宮元町・喜多町・石原町の石仏

妙義神社 川越市宮元町32[地図]


国道254号線宮元町交差点から県道12号線に入り、神明町方面に500mほど、県道の一本南の通りに妙義神社があった。拝殿の左脇に小堂が立っている。


小堂の中、右から二基の庚申塔、阿弥陀如来立像、手水舎と続き、左の二基は墓石だった。


右端 庚申塔 寛文11(1671)唐破風笠付き角柱型の三猿庚申塔。江戸時代初期に三猿庚申塔はよく見られるが、その多くは板碑型、または舟形光背型で、よく調べてみないとわからないが角柱型は結構珍しいと思う。地元の桜区鹿手袋にある宝泉寺の寛文9年塔はすぐ思い浮かぶのだがどうだろう?


塔の正面右から「奉造立更新山王二 十一社大権現諸檀那 二世安樂處」


下部に磐座に座る正面向きの三猿。風化の為に顔ははっきりしない。さらにその下に二鶏が半浮彫されていた。


左側面に造立年月日。その下に三名の名前。


右側面は狭く銘が見にくい。武刕入間郡山田庄河越里五箇村とあり、下部に三名の名前が刻まれている。


その隣 庚申塔 文政10(1827)駒型の石塔の正面 青面金剛立像 合掌型六臂。風化が進み、塔の正面の損傷は著しい。


日月雲も青面金剛の様子も確認は難しいが、かすかに残った手の様子から合掌型と思われる。


下部は比較的痛みが少なかった。足の両脇に二鶏。左脇の牝鶏は一部破損。足元には大きな邪鬼があおむけになって踏まれている。その下に聞か猿がやはりあおむけに寝て、邪鬼の下敷きになっているようだ。左右の見猿と言は猿は内を向いて座っていた。


塔の左側面に造立年月日。さらに長久山照善院第廿七葉法印代と刻まれている。


右側面「奉造建庚申尊神」その下に願主 南町とあり二名の名前が刻まれていた。


続いて阿弥陀如来立像 天和2(1682)形の良い舟形光背に施無畏印・与願印の阿弥陀如来像を浮き彫り。


光背のへりは風化の為に凸凹。阿弥陀如来の尊顔はあいまいで、両手の先も欠けていた。光背右脇「一念彌陀佛」左脇に「即滅無量罪」その下に松山海道 同行四十八人と刻まれている。

 

廣済寺 川越市喜多町5[地図]


県道12号線は神明町交差点で左折して川越市内に向かい、札の辻、仲町、連雀町を通って本川越駅西口に至る。札の辻交差点の200mほど手前、道路右側に廣済寺の入口があった。参道の奥に山門が立ち、その右側、鐘楼の手前に瓦屋根の小堂が見える。

小堂の中には二体の石仏が祀られていた。それぞれに解説板が設けられている。


右 地蔵菩薩立像。銘は確認できず詳細は不明。解説板によると「しわぶき地蔵尊」といって咳の病の時にお地蔵様を縄で縛りお参りするとご利益があり病が治ったという言い伝えがあるらしい。訪問時にも首に縄がかけられていた。


左 地蔵菩薩立像。これも造立年など詳細は不明。解説板によるとこちらは「あごなし地蔵尊」歯痛平癒の為にわざとあごのないお地蔵様を立てたということのようだ。あごがないのも異様だが、吊り上がったその目つきもかなり不気味なものがある。


境内の奥に進み、本堂の左側、墓地に向かう道の脇に石塔が北向きに並んでいた。


手前から2番目 十一面観音立像 明和5(1768)角柱型の石塔の上、舟形光背に浮き彫りされた観音像が載っている。


左手に未敷蓮華を持ち、右手は与願印。頭上に小さな仏面が重なるように彫られていた。


石塔の正面中央「奉納大乗妙典六十六部日本廻國」両脇に天下泰平・國土安穏。大乗妙典供養塔ということになる。左側面に入間郡河越 願主 是心。右側面に造立年月日が刻まれていた。


その隣 地蔵菩薩立像。風化が著しく進む。舟形の光背も原型をとどめず、像は頭部だけかろうじて残っていて、体はそっくり剥落、紀年銘も確認できなかった。


光背左上に「應観」と銘があるが、そのあとがごっそり抜けていては意味は分からない。右脇にも銘らしきものがあるがこちらは文字そのものが読み取れない。頭部はいくつか穴があけられていて、まるでドクロのようだ。この角度からは錫杖を持っているように見える。たぶん地蔵菩薩像なのだろう。損傷がひどく悲惨な状態だが、線香立ての両脇に生花が供えられていた。

その奥、大きな基壇の上に二段の台と大型の角柱型の石塔、さらにその上に丸彫りの地蔵菩薩立像を乗せた供養塔 明治2(1869)石塔の正面には「大地震當山無縁供養塔」と刻まれている。


塔の裏面に造立年月日と当時のご住職の名前、その下に世話人十数人の名前が刻まれていた。さらに塔の両側面とその下の二段の台のそれぞれの面には、細かい字で多くの人の名前が見える。幕末の大地震といえば安政の大地震(1855)か。その15年後にこの地で犠牲になった人たちのための供養塔が完成したのだろうか。

 

観音寺 川越市石原町1-18[地図]


