高島・八ツ島の石仏

高島集会所 川越市高島30[地図]


県道113号線、九十橋の南から斜め右に入り細い道を進むと、九十川左岸沿いに北へ向かうことになる。橋から100mほど先、道路右側に鳥居が立ち、さらにその向かいに墓地があった。墓地は高島集会所の西になる。


石鳥居の中、右側に二基の石塔が並んでいる。


左 聖観音菩薩立像。右手は与願印、左手に蓮華を持つ。大きな光背の上のほうに断裂跡。ちょうど観音様の首のところで折れてしまったようだ。


セメントの補修跡がかえって痛々しい。塔全体に風化もあり、状態は良くない。両脇に紀年銘が刻まれているが、かんじんの造立年の部分が剥落していた。はっきりはしないが四 丙辰天のようにも見える。となると延宝4(1676)ということになるが、本当のところはどうだろうか?


右 庚申塔。こちらも全体に風化が進み、塔の一部は変形、銘もうまく読み取れない。


塔の上部は一部が崩れ落ち、ひびもはいっている。右上の瑞雲?の下あたりにかすかに「貞享」と見えるが、それ以外はまったく判読できなかった。


下部に彫られた三猿も寂しそうだ。中央の猿は頭部が削れていた。


墓地の入口は南、正面に高島集会所がたち、墓地の向こう、左奥に牛頭天王・弁財天という位置関係になる。墓地に入ってすぐ左脇に二基の石仏が並んでいた。


左 地蔵菩薩立像 宝暦8(1758)丸彫りだが錫杖・宝珠とも健在で大きな欠損は見られない。


蓮台の下、石塔の正面中央に「高嶋村念佛講中」両脇に造立年月日が刻まれていた。


その隣 如意輪観音坐像 天明6(1786)丸彫りの二臂像だが、やや繊細さに欠ける。石塔の正面中央「高嶋村講中」両脇に造立年月日。両側面は無銘だった。


墓地の外、道路に向かって二基の石塔が西向きに並んでいた。


右 馬頭観音塔 文化元年(1604)駒型の石塔の正面に六臂の馬頭観音立像を浮き彫り。風化のために顔は崩れ頭上の馬頭もはっきりしない。ふっくらとした馬口印だけがかろうじて確認できる。


塔の右側面に造立年月日。左側面は一部剥落も見られるが、高嶋村 講中と刻まれていた。


左 自然石の馬頭観音塔 明治39(1906)右端の銘に陸軍駄馬とあり、軍に徴用された愛馬の供養塔と思われる。

稲荷神社 川越市八ツ島50[地図]


九十川の周りは田園地帯で、八ツ島の集落は北の一帯、国道16号線近くに固まっている。そんな集落の中に稲荷神社があった。石鳥居の正面に拝殿。境内右奥には御嶽神社の塚がある。


塚のふもとにある祠の後ろ、隠れるように石塔が立っていた。


庚申塔 宝暦12(1762)駒形の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型二臂。石塔の上部は破損していて日天、月天の一部が欠けている。


二臂の青面金剛像は珍しい。その顔の周辺は雪が積もったように白カビに覆われていた。像の両脇に造立年月日。右下に八ツ嶋村講中。左下に願主一名の名前が刻まれている。


足元には三猿だけが彫られていた。中央の猿が正面を向き。両脇の猿が内を向く構図。その座り方が三者三様、ちょっとだらしなくて面白い。なお、この庚申塔は「川越の石佛」には記載がなく、東京都の庚申塔」を参考にさせていただいた。

八ツ島集会所 川越市八ツ島377[地図]


稲荷神社のすぐ南に八ツ島集会所がある。その同じ敷地内に墓地がひろがっていた。


墓地の入口、集会所に向き合うように六基の地蔵塔が並んでいる。多くは墓石だが、そのうち二基が講中仏だった。


右から2番目 地蔵菩薩坐像 天保2(1831)角柱型の石塔の上に丸彫りの仏像が載るが、非常にユニークな表現。その衣装の様子から地蔵菩薩と考えたい。蓮台、石塔部に比べると像はかなり白い。明らかに石材が異なり像だけがあとから補われたのではないだろうか。


石塔の正面に「念佛講中」右側面に造立年月日。左側面に高嶋村とあり、その下に一名の名前、願主だろうか?さらに八ツ嶌村中と刻まれていた。


左から2番目 地蔵菩薩立像 宝暦7(1757)丸彫りの地蔵菩薩、顔は摩耗していて、錫杖の先が欠けている。


石塔の正面中央に「念佛講中」両脇に造立年月日。塔の右側面には童子戒名、続いて八ツ嶋村と刻まれていた