印塔 宝暦12(1762)塔身部に四つの種子。基礎部は正面に「宝篋印塔」隣の面に造立年月日が刻まれるが、残りの面には願文などは見当たらず無銘でさっぱりしている。

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境内の西側に山門があった。元禄4(1691)建立ということで、大きな寺導とともに風格を感じさせる。

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山門をくぐってすぐ左側に雷神塚碑 嘉永5(1852)が立っていた。片岩の中央にくずし字で「雷神塚」

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背面にはこちらもくずし字で造立年月日。その下にも文字があるがうまく読み取れない。

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雷神塚の裏に「聖徳太子堂」が立っていた。

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表はしっかりと鍵がかかり、狭い格子の隙間からのぞいてみた。たぶん聖徳太子像だろう。下の台の正面に寄進連、金二朱などの文字が見え寄付者の名前なども刻まれているようだが、近寄って確認することもできず詳細はわからない。



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西側の山門から左奥のほうに向かうと墓地の前にたくさんの石塔が並んでいた。階段の左側は主に石地蔵、右側には無縁仏が多いようだ。

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左端から 不動護摩供養塔 貞享3(1686)塔の正面上部に梵字「カンマン」その下に「不動護摩供一千座」その右脇「現當二世悉地成就祈所」続いて小さく連花院、左脇に造立年月日、こちらは続いて奉修之と刻まれている。下部は梵字「キリーク」の下に泰弁法師。右に元禄七年、左に三月四日寂とあるからこれは命日だろう。キリークから下の部分は後刻されたのかもしれない。側面は狭いうえに白カビも多く、写真はうまく撮れなかった。左側面に「南無阿弥陀佛」右側面には「「南無妙法一心観佛」と刻まれている。

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その隣 阿弥陀如来塔 明和6(1769)塔の正面は特に白カビが著しい。上部に阿弥陀如来坐像を浮き彫り。その下に「新六阿弥陀六番」と刻まれていた。新六阿弥陀を調べてみると、江戸の「六阿弥陀」をまねて?越谷などで新六阿弥陀札所がもうけられたなどの記事があったが、この慈恩寺の六阿弥陀についてはどういう由来があるのか、詳しいことはわからなかった。

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塔の左側面に造立年月日。続いて施主は個人名。右側面 梵字「キリーク」の下、「為権大僧都法印亮泰」両脇の紀年銘は命日だろう。背面には武州埼玉郡慈恩寺郷 遍照院純海代と刻まれている。

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続いて六地蔵菩薩立像 享保7(1722)中に頭部を補修されたものもあるが、像・台ともに良く整っていて統一感がある。

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下の台は細長いもので、三体ごとに一つの台。二つの台のつなぎ目のところ、両方に跨る様な構成で銘が刻まれていた。左の台の右端に「奉造立六地蔵」その両脇に造立年月日。

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台の右端から戒名などが続くが、中に「奉加施入三百五十人」「為惣権番中 現當二世」「願主 當所入小路」などの文字が見られる。

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その隣、台に銘などが無く詳細は不明。こうやって並んでいる姿は地蔵菩薩立像のように思ってしまうのだが、右手が施無畏印、左手が与願印という印相から考えると釈迦如来だろうか?像の衣の右袖のあたりに法印雄辨と刻まれていた。

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階段左のグループ最後は地蔵菩薩立像 寛文4(1664)江戸初期のスケールの大きな丸彫り立像だが、頭部はあとから付けられたものと思われ、錫杖、宝珠も欠けている。

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台も破損がみられ下のほうは一部土に埋まっているようだ。右脇に「奉造立地蔵尊□」その隣は武州大田?□□、中央に大きく「二世」続いて慈恩寺□、左脇には造立年月日が刻まれていた。

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階段の右側には多くの無縁仏が並んでいる。その中に大きな石仏が二基。左側 地蔵菩薩坐像 享保19(1734)丸顔にふっくらした体形。塔部正面中央に「奉刻調地蔵尊」両脇に造立年月日。右下に平野村、左下に願主一運と刻まれていた。

