中央区与野本町

氷川神社 中央区本町東6-7[地図]


本町通りを北に進み、県道215号線八幡を越えてしばらく進むと氷川神社の前にでる。いくつか鳥居をくぐり、多くの石灯篭や狛犬の並ぶ長い参道の先に拝殿が立っていた。


拝殿の左側の一角、石祠の左隣に石塔が立っている。


庚申塔 享保4(1719)四角い台の上の角柱型の石塔。下部に彫られた三猿が目を引く。


正面を彫りくぼめた中に三行の銘文。三猿は両脇の猿が内を向く構図。


塔の右側面に造立年月日。その下に従是右 大宮道 奥刕道。

左側面には従是左 川越道と刻まれていて道標になっている。


塔の上に坐像の膝下の部分だけが残っていた。丸彫りの青面金剛の坐像と思われるがはっきりした記録はないようだ。

氷川神社西路傍 中央区本町東6-7-12向い[地図]


氷川神社の西の道路向い、小堂の中に石塔が立っていた。写真後ろに移っているのは大きなスーパーで、現場はそのスーパーの駐車場の東側出口のすぐ北になる。


庚申塔 正徳6(1716)唐破風笠付き角柱型の石塔の正面を彫りくぼめて、縁の上部両脇に日天・月天。中に「青面金剛庚申供養塔」両脇に天下和順・日月清明。


四角い台の正面に三猿が彫られていた。


塔の両側面に造立年月日。


三猿が彫られた台の右側面に十数人の名前。


左側面にも十数人の名前が刻まれているが、最初が華蔵寺、続いて宗□法師となっている。

長伝寺 中央区本町東5-13[地図]


本町通りと八幡通りの交差点のすぐ南を左折して東へ進むと長伝寺の門の前にでる。この門はいつも閉まっているが、門の前から南へ進むと通用口?があって境内に入ることができた。門から正面の本堂に続く参道の左側、朱塗りの鐘楼の次に無縁塔がたっている。


丸彫りの地蔵菩薩塔を頂点に、おびただしい数の無縁仏を高く積み上げた無縁塔。正面には舟形光背型の地蔵菩薩塔や如意輪観音塔が整然と並ぶ。


無縁塔の裏、北向きに大乗妙典供養塔 延享元年(1744)角柱型の石塔の正面「大乗妙典一千部成就」


塔の右側面 大きな字で本蓮社邦誉…周りの石塔が近すぎて下部は確認できなかった。


左側面に造立年月日。続いて願主一名の名前が刻まれている。


本堂のすぐ左、個人の墓所ではあるが目立って立派な丸彫りの地蔵菩薩塔が立っていた。


地蔵菩薩塔 貞享3(1686)四角い台を三段重ねた上に反花付き台を乗せ、その上に蓮台に立つ地蔵菩薩像。総高3mを超す。


反花付き台の正面「三界萬霊 六親眷属 有無 縁等」


裏面に「武刕江戸 小船町 施主 丸氏 松誉 宗貞」続いて造立年月日。
 

同じ墓所の西の隅に丸彫りの石猿坐像 貞享3(1686)顔ははっきりしない。


背中に造立年月日。大地蔵塔と同じ紀年銘である。


ひとつ墓石をはさんでもう一基石猿坐像。こちらも背中に同じ造立年月日が刻まれていて、おそらくこの一対の石猿は大地蔵菩薩塔といっしょに造立されたものなのだろう。


隣の墓所の中、地蔵菩薩塔 享保7(1722)丸みを帯びた台の上、鋭角的な駒型の石塔の正面に地蔵菩薩像を浮き彫り。墓石ではあるが他に類をみない豪華で凝った造りになっている。


輪光背を負って蓮台に静かにたたずむお地蔵様。敷茄子の下に亀が彫られていた。


亀の下に細かい彫り物を施した六角形の台を敷き、その下の丸みを帯びた台の正面には鬼が彫られている。

 

正圓寺 中央区本町西4-3[地図]


本町通り、赤山通り交差点のすぐ北を左折、しばらく進むと道路右手に正圓寺の入口があった。奥に山門が立っている。


山門を入ると左手に二基の地蔵菩薩塔が並んでいた。



左 地蔵菩薩立像 享保18(1733)角柱型の石塔の上に分厚い敷茄子。蓮台に立つ端正な顔立ちのお地蔵様。白カビもなく、丸彫りにもかかわらず欠損なく美しい。


石塔の正面「寒念佛供(養)」念仏供養塔である。右側面に造立年月日。左側面に當町上宿 同行廿七人と刻まれていた。


右 輪廻車のついた角柱型の石塔の上に地蔵菩薩半跏坐像 宝暦7(1757)全体に風化が進む。


顔は削れていて首には補修跡があり、両手の先がともに欠けていた。よく見るとこの石塔は蓮台の間につなぎ目が見当たらず、驚いたことに、どうやら坐像、蓮台、角柱型の石塔を一石から造り出したものらしい。


