高野台の石仏

長命寺 練馬区高野台3-10-3


笹目通り、西武池袋線の北にある順天堂練馬病院交差点を西に入るとすぐ、道路右側、大学病院の向かいに長命寺の入口があった。雄大な南大門の両脇前後には四天王像が安置されている。手前の植栽の中に自然石に「東高野山 長命寺」と刻まれた寺標が立っていた。


南大門の東隣、駐車場の奥に仁王門。寛文年間(1661~1673)に建立された長命寺最古の建築物で練馬区有形文化財となっている。隣の南大門が目立つだけに、こちらから出入りする人は少ないだろう。両脇の格子にわらじがつるされ、中には仁王像が安置されていた。門から奥に大きな石塔が見え、その先は庫裏になっている。


南大門からまっすぐ正面の本堂まで、広くて長い参道が続く。参道右側に鐘楼。その梵鐘は練馬区最古のもので、仁王門とともに練馬区の有形文化財に指定されているという。


鐘楼の周りには虚空蔵菩薩から始まり不動明王まで、十三仏が並んでいた。


参道左側には大きな樹木が多い。そんな中に大きな光背を持った弘法大師像、弘法大師遠忌供養塔が立っていた。


その先には「木遣塚」火消しや鳶が唄う木遣を後世に伝えるものらしい。奥のほうにたくさんの小さな地蔵像に囲まれて大きな子育て地蔵像が立っている。


さらに参道を進むと本堂手前、ほぼ中央に阿弥陀如来立像が立っていた。ここは境内の重要な分岐点、正面に本堂、右に進むと東門、西に進むと奥の院、北西に観音堂となる。



丸彫りの重厚な阿弥陀如来立像。顔の右半分が風化の為はっきりしない。右手が施無畏印、左手が与願印だが、指先が欠けている。


蓮台の正面に「三界萬霊」その下の六角形の台の二面に四つの戒名と命日。命日は元和年間から寛文年間。造立の時期はその後だろうから1670~1700年ころか?


笹目通りに面した東の入口から本堂へ向かって見よう。石灯籠などの並ぶ参道の途中に山門、その先にも参道が続く。


参道左側 道標 宝暦3(1753)石塔の正面「東高野山 長命寺」塔の右側面に造立年月日。左側面に願主は個人名。台の正面 浅草 田町 道□ 講中と刻まれていた。


続いて 弘法大師供養塔 塔の正面「弘法大師」左側面に 左 しゃくじい 三宝寺。道標になっている。


東参道の最後に一対の大きな石灯籠 正徳2(1712)が立っていた。


竿部「奉納石灯籠一基」武州増上寺、続いて文照院殿 尊前。文照院は徳川六代将軍家宣のこと。その横に正徳二壬辰歳 十月十四日、これは家宣の命日にあたる。この石灯籠は芝 増上寺の家宣墓所に立っていたものだろう。後程見るが同じような石灯籠が長命寺内には何対か立っている。


石灯籠の先、左側に三界萬霊塔 安政4(1857)仁王門から見えていた石塔がこれである。大きな基壇に厚い台。その上の大きな角柱型の石塔。塔の正面 梵字「ア」の下に「三界萬霊」台の正面には「大施餓鬼塔」と刻まれる。塔の右側面には梵字五文字。「バン」「ウン」「タラーク」「キリーク」「アク」で全体でなんと読むのだろう?左側面と裏面には小さな文字で銘文が刻まれているが、彫りが薄く、また光線の加減でほとんど読み取れなかった。


本堂手前の阿弥陀如来像のところから西を見てみる。この西の区域は、開放的で明るい境内とは対照的に大きな木が多く、昼なお暗い、いかにも霊場らしい雰囲気が漂っている。写真左側が奥の院参道入り口。その右側には多くの石碑、石塔などが立っていた。


木々の中、大きな屋根の下に木造の六角堂。「木遣地蔵尊」と書かれた額が掛かっていて中には地蔵像が安置されている。この写真は去年の7月に撮ったものだが、先日行ってみた時にはこの額が外されていて中は空っぽ、堂の前には赤いパイロンが立っていた。修繕が始まったところなのだろうか?