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塔の両側面には細かい文字で多くの名前、寄進額、村名などがびっしりと刻まれている。地名だけ拾ってみると、平野村、城村、増長村、相原村、花積村、神間村、蛭田村、箕輪村、大鳥村、辻村、江戸などと見える。

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下の台の正面 中央に良圓、恵林、先祖二親、順良。右に六百三十八文 裏慈恩寺村、左に三百四十文 上野村、百十四文 平野村と刻まれていた。

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右側には阿弥陀如来坐像 元禄4(1691)大きな基壇の上、不思議に傾いた形に置かれた台に座っている。

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蓮台の下の台の正面 「奉造立阿弥陀如来像 現當二世安樂 乃至法界平等利益」右脇に造立年月日。左脇には施主 慈恩寺村 関根傳兵衛敬白と刻まれていた。

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階段の上は奥まで広い墓地になっている。入口近くには歴代住職墓地があり卵塔などが並んでいた。その中にひときわ大きく立派な宝篋印塔 寛永19(1635)が立っている。隅飾型の笠を持ち、相輪が発達していて、4m近いその威容は圧倒的な迫力を感じさせる。

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塔身部、正面はダイレクトに梵字「アーンク」他の面は蓮の葉の上に円を彫り、中にそれぞれ梵字を刻む。基礎部正面 権大僧都堅者亮雄法印 逆修、左側面には「奉読誦大乗妙典三千部所」と刻まれていた。

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基礎部右側面に造立年月日。裏面には「二世安樂一切衆生皆成仏道也」と刻まれている。

 

慈恩寺地蔵堂(公民館) 岩槻区慈恩寺256-8 JA向かい

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慈恩寺観音の北西にあるJA南彩慈恩寺の向かいに地蔵堂があり、その建物の周りに多くの石塔が立っていた。写真左の道を行くと慈恩寺小学校、慈恩寺中学校の前を通り鹿室方面へ、右の道は裏慈恩寺方面に向かう。

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建物の左側、道路に面して石仏が整然と並んでいた。左から馬頭観音が三基、中央に六地蔵塔、最後が十三夜塔と続く。

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左 馬頭観音立像 享和3(1803)合掌二臂。かなり風化が進み顔の表情などはっきりしないが、頭上の様子はそれらしい感じで、文字もはっきりと残っていた。写真では前掛けで隠れていて一部しか見えないが、右脇に「馬頭観音」その下に造立年月日。左脇には武州埼玉郡慈恩寺領慈恩寺村。その下に施主は個人名を刻む。

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その隣 馬頭観音立像 天明8(1788)合掌二臂。さらに風化が著しく、白カビのために様子はいっそうわかりにくい。右脇に造立年月日。左下に施主はやはり個人名だった。

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続いて馬頭観音坐像 安永8(1779)塔の上部に馬頭観音坐像を浮き彫り。こちらも白カビが目立つ。下部はその広さの割に銘はシンプルで、右側に造立年月日、左側に施主とあり個人名が刻まれていた。

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中央に六地蔵塔 正徳4(1714)細長い台の上に舟形光背を持つ三基の石塔が立ち、それぞれに二体の地蔵菩薩立像を浮き彫り。こちらも白カビに覆われているが、石像のスケール、彫りの細かさなど、江戸時代初期の作品らしい風格を感じさせる。

それぞれの像の脇に銘が見える。中央の塔の二体の地蔵像の間には「奉造立六地蔵尊三基為後生無比樂」と刻まれていた。

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右 二十三夜供養塔 文政9(1826)塔の正面に大きく「二十三夜」両脇に造立年月日。下部には小さな字で12人の名前が刻まれている。

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塔の右側面は無銘。左側面には願主を含めて5名の名前が刻まれていた。

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地蔵堂の正面、道路角にあたる位置に庚申塔の文字塔が立っている。塔の正面「奉供養庚申塔」