角柱型の石塔の正面、輪廻車の下「南無阿彌陀佛」その下に小さく觀智院十二世 接誉。


塔の右側面 中央上部に「先祖代々」周りに30余りの戒名が並ぶ。


下部には施主 當宿 岸勘右門と刻まれている。


左側面上部に五つの戒名とその俗名、輪廻車の軸の穴の下に造立年月日が刻まれていた。

赤山通り長伝寺南路傍 本町東5-8[地図]


本町通り、赤山通交差点から赤山通りを東に進むと道路左側に小堂の中のお地蔵様と石塔が集められていた。写真左の道を北へ向かうと長伝寺の正門の前にでる。



左の大きな小堂の中 大きな丸彫りの地蔵菩薩立像 造立年不明。錫杖・宝珠を欠く。2mを超す大きなお地蔵様は享保年間あたりの造立か?敷茄子の下が埋まっていて銘が見当たらず詳細は不明。


右の小さな小堂の中 地蔵菩薩立像 造立年不明。蓮台の下が埋まっていてこちらも詳細は不明。像の様子などから、こちらは比較的新しいものと思われる。


小さな小堂の前 西向きに甲子塔 安政3(1856)角柱型の石塔の正面、力強く「甲子塔」その下中央に薄く「脇往還與野上町講中」右脇に引又二里、左脇に川越四里。


塔の左側面 中ほどに大宮十二丁、原市三里、一ノ宮鳥居前十丁、岩槻三里。


右側面は上部に南、中頃に浦和一里、下部に落合村。ここまで七地名、江戸時代後期らしく立派な里程標になっている。


裏面にも銘が刻まれているが、ご覧の状態。隣家のフェンスの金網越しに写真を撮って、そのうちの何枚かを合わせてやっと銘を確認できた。中央に「供養法主普明山三光院権大僧都法印賢前謹誌」右脇に中山道七丁。左上に造立年月日、その下に世話人二名の名前が刻まれている。


道路沿い、南向きに道標 寛政(1796)隅丸角柱型の石塔の正面、深く「右 秋葉大□ 左 石尊大□」塔の下部が土中深く埋まっている。塔の右側面に造立年月日。


左側面下部に与野、原(原市か?と刻まれていた。

赤山橋たもと 中央区本町東4-31[地図]


赤山通りをさらに東へ300mほど進むと鴻沼川にかかる赤山橋の西のたもとに石塔が立っていた。


石橋供養塔 享保11(1726)角柱型の石塔の正面、大きな字で力強く「石橋供養塔」


下部に薄く 願主一名、導師長傳寺速誉□□。その左にも名前らしい銘が見えるが読み取れない。


塔の右側面 上から下まで十段に渡って多くの村の名前が刻まれていた。どの面の銘も薄くなっていて全体に読み取りは難しいが、その中では右側面が一番読みやすい。とりあえず読める範囲で追ってみよう。最上段右から下落合村、上落合村、浦和町、大宮町、与野町中。二段目右から大戸村、中里村、針ヶ谷村、□□村、三室村。三段目右から内□□、戸呂村、□□村、上木崎村、□□村。五段目右から上天沼村、大宮社中、堀ノ内、土手□、上小村田、中小村田。六段目右から下□□、上□村、□□□、上加村、櫛引村。七段目右から五味貝戸、内□□□、下大成、上大成、□□□。上のほうに比べて下のほうが読みにくい。


八段目は全滅、九段目右から原村、中□□、法願寺、□□□、□□□。十段目右から大木戸、上□村、下谷村、□□村、下加村。その下に石工と見えて続いて名前が刻まれているようだがさっぱり読めなかった。


左側面は読めるところだけあげておく。最上段には八王子村と在家村。二段目に五関村と神田村と三条町。三段目に中ノ林村と二ツ宮村。


四段目は無し。五段目は真ん中が佐知川?左端が上大久保。六段目も自信無し


七段目に中嶋村と山久保村、左端は町谷村?八段目は右から関村、鹿手袋、西堀村。九段目右から田嶋村、四ツ谷村、内谷村、曲本村。十段目には飯田村と白幡村。左右両面で合わせて100ヶ村になる。


裏面上部に造立年月日。その下に右から圓乗院、長傳寺、普門院、東明院。さらにその下にもたくさんの銘らしきものが見えるが、村の名前なのか、人の名前なのか、残念ながらうまく読み取ることができない。これまでもいろいろなところで石橋供養塔を見てきたが、だいたいの場合、近隣の多くの村の名前が刻まれていた。当時の人々にとって交通の安全をもたらす「石橋」の重要性は大きく、またその造立は広範囲の人々の助力を必要とする大事業であったということだろう。