その左隣 大きな基壇の上、弘法大師供養塔。蓮台、敷茄子、三段の台を持ち、「木遣地蔵堂」の屋根に届かんばかりの高さである。長命寺の石塔はスケールが大きく立派なものが多い。


写真左側、ここが奥の院参道入口になる。入口左手前に「右 東高野山道」と刻まれた道標、右手前に「東かうや山おくのいん入口」と刻まれた石塔が立っていた。奥に見える石灯籠は増上寺系ではなく昭和年間造立の新しいもの。その先から奥の院参道が始まる。参道はまっすぐ西に延び、墓地の入り口で北へと向きを変える。御影堂(大師堂)のある奥の院までの長い参道の両脇にはおびただしい数の石塔が並んでいた。


参道の左側から見てゆこう。ブロック塀の前には北向きに三十数基のさまざまな種類の石塔が立っていて、その中にはいくつかの墓石もあるが、それでも見るべき石仏の数は多く、写真は特別なもの以外は一基一枚を基本にしたい。


入口近くに立つ六観音勢至八面石幢 寛政8(1796)各面に六観音と勢至菩薩の種子と名前を刻む。裏面に造立年月日。四角い台の正面に願主は個人名。続いて講中三拾貳人と刻まれていた。


大きな石碑をひとつ挟んでその隣 丸彫りの地蔵菩薩立像 享保4(1719)欠損なく美しい。塔の正面上部に梵字「カ」両脇に「奉誦光明真言三百万遍為二親菩提也」


続いて 聖観音菩薩立像。紀年銘は無く個人の墓石だろう。台の正面、風化の為はっきりしないが獅子が彫られているようだ。


その隣 巡礼供養塔 天保3(1832)塔の正面に「月山湯殿山羽黒山 四國西國秩父坂東百 拜禮供養塔」各地の霊場巡礼を果たした記念の造塔だろうか?


またひとつ石碑を挟んでその奥に地蔵菩薩立像 貞享3(1686)舟形光背に円形の頭光背を持った延命地蔵を浮き彫り。光背左脇に造立年月日。右脇に為證心菩提。僧侶の墓石だろう。台の正面に蓮の花が彫られていた。


その隣 聖観音菩薩立像 寛文8(1668)寛文期らしい舟形光背に未敷蓮華を手に与願印の聖観音菩薩を浮き彫り。彫りは細かく充実している。これも僧侶の墓石のようだ。


続く舟形光背を持つ阿弥陀如来立像と丸彫りの地蔵菩薩立像はいずれも個人の墓石だった。


やっと庚申塔の出番。青面金剛像塔が二基続く。左 庚申塔 享和元年(1801)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。塔の右側面に造立年月日。下の台の正面に豊嶋郡谷原村 講中貳拾三人。願主は個人名。右側面に右 所沢道。左側面には左 大山道 田無へ二リと刻まれていた。


衣装から覗く胸や、手足は生き生きと彫られていて丁寧な仕事がされている。残念なことに像の損傷が著しい。例によって青面金剛の顔はつぶれているがこの場合は風化のためかもしれない。左手に持つのはショケラだろうが、まるでぼろ雑巾のように見える。


邪鬼は下半身だけが残り、頭部は青面金剛の右足とともに破損していて原型をとどめない。三猿は両脇の二匹が手足が細長く、特に右の猿は猿というよりも人間のようにも見えた。


右 庚申塔 正徳2(1712)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。こちらは左隣の庚申塔よりも90年ほど古いものだが美しい状態を保っている。光背右脇「奉造立庚申供養」左脇に造立年月日。


邪鬼は磐座の上に突っ伏している。下の三猿も岩場に三者三様、そっぽを向く。邪鬼と三猿の間の部分に七名の名前が刻まれていた。


その奥に二基の小型の像塔。左 聖観音菩薩立像 元文3(1738)


右 如意輪観音坐像 宝永8(1711)二基とも個人の墓石である。


続いて正面に五輪塔を刻んだ墓石 慶応3(1867)、素朴な小型の宝篋印塔 寛永7(1630)、そのあとには五基の馬頭観音塔が並んでいた。そのうち三基は文字塔で塔の正面に「馬頭觀世音」と刻まれている。


左から馬頭観音塔 明治30(1897)


2番目 馬頭観音塔 明治40(1907)


3番目 馬頭観音塔 大正12(1923)


4番目 馬頭観音塔 文化8(1811) 塔の上部には、顔は欠けているが蓮台の上に馬口印を結ぶ馬頭観音坐像だろう。その下に「馬頭観世音菩薩」両脇に造立年月日。


右端 馬頭観音塔。塔の正面は剥落している部分が多く、中央あたりに「馬頭觀」、その左に四月という文字が見えるのみで造立年は不明。上部は蓮台と像の跡が残っていて、ここにはやはり馬頭観音坐像が彫られていたものと思われる。


後には十数基の比較的小さな石塔が並んでいて、そのほとんどが個人の墓石であるが、その中に一基だけ三界万霊塔 文化7(1810)があった。正面中央「三界萬霊」右脇に常燈明日掛講中面々、左脇に「為現當二世安樂」右側面に長命寺現住 法印隆成代。左脇に「為地蔵尊造立之」とあるがどの地蔵尊像のことだろうか、興味深い。

 


奥の院参道西行き、右側にも十数基の石塔が南向きに並んでいるが、そのすべてが文字塔で、しかも墓石が多い。写真右側、大きなシイノキの右脇に小型の馬頭観音塔、その左脇に庚申塔の文字塔、列の最後のほうにもうひとつ庚申塔が立っていた。