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塔の右側面 右方 粕壁道、左側面に左方 幸手道と刻まれていた。

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裏面に造立年月日。下のほうに當所講中と刻まれている。

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建物の右側、敷地の隅のあたりに石地蔵と庚申塔が並んでいた。

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左 地蔵菩薩立像 元禄13(1700)古い丸彫りの延命地蔵だが、錫杖、宝珠ともにしっかり残っている。顔や体は白くなっているものの目鼻立ち、錫杖を持つ手の様子、衣服の細かいところまで丁寧に彫られていた。

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下の台は一部に苔が付いているが、右脇から「奉造立地蔵菩薩 二世安樂之所」続いて結衆と見える。中央は前の線香立てのために良く見えないが施主名だろうか。左脇には造立年月日が刻まれていた。

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右 庚申塔 正徳4(1714)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。こちらも白カビが発生している。彫りは厚めで、遠目にもにぎやかで充実した様子がうかがえる。

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上部に梵字「ウン」左右に瑞雲付きの日月。青面金剛は三眼六臂、キっと正面をにらみつける。合掌型でありながら後ろの手にショケラを吊るす「岩槻型」いままで見た中では左上の手が多かったように思うが、ここでは右下の手。「岩槻型」もいろいろなパターンがありそうだ。右脇に「奉彫刻庚申本地青面金剛」左脇に造立年月日を刻む。

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オーソドックスな邪鬼と三猿。その下の部分に入小路中廿四人、施主敬白、山口小路中二十人、大門小路中八人と刻まれていた。

 

毘沙門天堂 岩槻区慈恩寺513

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県道65号線慈恩寺入口交差点から慈恩寺観音方面に向かう道を300mほど歩くと左手に毘沙門天堂があった。

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入口左 記念碑 昭和7(1932)片岩の正面に「毘沙門天霊場」背面には右から造立年月日、続いて字大門五百拾参番。中央に「宅地 参畝拾壱歩」左に大門小路一同と刻まれている。

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境内に入ると左側に五基の石塔が並んでいた。


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左 庚申塔 嘉永4(1851)塔の正面 日月雲の下、くずし字で「青面金剛」デザイン的には面白いが読みにくい。

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下の台の正面に三猿。岩槻らしいリラックスした姿。以前緑区、見沼区あたりで似たような三猿を見た時はそのユニークさに驚いたが、岩槻ではこういった三猿を結構見かけるので、これも一つのタイプという感じに変わってきた。

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塔の左側面 逆光のうえに文字が薄くて見えにくいが、やはりくずし字で 東 くわんおん 四丁、西 かうのす 五リ よしみ 七リと刻まれている。

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右側面には立年月日。こちらもくずし字で刻まれていて、資料なしには読み取ることは難しい。三猿の彫られた台の両側面には合わせて20名ほどの名前が刻まれていた。

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その隣 大乗妙典供養塔 享保9(1724)塔の正面 梵字「バク」の下「奉納大乗妙典六十六部供養塔」右脇下に回國行者、左下に行蓮社本挙覚峰但信大徳と刻まれている。

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塔の左側面「為二親菩提也」右側面には造立年月日が刻まれていた。

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続いて地蔵菩薩立像 享保12(1727)丸彫りの延命地蔵。頭部は後から補われたものだろう。

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台の正面中央に「為鐘番同行庚申講中現世安穏後生善所」右脇に造立年月日、左脇には念佛堂性譽了山 さらに願主 体譽恵光と刻まれている。

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台の左側面に六人の名前、裏面に「乃至法界平等利益」右側面には金壹兩壹分とあり庚申講中男女拾四人と刻まれていた。

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その隣 大乗妙典供養塔 享保6(1721)塔の正面 梵字「バク」の下「大乗妙典六十六部供養塔」上部両脇に造立年月日。右下に當村俗名とあり個人名、左下には法名が刻まれている。個人によって建立されたものか。

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塔の右側面 先祖代々七世父母一切有縁等と刻む。

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左側面には同國檀越一切有情無縁等とあり、脇に入峰 権大僧都満昌院と刻まれていた。

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最後は天神社 天保3(1832)石祠の正面に菅原道真坐像。頭の上に菅原道真ゆかりの梅の枝が浮き彫りされている。祠の左側面に世話人三名。右側面には造立年月日が刻まれていた。これまではあまり取り上げてこなかったが、旧慈恩寺村においてはこのような石祠の天神社がとても多いように感じる。なにか理由があるのだろうか?

