南区広ヶ谷戸

広ケ谷戸バス停南 南区広ケ谷戸338南[地図]


第二産業道路の不動坂交差点から枝分かれして大谷口陸橋交差点で第二産業道路と合流する「さいたま川口線」は、地図を見ると第二産業道路と同じく県道1号線になっている。この片側1車線の県道1号線はバス通りで、その広ケ谷戸バス停のすぐ南、道路東側の交差点の角に小堂が立っていた。


小堂の中 庚申塔 寛文4(1664)大きな舟形光背に日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。堂の前に生け垣が迫っていて像全体の様子を一枚の写真で確認するのは難しい。


さいたま市でも最も古い時期の青面金剛庚申塔で、さすがに光背の縁は一部が破損、風化のために顔の様子も今一つはっきりしない。光背右脇「奉造立庚申像一躰二世安樂也」左脇に造立年月日。上の手に矛と法輪を持つが、右手に法輪、左手に矛というのは、普通と手が逆でほとんど見たことが無い。江戸時代初期、青面金剛庚申塔の基本的な構成がまだ定まっていなかったということだろう。


下の手も普通に弓矢ではなく、右手に蛇?左手に棒のようなものを持っていた。足の両脇に二童子を浮き彫り。足元には二匹の上半身型の邪鬼が並ぶ。


邪鬼の下、二匹の猿が御幣を支え持つ。二匹とも足を投げ出し右向きに座り、それぞれに片手を御幣の棒に添えていた。さらに四夜叉、こちらはそのうちの上段の二夜叉。彫りは結構細かい。


二猿の下に大小二羽の鳥が左向きに浮き彫りされていた。その両脇に立つ二夜叉は力強い。邪鬼に三猿・二鶏というその後の標準的な構成はどうやら元禄期あたりに一般的になったものらしい。それにしても邪鬼・猿・鶏に加え童子、夜叉まで従えた豪華な庚申塔はかなり稀で、造立年も古く大変貴重な庚申塔と言えるだろう。なお、施主名、地名などを表す銘は見当たらなかった。どこか見つけにくいところに刻まれているのだろうか。

広ケ谷戸バス停脇 南区広ケ谷戸338付近[地図]


庚申塔の小堂のすぐ北、広ケ谷戸バス停の脇の三差路の角のところに二基の石塔が並んでいた。


左 大日如来塔 宝暦2(1752)角柱型の石塔の正面「奉造立大日如来」両脇に天下泰平・國土安全。下部には講中とあり9名の名前が刻まれている。


塔は損傷が激しく、大きく欠けた部分もあるが銘はなんとか確認できた。左側面に造立年月日。その横に道祖土村とあり、大熊・・・。道祖土というと現在は不動谷交差点の西一帯の地名だが、宝暦年間にはこのあたりまで道祖土村だったのだろうか?


右側面には願主 大熊・・・・。「大熊」という姓は当地では普通らしく、近くの墓地でも多く目にした。左側面の「大熊氏」とはたぶん同一人物ではないのだろう。


右 庚申塔 大正3(1914)角柱型の石塔は全体に風化が進み銘は読み取れない。

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こちらは2014年1月29日の記事の写真。このときは石塔の正面に「庚申塔」という銘が確認できた。


塔の左側面は無銘。右側面に造立年月日。その横に施主とあり、やはり大熊氏の名前が刻まれている。

 

旧善應院墓地 南区広ケ谷戸317[地図]


広ケ谷戸バス停近くの三差路を右に入り北に進むとT字路に出る。右折してすぐ、道路左側に小堂が立っていて、その奥が墓地になっていた。



小堂の中に六地蔵菩薩立像と二基の丸彫りの地蔵菩薩塔。六地蔵のほうは極新しい。二基の地蔵塔は石質からみて江戸時代中期のものと思われるが、首に補修跡もなく比較的状態はいい。下の台に「昭和十六年再興供養」と刻まれていた。


墓地の北西の隅に石塔がコの字に並ぶ。その多くは墓石だった。


南向きに並ぶ四基の左端 善光寺念仏供養塔 寛政9(1797)舟形光背に阿弥陀如来立像を浮き彫り。風化が進み光背の縁はギザギザ、像もはっきりしない。光背右脇に「善光寺念佛供養」左脇に造立年月日。「善光寺念仏」という固有名詞はないようだが、善光寺の本尊、日本最古と伝わる秘仏「一光三尊阿弥陀如来」を観想して念仏を唱えるということか?あまり見かけないが、近くの大谷口の墓地でも同じような供養塔を見ることができた。


念仏供養塔と向き合うような位置に地蔵菩薩供養塔 寛保3(1743)笠付き角柱型の石塔は深く土中に埋まっている。



正面を彫りくぼめた中、梵字「カ」の下に「奉建立地蔵菩薩」両脇に天下泰平・國土安全。右側面に武州足立郡 浦和領 廣ケ谷戸村。


左側面に造立年月日。さらに願主として大熊氏の名前が刻まれていた。

県道1号線西路傍 南区広ケ谷戸44[地図]


旧善應院の前の道を西に進み、県道を越えて50mほど先、道路右側の住宅の門柱に寄り添うように石塔が立っている。


普門品供養塔 天保2(1831)四角い台の上、角柱型の石塔の正面「廿三夜普門品一万巻供(養塔)」下部が台石の中に埋もれていて、どうやら台は後から補われたものらしい。二十三夜待供養塔と普門品供養塔が結びつくというのは見たことがないのだが、他にも例はあるのだろうか?


塔の右側面に造立年月日。左側面に廣ケ谷戸村と刻まれている。