まずは馬頭観音塔 明治38(1905)駒型の石塔の正面中央部は剥落。 梵字「ウン」の下に「馬」だけが残っているが「馬頭觀世音」だろう。両脇に造立年月日。明治卅八、左も八(月)と思われる。


シイノキの左脇、庚申塔 明治14(1881)角柱型の石塔の正面「庚申塔」


塔の右側面に造立年月日。左側面に谷原村 増嶋五右エ門 同村 田中大五郎 親類七名。長命寺にある多くの石塔に施主、願主として「増嶋」の名前が見られる。調べてみると長命寺の開基とされる慶算阿闍梨は後北条氏の一族である増島重明という武士で、仏心深く出家して高野山で修業、弘法大師自作の仏像を得てこの地に持ち帰り、高野山を模して大師堂を建ててその仏像を祀ったという。長命寺はもともと増島氏ゆかりのお寺であり、江戸時代から明治時代に至ってもその子孫にあたる人たちが長命寺を支える大事な役割を果たしてきたということだろう。



参道右側の石塔群、最後から2番目 庚申塔 宝暦11(1761)角柱型の石塔の正面「庚申待供養」左脇に武州谷原邑 講中廿七人。


塔の右側面に造立年月日。左側面に願主とあり、やはり増嶋氏の名前が刻まれていた。


参道西行きの突き当り、墓地の入口に大きな木が立っていて、その手前に二基の石塔が並んでいた。


左 五輪塔 万治3(1660)こちらは台の正面に戒名が刻まれていて墓石である。


右 三界万霊塔 天保2(1831)塔の上、蓮台に地蔵菩薩坐像を載せる。お地蔵様はお腹のあたりで手を組み宝珠のようなものを持っている。


塔の正面「三界萬霊」両脇に造立年月日。下の台の正面に願主とあり、右のほうから長命寺十八世 法印看□代、続いて四谷などの地名、本覚院などの銘が刻まれ、最後に牛込の石工の名前が刻まれていた。


塔の右側面上部に先祖代々とあり、下のほうには増嶋氏をはじめ16の名前、最後のほうには當山講中、志面々と刻まれている。


左側面にもやはり上部に先祖代々とあるが、こちらはその下のほうに戒名、特に童子が多く、幼子を失った人たちがわが子の成仏をお地蔵様におすがりしたものだろう。

 


参道が北へ向きを変える地点から奥の院を望む。途中、本家高野山を模して造られた小さな御廟橋を渡ることになるが、その橋の手前両側にも石仏が並んでいた。


左側には三基の石塔。奥が墓地でオープンスペースのため光があふれ、こちら側にカメラを向けるとどうしても逆光状態になって撮影が難しい。


左 丸彫りの地蔵菩薩立像。銘文が見当たらず詳細は不明。錫杖、宝珠ともに健在。体のバランスが微妙で、子供のような体形をしている。


中央 地蔵菩薩立像 元禄12(1699)舟形光背にかなり厚く地蔵菩薩立像を浮き彫り。個人の墓石で像も小さいのだが、幼子のように無垢な顔立ちのお地蔵様は生き生きとしていて今にも動き出しそうだ。


右 出羽三山観音霊場順礼供養塔 文化15(1818)角柱型の石塔の正面「月山湯殿山羽黒山 秩父西國坂東 百番順禮供養塔」下の台の正面に「依田」とあり、個人の供養塔のようだ。右側面「先祖代々一切聖霊為菩提」左側面に造立年月日。続いて江戸牛込横寺町 施主は個人名が刻まれている。


右側には五基の石塔が並んでいた。


右 地蔵菩薩坐像 享和3(1803)?角柱型の石塔の上に左膝を立てて座る丸彫りの地蔵菩薩像を載せる。頭光背、錫杖、宝珠ともに欠損なく美しい。蓮台、敷茄子も豪華。下の台の正面に彫られているのは家紋か。


塔の正面中央に院号付きの居士戒名、右に俗名。左に命日があり、終年廿四。塔の左側面に故人の父は御書物奉行増島藤之介であることが刻まれていて、これも増島家の墓塔だった。


その隣 庚申塔 安永5(1776)唐破風笠付きの角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。青面金剛の顔はつぶされている。


足元に異形の邪鬼が横たわり、その下に三猿。三匹の猿の間に二鶏という構図は珍しい。


右側面には 右 田中道。奥に 武州豊嶋郡谷原村講中拾二人。願主は個人名。


塔の左側面に造立年月日。続いて大きな字で左 石神井みち。さらに二世あんらくの為と刻まれていた。


3番目 大乗妙典供養塔 天保4(1833)角柱型の石塔の正面上部に合掌型の地蔵菩薩坐像を浮き彫り。その下に「奉納大乗妙典日本廻國供養塔」両脇に天下泰平・日月清明。