 

子之神社南T字路 岩槻区慈恩寺777

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裏慈恩寺の阿弥陀堂墓地から南に向かい、左手に子之神社を見てさらに少し歩くと道はT字路に突き当たる。その突き当りの家の庭の中に庚申塔が立っていた。

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庚申塔 寛政2(1790)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。雨除けもない状況のため白カビなどがつき、それなりに風化が進んでいる。

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足の両脇に二鶏。足の下には腹黒そうな邪鬼が這いつくばりながら様子をうかがい、その下には素朴な三猿が彫られていた。

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塔の右側面に造立年月日。左側面 北 粕壁道、東 ゆきどまり。続いて慈恩寺郷とあり、願主は個人名が刻まれている。

十二天神社東住宅 岩槻区慈恩寺762

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庚申塔の立つT字路の交差点を右に曲がると道はだんだん上り坂になり、緩やかに左にカーブしてまた南に向かうことになる。その先右手に十二天神社があるが、すぐ手前、左手の住宅のブロック塀の中に石塔が立っていた。

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馬頭観音塔 慶応2(1866)正面中央「馬頭觀世音」両脇に造立年月日。塔の左側面に慈恩寺村とあり願主二名の名前が刻まれている。

十二天神社 岩槻区慈恩寺759

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そのすぐ先のT字路の角のところに十二天神社。長い参道の入口左手に石塔が立っていた。

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聖観音菩薩坐像 宝暦13(1763)アジサイと下草のために塔の銘が見にくい。塔の正面上部に右手に蓮華を持つ観音像を浮き彫り。この部分には白カビが多く、様子はいまひとつはっきりしない。正面下部には「南無阿弥陀佛」と彫られている。

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塔の左側面には願主、個人名。右側面には造立年月日が刻まれていた。

十二天神社南住宅 岩槻区慈恩寺733

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十二天神社の20mほど南、道路右手の住宅のブロック塀のところに馬頭観音塔が祀られていた。

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馬頭観音塔 大正5(1916)片岩の正面にくずし字で「馬頭観世音」右脇に造立年月日。左脇に建立者を刻む。片岩、文字ともにデザイン的に優れている。

地蔵堂東路傍 岩槻区慈恩寺709

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さらに南に進んでゆくとやがて慈恩寺観音の北西、JA南彩の前にでる。T字路にでる少し前、左手の駐車場のブロック塀の陰に石塔が立っていた。

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馬頭観音塔 明治5(1872)塔の正面「馬頭觀世音」両脇に造立年月日。塔の左側面には連中と刻まれている。

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右側面には願主として慈恩寺村、裏慈恩寺村それぞれ一名の名前が刻まれていた。

 

慈恩寺中学校南住宅 岩槻区慈恩寺586

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慈恩寺中学校から南のほうに50mほど歩いてゆくと、左手の住宅の敷地の中に小堂が立っていた。

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小堂の中、地蔵菩薩立像宝暦9(1759)格子の狭い隙間から写真を撮った。丸彫りの延命地蔵は像の表面もきれいな状態で、錫杖、宝珠など欠損もないようにに見える。資料によると下の台の正面に銘が刻まれているということだが、これ以上近づくことはできず詳細を確認することはできない。

毘沙門天堂東の畑 岩槻区慈恩寺395付近

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県道65号線から慈恩寺観音に向かう道、毘沙門天堂から東に数分歩くと左手の畑の中に祠が立っていた。