札の辻交差点から西に進み、新河岸川の高澤橋を渡ってすぐ左に観音寺の入口があった。


本堂の左手前に大きな丸彫りの地蔵菩薩塔と六地蔵が並んでいる。円形の頭光背を負った六地蔵塔は個人の家で造立したもの。6基の石塔の裏面にはたくさんの戒名と命日が刻まれていて、その命日から造立年は明治以降ということになる。丸彫りの地蔵塔は観音寺のご住職の墓石で、銘が薄く造立年などは分からなかった。その左奥、基壇の上に大きな自然石の石塔が立っている。


馬頭観音塔 明治5(1872)自然石の正面を平らに削って流麗な字体で「馬頭觀世音菩薩」この手の馬頭観音塔の中では最大級のものと言っていいだろう。


背面に造立年月日。続いて観音寺のご住職、15世慈淵の名前が刻まれていた。


入口左側の塀の前に十基ほどの石塔が本堂のほうを向いて一列に並んでいる。


左端 聖観音菩薩の文字塔。自然石の正面に「南無正觀世(音)」下部は埋まっている。銘は見当たらず詳細は不明。庚申塔と馬頭観音塔などは文字塔も結構多いが、聖観音菩薩塔、地蔵菩薩塔は像塔が一般的で、文字塔は比較的少ない。


2番目 自然石の文字塔。中央の銘がくずし字で読めない。周辺の銘は上に「島津」または右から「津島」両脇に天下泰平・國土安穏。下部に上町氏子中、上下若者中、下町氏子中。どうやら神様のようだ。


3番目 馬頭観音塔 大正9(1920)大型の石塔の正面を彫りくぼめた中に「馬頭觀世音菩薩」左脇に造立年月日。さらにその下に入間郡名細村平塚とあり個人名が刻まれていた。


4番目 念仏供養塔 宝暦12(1762)角柱型の石塔の正面「二萬日念佛供養塔」右側面に造立年月日。その横に観音寺の住職の名前。左側面には奉加志川越御家中町中村中とある。「中」が三つ続いていて、御家中、町中、村中だろうか?


続いて如意輪観音塔 文化元年(1804)塔の右側面に戒名、命日などが刻まれ、左側面に施主は個人名。その隣 大乗妙典供養塔 明和4(1767)こちらは願主が観音寺住職の名前になっていた。


その隣 庚申塔 寛文9(1669)江戸時代初期の板碑型三猿庚申塔である。


彫りくぼめた中の部分、上部に阿弥陀三尊種子。中央に「奉勧請山王七社大権現」両脇に庚申供養・爲二世安樂。さらにその下、両脇に造立年月日。枠にも銘が刻まれていて、右脇には武州入間郡川越高澤結衆、左枠に本願 個人名、その下に敬白。


窓の縁に腰掛けるように素朴な三猿が並び、その下の部分には十二人の名前が刻まれていた。


続いて馬頭観音塔?明治14(1881)白カビも多く表面は摩耗している。刻字は読みにくいが、「馬・・・」のように見える。側面に施主は個人名が刻まれていた。


その隣 馬頭観音塔 天保14(1843)白カビの中に「馬頭觀世音」の銘が確認できる。塔の右側面に造立年月日。左側面に施主 個人名。


続いて大日如来塔。自然石の正面に「大日如来」その下に4名の名前。紀年銘は確認できない。右端は水神塔 明治31(1898)背面に引水組合とあり14名の名前。左端に造立年月日が刻まれていた。その前には「御岳神社」と刻まれた小さな石塔が立っている。

 

本應寺 川越市石原町1-4[地図]


市役所方面から西に向かう県道39号線。新河岸川の高澤橋を渡ってすぐ、道路右手に日蓮宗寺院本應寺の入口があった。参道を進むと鐘楼門を兼ねた大きな仁王門が立ち、その先に本堂が見える。


仁王門をくぐってすぐ左側には多くの墓石がうずたかく積まれ、その頂上には日蓮宗寺院らしく板碑型の題目塔が立っていた。


さらにその奥、ブロック塀の前にひな壇が設けられ、たくさんの石塔、墓石が整然と並んでいる。その多くは墓石で題目などが刻まれた文字塔だが、右のほうの石塔はすべて像塔であった。法華経を根本経典とし題目を至上のものとする日蓮宗の寺院では、他の宗派の寺院でよく見られるような仏像をあまり見かけないものだが、ここでは40基以上の石仏が集められている。よく見ると馬頭観音塔が多いようだが、これにはどんないわれがあるのだろうか?


前のほうから見てゆこう。最前列、こちらの三基は頭上に馬頭が見られる。一基一基紀年銘などは確認できていないが、江戸時代後期から明治時代のものが多いようだ。


二段目、このあたりは地蔵菩薩塔と馬頭観音塔が混在していた。


二基の地蔵菩薩塔の間から見えた馬頭観音塔。珍しく頭上に馬頭が二つ確認できる。


駒型と舟形光背型がほとんどだが、角柱型の馬頭観音塔もあった。


三段目は9基のうち4基が馬頭観音塔。光背の大きさもほぼ揃っている。


そのうちの一基、こちらは文久年間の造立。馬頭がクリアだ。


右端に立っていた明治41年造立の馬頭観音塔は一部を朱で彩色されている。


最後列、4基のうち3基が馬頭観音塔。左端の馬頭観音塔の光背には天保15年の紀年銘、施主は個人名が刻まれていた。