塔の右側面に造立年月日。左側面には下総國葛飾郡櫻井庄内領とあり、左下に願主二名の名前が刻まれている。


続いて地蔵菩薩立像 文化10(1813)風化の為に頭部の損傷が著しい。


合掌する手の先も崩れ落ち、足元には剥がれ落ちた頭の一部らしいものが残されていた。


塔の正面中央「講中面々二世安樂也」右脇に造立年月日。左脇に法印隆成造立之と刻まれている。右側面に施主 個人名。左側面に「大阿闍梨法印隆光為菩提也」どうやら高僧の墓塔のようだ。


一番奥に大乗妙典供養塔 明治4(1871)角柱型の石塔の正面上部に阿弥陀三尊種子。その下に「秩父四國西國坂東 奉納大乗妙典供養方墳」塔の右側面に造立年月日。下の台の正面に「田中」とあり、田中家の墓塔だろう。


高野山を模して架けられた御廟橋。この先は参道両脇に石灯籠、六地蔵、宝篋印塔が整然と並ぶ「霊場」らしい雰囲気のエリアになる。

 


橋の先は御影堂まで参道がまっすぐに続く。橋を渡ってすぐ、両脇に二対の竿部が角柱型の石灯籠、その奥に一対の竿部が円柱形の石灯籠が立っていた。


手前の石灯籠の竿部には「奉寄進石灯籠十本内増嶋八郎右衛門重俊」右脇に慶安5年(1652)の紀年銘。左脇には現世安穏後生善所と刻まれている。


奥の石灯籠の竿部には「奉納石灯籠二基」右脇に武州豊嶋郡谷原村、左脇にこれも慶安5年(1652)の紀年銘。左下に施主 増嶋八郎右衛門重俊。


参道右脇、二基の石灯籠の後ろに大きな名号塔 嘉永3(1850)と自然石の石塔。どちらも個人のもの。今回は御影堂までの石仏を一気に見ておきたいので、この先は個人の供養塔については基本的には取り上げない。


参道の左側、橋を渡ってすぐ左に石橋敷石供養塔 享和元年(1801)角柱型の石塔の正面「石橋 敷石 供養」続いて右のほうから金山下橋發起、□長命寺法印源乘、惣願主とあり個人名が刻まれている。塔の右側面に武州豊嶋郡谷原村 石橋 世話人とあり、その下に5名の名前。


塔の左側面に造立年月日。その下に橋石一枚施主、敷石世話人、石橋世話人とあり、さらにその下にそれぞれ一名の名前が刻まれていた。


この石灯籠のゾーンの参道左側の木立の中、墓地のブロック塀の前にたくさんの石仏が並んでいる。一通り銘を確認してみたがそのほとんどが個人のものだった。


石灯籠の先には大きな六地蔵菩薩像が並ぶ。丸彫りの六地蔵菩薩坐像は初見。銘は見当たらず詳細は不明。資料によると寺伝に慶安5年(1652)の造立と記録されているという。


右と左にそれぞれ三体。その大きさ、彫りの様子、顔の表情などがほとんど同じで、六体は一緒に奉納されたものだろう。


左手前の未敷蓮華を持つ地蔵菩薩。風化の様子はほとんど見られず欠損もない。どっしりと座る姿は慈愛にあふれていて美しい。


六地蔵の後ろ、庚申塔を中心にして五基の石仏が並んでいた。


庚申塔 元禄8(1695)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。青面金剛の顔は完全にはがれ落ちてのっぺらぼうだ。


光背の中ほど、両脇に造立年月日。青面金剛の足元のかたまりは邪鬼ではなくて磐座だろう。元禄期の庚申塔では邪鬼無しのケースは珍しくない。三猿は洞穴に並んでいるように見える。三猿の下の部分に増嶋氏を筆頭に10名の名前が刻まれていた。


その右隣 地蔵菩薩立像 延享5(舟形光背に浮き彫りされたお地蔵さまは目がつぶされ、右手に持つ錫杖の上部は欠けていた。光背右脇に「男女念佛供養」左脇に造立年月日。その下、両脇に武州豊嶋郡谷原村講中。念仏供養塔ということになるだろう。


その奥、御影堂の近くまで、参道脇の六地蔵、宝篋印塔、石灯籠の裏に、たくさんの石塔が並んでいるが、やはり個人のものが多い。


その中に小さな一石双体仏。同じ顔をした二人が並んで合掌している姿がほほえましい。銘は見当たらず詳細は不明。


地蔵菩薩立像 天和元年(1681)舟形光背の一部と宝珠を欠く。


馬頭観音塔 昭和35(1960)角柱型の石塔の正面「奉納馬頭觀世音」右脇に日月火水木金土。何の意味があるのだろうか?施主が大野馬蔵、これも冗談か?


