野嶋・小曽川の石仏

 

浄山寺 越谷市野島32


元荒川右岸、もう少し行くとさいたま市岩槻区末田になる、そんな野島の西奥に浄山寺の朱塗りの山門が立っている。その両脇に二基の丸彫りの石地蔵が立っていた。


左脇 地蔵菩薩立像 享保18(1733)台の上に塔、その上に厚い蓮台、さらにその上に丸彫りの地蔵菩薩像という重制の石仏。山門のそでの瓦屋根に届きそうな高さになる。脇に立つ立て札に「大開帖 野島地蔵尊」とあるが、こちらは浄山寺の御本尊、年に2回御開帳される秘仏の木造地蔵菩薩立像で、近年国の重要文化財に指定されたという。


真ん丸なお顔に少し垂れ気味の目をしているが、なぜかその表情は厳しく険しかった。丸彫り像のわりに錫杖、宝珠ともに健在で衣装の彫りもきれいに残っている。


塔のほうは白カビが多く銘は読みにくい。正面中央「奉造立地蔵尊」右脇に惣施主當村 并 萬人講中。左脇に野嶋村願主 即心。


塔の左側面 二行に渡って願文。続いて造立年月日が刻まれていた。


山門の右脇 地蔵菩薩立像 天保14(1843)こちらは塔と蓮台の間に敷茄子が入る。蓮台の正面 三枚の花弁に「野嶋村」お地蔵さまはやや細長く卵型のお顔をしていた。


塔の正面中央「経曰」その下に二行、「現世處求皆満足後生」「浄土可令得無上忍云云」右脇 梵字「カ」の下に女性の戒名。左脇に為 施主中菩提也」塔の左側面中央に造立年月日。右脇に當山廿一世 泯宗代。左脇に願主は個人名が刻まれている。


山門をくぐり参道を進むと左側に石塔が並んでいた。


石灯籠の隣 六地蔵石幢。六面に六地蔵を浮き彫り。丸い台にも石幢にも銘はなく詳細は不明。


続く地蔵菩薩像は個人の供養塔。その隣 巨大な錫杖塔。頭頂部に鉄の錫杖。元は寛政元年(1789)に江戸湯島天神三組町講中によって奉納されたもので、現在の塔は昭和になって再建されたものらしい。


続いて一番奥に普門品供養塔 文化10(1813)角柱型の石塔の正面 上部に「奉讀誦」とあり、その下に「普門品二十萬巻供養塔」塔の左側面に「天下泰平 五穀成就」


塔の右側面に造立年月日。続いて願主講中と刻まれていた。


台は二段になっているが、その上のほうの台の四つの面には近隣の多くの村名とおびただしい数の人々の名前が刻まれている。正面から左回りに村名を見てゆこう。末田村、柏崎村、岩附市宿、小曾川、大竹村、恩間新田、袋山村、大沢宿、越ケ谷宿、大川戸、大道、恩間村、三ノ宮村、大森村、須賀村、大戸村、横根村、笹久保村、高畑村、尾ヶ崎新田、笹久保新田、荻嶋村、〆切村、大里村、大畑村、下新井、高曽根、浮谷村、砂原村、大場村。現岩槻区の地名も多く見られ、この当時、浄山寺がこの地域で大きな力を持っていたことをうかがうことができる。

久伊豆神社 越谷市野島261


浄山寺の山門から南に向かうと右手に久伊豆神社があった。拝殿の左脇、雨除けの下、中央の力石を挟んで二基の石塔が立っている。


右 庚申塔 正徳3(1713)舟形の光背に日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。第2手左手にショケラを掲げる「岩槻型」庚申塔。光背右脇「奉造立庚申之塔現當二世安樂所」左脇に造立年月日。


邪鬼は例によって正面向きで腕を張る形。なんだか風呂に入ってくつろいでいるような雰囲気。その下に正面向きの三猿。両脇に二鶏。下部には武州崎玉郡とあり、9名の名前。続いて願主敬白と刻まれていた。


左 榛名山大権現塔 天保9(1838)あちこちに剥落があり、一部文字も読めない。石祠の正面「榛名山大権現」右側面に造立年月日。左側面には雷電宮。さらにわずかに剥落を免れて講中と刻まれている。

久伊豆神社東路傍 越谷市野島173北



三野宮の一条院のあたりで橋を渡り、県道46号線を横切って末田方面に向かう道と久伊豆神社付近から東へ向かう道がぶつかるあたり、畑の隅に石塔が立っていた。


馬頭観音塔 天明5(1785)上部の丸い楕円形の石塔の正面を彫りくぼめた中に「馬頭觀世音」両脇に造立年月日。下部両脇に施主として二名の名前が刻まれている。

 

慈眼寺跡墓地 越谷市小曽川439


県道48号線のさいたま市岩槻区の市境から200mほど東、左手に久伊豆神社がある。その隣に墓地があった。今は廃寺となった慈眼寺の跡らしい。奥の建物は小曽川公民館になる。


墓地の入り口付近、神社と墓地の間の道に向かって、舟形光背を持つ石地蔵が立っていた。

百堂供養塔 寛文2(1662)鋭い形の舟形光背の上部に阿弥陀三尊を梵字で表し、その下に美しい顔立ちの地蔵菩薩立像を浮き彫り。光背右脇「奉納百堂供養二世安樂成就所」その下に越ケ谷内小曾河村。左脇に造立年月日。続いて同行廿七人と刻まれている。