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薬師如来塔 文政13(1830)石祠の正面に「薬師如来」右脇に造立年月日、左脇に施主は個人名。

毘沙門天堂東路傍 岩槻区慈恩寺383付近

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さらに東に進むと左手の田んぼの角の木の下に石塔が立っていた。奥のほうに稲荷神社の石祠が見えている。

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馬頭観音塔 大正8(1919)塔の正面に「馬頭觀世音」両脇に造立年月日。左側面には施主とあり個人名を刻む。

慈恩寺西薬師堂 岩槻区慈恩寺276の西

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その先の右手、交差点の角のところ、小高い塚の上に薬師堂があった。

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堂の中に祀られているのは薬師如来坐像。こちらも中に入ることはできず詳細は不明だが、遠目にも立派な石仏のように見える。

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お堂の左手前 馬頭観音塔 明治35(1902)塔の正面中央「馬頭觀世音」両脇に造立年月日。左側面に施主は個人名。この地域には個人持ちの馬頭観音の文字塔がとても多い。    

 

慈恩寺観音南交差点 岩槻区慈恩寺164

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慈恩寺観音の西にある山門の前は変則的な交差点になっている。この交差点から南へ向かうと、阿弥陀堂墓地付近を通り諏訪団地の間を抜け、やがて東岩槻駅方面に出る。交差点の南東の角の敷地の中、道路を少し南に歩くとすぐ左手に庚申塔が立っていた。ブロック塀と電信柱とその周りの立木のために見落としてしまいそうだ。

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庚申塔 延宝9(1681)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。かなり古いもので、光背の上部を一部欠き、全体的に白カビも多い。

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頭上に梵字「ウン」近寄って見ると、青面金剛は目を吊り上げ正面をにらみつけ凛としている。光背上部両脇に造立年月日。中ほど右脇に花林山慈恩寺、左脇に施主十人と刻まれていた。

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足の両脇に二鶏を線刻。足下の邪鬼はひしゃげている。その下にはやや大きめな三猿が彫られていた。

慈恩寺観音南薬師堂 岩槻区慈恩寺184

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さらに南に歩いてゆくと左手に薬師堂があり、その左手前、ブロック塀の前に石塔が立っている。

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馬頭観音塔 大正10(1921)塔の正面に「馬頭觀世音」右側面に造立年月日。左側面には個人名が刻まれていた。

慈恩寺観音南路傍 岩槻区慈恩寺175南

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そのすぐ南、今度は道路の西側路傍に二基の石塔が立っていた。

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左 地蔵菩薩立像 享保8(1723)肩のあたりにセメントで補修された跡があり、頭部も本来のものではないような気がするが、その顔立ちは愛嬌があって思わず微笑んでしまう。両手も破損の跡がありはっきりしないが左手は与願印か?

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台の正面には法師、信士、信女、禅定尼など戒名が並ぶ。正面としてはなにか物足りない。

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左側面 中央に「為惣鐘番同行現世安穏後生善也」右脇に造立年月日。左脇に施主 念佛堂 性譽了人と刻まれていた。これは先日紹介した毘沙門天堂の享保12年の地蔵菩薩立像の台の銘とほぼ同じ内容になっている。「鐘番同行」というのがなにかよくわからないが、施主は同一人物であり興味深い。今は像を正面とするとこの面は左側面になるが、こちらの銘は本来の正面にふさわしい。像と台とのつなぎ目にセメントらしい跡もあり、あとから補修した時に方向を間違えたのかもしれない。

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裏面にもいくつか戒名が並び、右側面には乃至法界□□念□と刻まれていた。

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右 大乗妙典供養塔 正徳5(1715)正面上部に梵字「バク」続いて「奉納大乗妙典六十六部供養塔」なのだろうが多くの部分が土の下に埋まっているようだ。

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背面には細かい字で長い銘文が刻まれていて、中に元禄元年、元禄九年、正徳元年などの文字も見えるが、最後の行に正徳五年とありこちらが造立年と考えられる。