さて参道に戻って、六地蔵の奥には十基の宝篋印塔が並ぶ。外反する隅飾、発達した相輪などが江戸時代初期のころの宝篋印塔の特徴と言えるだろう。


十基の宝篋印塔の基礎の銘は二種類。こちらは基礎に「為逆襲□□□現世安穏後生善所也」左のほうに増嶋氏の名前と慶安5年の紀年銘。もう一つは「為権大僧都法印□□菩提也」こちらも増嶋氏の名前と慶安5年の紀年銘が刻まれている。


参道の最後には三対の石灯籠が並ぶ。その竿部の銘を見ると御廟橋近くの二対の石灯籠と全く同じだった。参道の最初と最後、合わせて「石灯籠十本」になる。


御影堂のほうから参道を振り返ってみよう。三対の石灯籠、十基の宝篋印塔、六地蔵、そしてまた三対の石灯籠と、深い木立の中に多くの石塔が整然と並ぶその姿は壮観だ。

長命寺は慶長18(1613)年に増島氏によって創建された増島氏の氏寺であるが、その後徳川幕府の庇護を受け、1648年には三代将軍家光により朱印地を賜り、御朱印寺として著名になったという。ここの石灯籠と宝篋印塔に刻まれた慶安5年4月21日は徳川家光の命日の一年後にあたり、これらの石塔は徳川家光の一周忌にその菩提を弔うためにこの参道に安置されたものではないだろうか。

 


御影堂の周りは本家に倣って、四隅に五重塔を配し、お堂を取り囲むように七観音、十三仏、十王など、大型の石仏が多数並んでいる。お堂の左脇、墓地のブロック塀の前に五基の石仏が並んでいた。


左から 聖観音菩薩立像 享保17(1732)丸みを帯びた舟形光背に、なで肩で下半身がふっくらとした聖観音菩薩像を浮き彫り。舟形光背の石仏は1mくらいのものが一般的だが、この御影堂の周りの石仏は2mほどの大きなものが多く見られる。


左手に蓮を持ち右手は与願印。光背右脇「雲山開光法師」左脇に造立年月日。僧侶の墓石のようだ。


その隣 千手観音菩薩立像。大きな舟形の光背に十六臂の千手観音像を浮き彫り。銘は見当たらない。


頭上の十一面の化仏、八対の腕の彫り、隅々まで行き届いて明快。柔和なお顔も素晴らしい。紀年銘がなく造立年月日がわからないのは残念だが、石質、像容などから江戸時代初期のものと考えたい。


続いて 聖観音菩薩立像 明暦元年(1655)舟形光背に右手施無畏印、左手与願印の聖観音菩薩像を浮き彫り。光背の空間に余裕がありゆったりとしている。


手が大きく、特に左手の与願印は手首から内側に傾きユニーク。光背右脇「為臺□妙眞禅定尼菩提也」左脇に造立年月日。その下に施主として増嶋氏の名前が刻まれていた。


その隣 馬頭観音菩薩立像 明暦元年(1655)舟形光背に「かっ」と口を開いた三面六臂の馬頭観音を浮き彫り。光背の右側面、狭いところに「為権大僧都法印圓嚴菩提也」左側面に造立年月日。その下に刻まれた施主名は隣の観音像と全く同じ増嶋氏。同じ人物が二カ月ごとにこの二基の立派な石仏を造立したことになる。


馬頭はくっきり。体の前の手、第1手の右手に鈴を持ち左手は与願印。さらに第2手左手には蓮の花を持ち、馬頭観音としてはかなり個性的。正面の顔は忿怒相だが、両脇の顔は忿怒相とは程遠く、慈悲相とすべきか?


右端 地蔵菩薩立像 延宝5(1677)ここでは唯一の丸彫り像。時代を考えると驚くほどよく保存されていて彫りもきれい。お地蔵様はちょっと小首をかしげるようなポーズで六角形の台の上の蓮台に佇んでいた。左手の袖の縁のところに梵字「カ」その下に権大僧都□昌。右手の錫杖に造立年月日が刻まれている。


地蔵菩薩像の先、五重塔を囲むように三基の石像が並んでいた。


ここから東のほうを見てみると、御影堂のちょうど真裏のあたり、石像は全部で十基、閻魔十王である。北西と北東の二つの五重塔の間が十王ゾーン。見やすいように明るく加工したが、実際は薄暗い中、ひときわ大きな閻魔大王の前に佇めば、地獄のお白洲に引き立てられた罪人といった心細い気分になる。


中央の閻魔大王。右手に持つはずの笏を欠く。眉をつり上げ、目を大きく見張り、口を開けて忿怒相を表す。下の台の正面には蓮の花が美しく彫られていた。写真右後ろに五輪塔が見える。


中央の閻魔大王の背中に「右志者為三界万灵有縁無縁菩提也」両脇に紀年銘。風化も見られずきれいだったので新しいものかと思えるが、この紀年銘を見ると承応3(1654)江戸時代初期造立の貴重なものということになるのだが・・・