神社の脇の道を奥に進むと、公民館の裏手に五基の石塔が並んでいた。


左端 庚申塔 正徳4(1714)角柱型の石塔の正面を彫りくぼめて、上部の外に日月雲、中に青面金剛立像 合掌型六臂。第2手左手にショケラを掲げ持つ「岩槻型」頭部に蛇の頭がのぞく。後ろの二組の腕の付き方が「川口型」を思わせる。M字型に腕を張った正面向きの邪鬼とやはり正面向きの三猿は「岩槻型」のスタンダード。その下のくちばしを合わせるような形の二鶏は珍しい。塔の頂部の突起は笠付きだった跡だろう。


塔の右側面「奉供養青面金剛二世安樂處」左側面に造立年月日。下部に小曾川村 施主十一人と刻まれていた。


2番目 庚申塔 寛政11(1799)角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。下の台の正面に三猿の頭だけが見えている。これは少々埋めすぎというものだろう。塔の両側面にはどちらも同じように「青面金剛」と刻まれていた。


白カビが厚くこびりつきはっきりしないが、青面金剛の足の両脇は二鶏か?足元の邪鬼は全身型、頭を左にしてうずくまっている。


台は埋まりすぎているため銘は半分程度しか確認できない。資料によると右側面 小曾川邑 講中。左側面には造立年が刻まれているらしい。


3番目 如意輪観音坐像 文政9(1826)舟形光背に二臂の如意輪観音坐像を浮き彫り。光背左脇に造立年月日。


下の台の正面 小曽川村 講中とあり、続けて願主三名の名前が刻まれている。


4番目 庚申塔 寛政11(1799)角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。2番目の庚申塔とよく似ていて、造立年も同じ、台の埋まり方も同様で、三猿は半分しかその姿を見ることができない。


塔の左側面「青面金剛」台のほうには小曽川村 講中。


塔の右側面も「青面金剛」台のほうに寛政の「寛」だけが見える。2番目の庚申塔とは左右が逆になっているがこの二基の庚申塔は対のものではないだろうか。


右端 庚申塔 天保2(1831)角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。青面金剛は衣装の右裾が跳ね上がり、やや右足重心に邪鬼を踏む。岩槻でよく見かけた江戸時代後期の一つの典型的なタイプ。塔の下の台はなんだかしっくりとしない組み合わせになっていて、おそらく本来の台には三猿が彫られていたのだろう、今は邪鬼だけが一人頑張っている。


塔の左側面に「庚申塔」右側面には造立年月日が刻まれていた。

 

久伊豆神社北東墓地 越谷市小曽川421向


久伊豆神社と慈眼寺跡の墓地の間の道を奥に進んでゆくと、突き当りの路傍に庚申塔が今にも倒れそうに立っていた。後ろは共同墓地になっている。


庚申塔 宝暦4(1754)駒型の石塔の正面 梵字「ウーン」の下 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。腰を上げてうずくまる邪鬼の頭を踏んでいる。足の両脇に比較的はっきりとした二鶏。その下の三猿は土に埋まり頭だけが見えていた。


塔の左側面は無銘。右側面に造立年月日。その横に武州小曽川村講中と刻まれている。


後の墓地の隅に石塔が並んでいる。


左端 秩父講供養塔 安永7(1778)舟形の光背に聖観音菩薩立像を浮き彫り。右脇に造立年月日。左脇に「秩父講供養」秩父講はしらべてみたがよくわからない。その下に小曽川村願主とあり個人名が刻まれていた。

久伊豆神社南東路傍 越谷市小曽川330


県道48号線、久伊豆神社の前から東へ200mほど歩くと道路左側に角柱型の石塔が立っている。六十六部供養塔 明和5(1768)正面を彫りくぼめた中に「六十六部願滿塔」両脇に天下泰平 日月清明。


塔の右側面 上部に歌を刻む。続いて右脇に随喜施主 助金二分 助力供養。その下に小曽河村とあり二名の名前。さらに所々善男女等。左下には行者とあり、俗名と法名が刻まれていた。


塔の左側面には野嶋村で生まれ小曽川に住んでいたこの行者が、宝暦12年から6年をかけて諸国を回国、六十六か所に納経を果たして帰郷し、その記念にこの石塔を造立したいきさつが漢文で刻まれいて大変に興味深い。続いて造立年月日。裏面には願文が刻まれていた。

しらこばと水上公園入口交差点北路傍 越谷市小曽川233付近


さらに県道48号線を東へ200mほど、信号交差点を左折して奥に進むと、突き当りの小堂の横に石塔が立っている。


庚申塔 元禄5(1692)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。第2手右手に鈴を持つのは珍しい。しかめ面をした青面金剛の三角に結った髪に蛇が絡みつく。


背中を踏まれた邪鬼は、振り向いて青面金剛を仰ぎ見る。この形もあまり見たことがない。その右脇「奉供養庚申講衆中現世安樂」左脇に造立年月日。邪鬼の下には小曽川村 願主七人とあり、その下にぬいぐるみのような三猿が彫られていた。