閻魔大王の後ろ 五輪塔 慶安5(1652)地論の正面 中央に梵字「ア」右脇に「大猷院殿」とあり、左脇に慶安5年の紀年銘。前回参道脇で見た石灯籠、宝篋印塔などと同じく徳川三代将軍家光の一周忌にあたり奉納された供養塔である。こちらの台にもきれいな蓮が彫られていた。


十王ゾーンの奥、五重塔の脇の細道の先にも閻魔像らしきものが見える。


お腹の部分が大きく剥落した閻魔様。ご住職が盗賊に襲われたときに身代わりになって斬られたという伝承を持つ「身代わり閻魔」ということだが、なぜここにひとり離れて祀られているのだろうか?


先日まで見落としていたのだが、背中に銘が刻まれていた。紀年銘は承応3年8月15日、中央の銘は「右志者為三界万灵有縁無縁菩提也」これは現在見られる十王の閻魔大王の背中の銘と全く同じだ。腹部あたりに見られる損傷、像の一部に風化も見られ、こちらが本来の閻魔大王で、現在の閻魔大王は再建されたもの、その際背中の銘をそのまま移したと考えるのが妥当だろう。お役目を終えられ、

ここに安住の地を得て閻魔様は何を思うのだろうか。

 


十王ゾーンの東、中央に立つ大きな石灯籠を囲むように十三基の石仏がコの字型に並んでいた。いずれも丸彫りの坐像で、かなり大型の十三種類の石仏が一堂に会した光景は壮観だ。紀年銘は確認できないが、資料によると、承応3年(1654)徳川三代将軍家光の供養のために造立されたものだという。


中央の石灯籠 慶安5(1652)竿部正面に「大猷院殿 尊前」右脇に武州谷原村、左に造立年月日。参道の宝篋印塔、石灯籠、閻魔像裏の五輪塔と同じく、徳川家光一周忌にあたり造立されたものである。十三仏とともによく保存されていて美しい状態を保つ。十三仏に囲まれてそのコンダクターをつとめるにはふさわしいものと言えるだろう。


時計回りに十三仏を見てゆこう。最初の四基の石仏は南向きに並んでいた。1番目 釈迦如来像。如来特有の螺髪・白毫。これは阿弥陀如来、阿閦如来、薬師如来に共通する。右手施無畏印、左手与願印と思われるが、いずれも指先を欠く。


2番目 普賢菩薩像。白象の背に乗せた蓮台に座る姿が一般的だが、ここでは他の十二仏に合わせるように同じような台の上の蓮台に座っている。左手には蓮華を持っている。右手は手のひらを前にして親指と薬指小指を折り、人差し指と中指を伸ばしているように見えるが、伸ばした二本の指先が欠けていて今一つはっきりしない。左手に持った蓮華を右手で開花させようとする印相だろうか。


3番目 弥勒菩薩像。両手で五輪塔を持つ。こころもちうつむき加減で内省的な静かな表情をしている。


4番目 聖観音菩薩像。左手に未敷蓮華。右手は施無畏印。頭上に一般的に見られる阿弥陀如来の化仏は無く他の菩薩同様被り物を付けている。


ここから五基の石仏は西向きに座る。5番目 阿弥陀如来像。お腹の前に阿弥陀定印。


6番目 金剛界大日如来像。智拳印を結ぶ。如来の中で唯一宝冠をかむっている。


7番目 虚空蔵菩薩像。儀軌の通り右手に宝剣、左手に如意宝珠を持つ。


8番目 阿閦如来像。左手で衣の端を握る。右手は指を下に伸ばす降魔印のようだ。


9番目 勢至菩薩像。結跏趺坐し合掌する。鼻の先が破損していた。


ここから四基は北向きに座る。10番目 薬師如来像。右手施無畏印、左手に薬壺を持つ。釈迦如来、阿弥陀如来、阿閦如来、薬師如来、この四体の如来像は尊顔の様子がほぼ同じで、印相、持物、種子などで判断するしかないが、薬師如来は薬壺の有無だけで比較的区別しやすい。


11番目 地蔵菩薩像。右手に短い錫杖、左手には小さな宝珠。円頂、白毫、三眼。口元に薄く微笑みを浮かべ、その尊顔は慈愛に満ちて美しい。


12番目 文殊菩薩像。右手に宝剣、左手に経文を持つ。


最後は不動明王像。口をへの字に結び目を吊り上げてにらみつける。右手に剣、左手に羂索を持つ。他の十二仏の台には蓮の花弁が彫られているが、こちらの台だけは荒々しい磐座のようだ。不動明王と言えば火焔の光背を持つことが多いが、ここでは他の十二仏と合わせるように光背を省いている。

以上十三仏を見てきたが、いずれも大型の丸彫りの坐像であること、結跏趺坐で座るお姿、台の様子などから、この十三の石仏はほぼ時を同じくして造立されたものと考えられる。江戸幕府開府以来50年ほど過ぎて、戦のない平和な時代が続き、経済力もそれなりに上がってきて生活に余裕もでてきたことだろう。それにしても、これだけ多くの石仏の造立となると、それなりの財力と信仰心が必要となり、たくさんの人たちの助力があったのかもしれない。どのような人たちがその造立にかかわったのだろうか。紀年銘も銘文も見つからないのは本当に残念なことである。

 


十王ゾーンと十三仏ゾーンの間から南へ進むと、御影堂の周りをぐるっと回って正面に戻ることになるが、その途中、御影堂の東には七基の石塔が並んでいた。七基のうち左の四基は一般的な規模の石仏、右の三基は江戸時代初期によく見られる大きな光背を持つ石仏でいずれも観音菩薩像である。この三観音とお堂の西側に並んでいた四観音を合わせて七観音というのだろう。


左から 聖観音菩薩立像 天保4(1833)台の正面に大きく「堀本氏」とあり、個人の家の供養仏のようだ。光背裏面中央に「先祖代々」両脇に造立年月日が刻まれていた。


江戸時代中期以降、特に寛政期あたりから石像の彫りは装飾的な傾向が強くなるようだ。体のライン、蓮の茎、裾の跳ね上がった衣装の流れ、指の動きなど、曲線的な表現は華やかな印象を受ける。観音様は優しい微笑みを浮かべていた。


その隣 地蔵菩薩立像 享保3(1718)形の良い舟型光背に地蔵菩薩立像を浮き彫り。光背右脇「奉造立地蔵尊念佛講結衆」その下に砂場内廿人、前□内五人。念佛供養塔というべきだろう。光背左脇に造立年月日。その下に武州葛飾郡西葛西亀有村。東京の大きな寺院の石仏で時々遠い地域の地名を目にすることはあるが、墨田川、荒川を越えてさらに遠く、亀有村というのは驚く。足元の蓮台部分には蓮の花弁が四重に彫られていた。


長命寺の石仏はいずれも保存が良く美しいものが多い。横から見るとよくわかるが、まるで丸彫りのように立体的。三か所に宝珠の付いた円形の頭光背。錫杖も宝珠も大きく立派でお地蔵様は堂々としている。


同じく舟形光背型の地蔵菩薩立像 宝暦4(1754)光背上部に梵字「カ」その下にこちらも美しい地蔵菩薩像を浮き彫り。像の大きさ、光背の形、全体のバランスが隣のお地蔵様ととてもよく似ている。光背両脇に渡って「奉造立供養地蔵尊一軀 為現當二世諸願成就成就成」右下に造立年月日。左下に當村講中 同行三拾人と刻まれ、講中仏である。


これもまた丸彫りのような厚みのある浮き彫りである。尊顔は眉目秀麗。ハッとするような美しさだ。


その隣 小型の弥勒菩薩立像 明治25(1892)角柱型の石塔の正面に弥勒菩薩像を浮き彫り。風化が進み五輪塔を持つ両腕は細くなっていて心もとない。像の右脇「彌勒菩薩」左脇には梵字「ユ」の下に「壽福萬」台の正面右脇に發願主、左脇に信者中とあり、その間に8名の名前。側面にも数名の名前が刻まれている。


塔の裏面上部が破損していて側面の銘の一部は欠けていた。左側面に造立年月日。さらに東高野山長命寺 二十四世権中僧都老田亮意代建之。右側面には開眼大導師 石地蔵八萬四千體建立發願主 天台久修業菩薩地蔵比丘妙運大和尚と刻まれている。石地蔵84,000体造立の大願は成ったのだろうか?


続いて三体の観音菩薩像。いずれも大きな光背を持ち、彫りも厚くボリュームがある。まず最初は聖観音菩薩立像 承応4(1655)体全体から見ると頭部が大きく、肩に担ぐように持った大きな未敷蓮華、グローブのような右手、ふくらみを持った下半身など、一見してアンバランスな印象を受ける。


蓮華の長い茎の一番下をを左手で持ち、右手は与願印かと思うと、親指が内側にあるので太ももに手を当てる形になる。光背右脇「奉造立正観音」その下に造立年月日。左脇には右志者為源覚常運禅定門一周忌菩提也とあり、その下に施主は個人名が刻まれていた。


その隣 如意輪観音坐像。上部が内側に反った大きな舟形光背に右ひざを立てた如意輪観音半跏坐像を浮き彫り。広い光背に紀年銘などは見当たらないが、光背の形から見て寛文期あたり江戸時代初期のものだろう。


像はやはり彫りが厚く丸みがあり、女性的で温かみがある。


右端 十一面観音立像。頭上の十一面、衣装の模様など彫りは細かく丁寧。光背の上部を欠き、これも紀年銘などは見当たらなかった。


左手に蓮の開花と蕾の入った水瓶を持ち、右手には細い棒と数珠を持つ。ここに並ぶ三体の観音様はいずれも丸顔であまりほかでは見られないような個性的な顔立ちをしていた。洗練された美しい石仏もいいが江戸時代初期の石仏の素朴な味わいも捨てがたい。

 


本堂手前の阿弥陀如来像のところから北西に向かう参道の奥に観音堂がある。さらにその観音堂の前から少し左側に曲がって進むと御影堂の前に出る。


観音堂は何度か火災のために焼失し、現在の観音堂は昭和54年に再建されたものだという。正面手前に一対の大きな石灯籠が立っていた。


右の石灯籠 正徳2(1712)竿部正面に「文昭院殿 尊前」右脇に「奉納石灯籠一基」武州増上寺。これは東参道から進んで本堂手前で見た石灯籠と全く同じものだ(9月24日の記事参照」


左の石灯籠 正徳6(1716)石灯籠のつくりは細部に至るまで右の石灯籠と全く同じ、ただ銘だけが異なる。竿部正面に「有障院殿 尊前」こちらは江戸幕府七代将軍徳川家継の墓前に立っていたもので、やはり増上寺から移されたものだろう。一対の石灯籠としたが左右の石灯籠は全く同じというわけではなかったようだ。


観音堂の手前から斜めに御影堂までの参道が続く。左手前に立つ立派な石灯籠は昭和54年に増島氏によって奉納された新しいもの。その先、参道の両脇には四対の石灯籠、うち二対は「文昭院」残り二対は「有章院」の銘を持つ。いずれも増上寺にあった石燈籠である。参道の左側、石灯籠の後ろにいくつか石塔が立っていた。


手前から 十二日講引導者像。右が初代引導者像で明治35(1902)造立。左が二代目引導者像で明治45(1912)造立。巡礼の旅姿だろう。


続いて 日曜講引導者像。わらじを履き鈴を持つ。笠に同行二人とあり、弘法大師霊場巡礼の姿である。


その隣 弘法大師像 明治35(1902)三鈷杵と数珠を持つ弘法大師坐像。下の台の正面に靴と水差しが彫られていた。


続いて五輪塔 明治38(1905)下の基壇の中が「骨納塔」になっていて、平成6年に全面改修されたものだという。


やがて御影堂の近くに至る。石灯籠の向こう右側に、御影堂の四つの五重塔のうちの南東の五重塔と、その先に大きな「弘法大師霊場」と刻まれた石塔 明治45(1912)が立っていた。


御影堂の西脇、丸彫りの地蔵菩薩塔の脇から墓地に入ってすぐ右に歴代住職墓地がある。写真は西から墓地を写したもの。コの字型に並んだ墓石群。右側に北向きに十基、正面は西向きに十基、左側には6,7基の墓石が並んでいた。正面が古く左側が新しいものなので、ここでは時計と逆回りに右から像塔を中心に見てゆこう。


右から2番目 第16世 法印鏡圓 寛政9(1797)紀年銘は命日と思われる。舟形光背に阿弥陀如来立像。


正面 右から3番目、宝篋印塔の隣 第9世 法印快慈 天和2(1682)舟形光背に阿弥陀如来立像。


その隣 第11世 法印宥保 元禄16(1703)唐破風笠付きの角柱型文字塔。


続いて 第12世 法印宥軌 正徳3(1713)舟形光背に右手与願印、左手に未敷蓮華を持つ聖観音菩薩立像。


その隣 第13世 法印鏡覺 宝暦3(1753)隅丸角柱型の石塔の正面 梵字五文字。上部に願文。


その隣第15世 法印慈観 天明7(1787) 澄丸角柱型の石塔の正面を彫り窪めた中に五輪塔を浮き彫り。


正面の左端 第17世 法印隆成 文化12(1815)角柱型の石塔の上に丸彫りの地蔵菩薩坐像。円形の頭光背を負い、錫杖と宝珠を持つ。


左側の右から2番目 第18世 法印宥辨 天保11(1840)角柱型の石塔の上、重厚な蓮台に左足を立てた丸彫りの地蔵菩薩半跏坐像。やはり円形の頭光背を負い、錫杖と宝珠を持つ。


3番目 第21世 法印泰英 明治6(1873)角柱型の石塔の上、これも蓮台に左足を立てた丸彫りの地蔵菩薩半跏坐像。左手に宝珠、右手のほうはなにも持たず空手だが、錫杖が欠けたものか。


4番目 第22世 法印良尊 明治12(1879)角柱型の文字塔。



5番目 第23世 法印亮意 明治44(1911)板状の石塔を五輪塔の形に仕上げて5つの梵字を彫る。初めて見るタイプの石塔だ。